上京した女の話 6

先ほど話題に上っていた法律系の資格試験が終わったらしい。正式な合否通知は年明けらしいが、自己採点の結果はSNSで流れてくる、と知人は言う。

知人が言うには、地元のロースクールを出た先輩が今年も受験に失敗したようだとのことで、これではもういつまで経っても受からないのではないか、と語っていた。なにぶん私にはわからない世界なので、「とりあえず方士を呼んでお祓いしてみては」と言っておいた。たぶん荒俣宏もそう言うだろう。そうに違いない。

しかしロースクールが導入されてよいことはあったのだろうか。かつては、司法試験予備校の文化に染まってみな金太郎飴になるとはいえ、咀嚼された学説も受験者たちは学んでいたはずだ。今のように学説や法学者団が実務から切り離され、判決例ばかりが「生ける法」として独り歩きすることにはならなかったのではないか。創設者たちはいくつか理屈をこねていて、法曹一元の実現を唱える向きもあったが、それは判検交流を再編すればよかっただけの話だ。

代案として何がありえたのか、と人は言うかもしれない。しかし単に当時の司法試験の合格者数を増やすだけでよかったのではないか。事前規制から事後規制へ、と言っても揉め事が増えるだけだ。しかも揉め事に遭った人に裁判費用が負担できるのだろうか。弁護という仕事は労働集約的でそうそうコストを削れるものではない。AIが代替するという予測はあるが、医療の場合とは違って事案ごとに異なるはずだ。しかしこれもどうなるかわからない。ともあれ弁護士への道じたいは緩やかになったようだが、金のかかる道だ。

そんなことをぼんやり考えていたら、古い友人から電話があった。彼女は夫と離婚する決断をして、法的な手続きが進行中だそうだが、夫の書面を読むのが苦痛だという。夫とは会いたくもないが、最終的な決着まで二、三年、あるいはもっとかかるかもしれないと言っていた。どちらが親権を取るにせよ子どもの成長に影響がないか心配にはなる。難儀な道だ。そう言えば昔、『家栽の人』に感銘を受けて調査官になった同期がいたが、今はどうしているのだろう。薄給の上に心身を酷使する仕事だと噂には聞く。適度に息抜きできていればよいが。