市民革命と民主主義

ずっと以前、「市民革命を経ていない国に民主主義は根付かないのか」というご質問があったかと思いますが、考えてみて、やはり答えは「場合による」ということになりました。

つまり問題は、「革命したか否か」というよりもむしろ、「自分たちの手でコミュニティを作り上げたか」「自分たちの手で人間の尊厳を回復できたか」なので、必ずしも国王や法服貴族を処刑する必要はなかったといえます。しかし腐敗の象徴たる修道院などが犠牲になったのはなかば不可避的だと思います。

人によっては、王を追放または処刑することこそが革命のポイントだと思っているようですが、それはおそらく間違っています。国王や皇帝は腐敗のシンボルであって本体ではなく、革命の本旨は前述のとおり「自分たちの手によるプロジェクト」という、自己有効感に類似の現象だからです。

実際、「一君万民」というかたちで国王と民主主義(平等)は同居し得ます。そして、付け加えれば、革命のような大々的なイベントをしなくとも、日々の実践で人々が自己有効感を保持できれば、民主主義の文化的基礎は十分だと言えると思います。

ここで問題になるのは日本の近代天皇制で、これがあらゆる災禍をもたらしたとして戦後ながらく検討の対象となってきましたが、これは天皇制単体ではなく、国家神道や軍部統帥権や枢密院などいくつかの要素が結合した結果だと考えています。

追記
ちなみに、先日友人と、「今の中国は1930年代の日本に似ている」と陰鬱な話をしていました。