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僕らの今後の行く末

 僕は付き合って八年になる彼女がいる。でも、だんだん飽きてきた。性行為にしても、日常の会話にしても。
 僕の名前は早山幹人そうやまみきひとという。三十歳。
 職業は障がい者のためのヘルパーをしている。勤務時間は九時~十八時まで。一軒につき二時間で掃除、洗濯、食事を作らなければならない。激務だ。
 彼女は多田優実ただゆみといい、三十五歳。五つ年上だ。優美は子どもを欲しがっている。でも、僕は子どもが嫌いなので反対している。だらだら付き合っていても意味がないのではないか、最近そう思うようになってきた。でも、別れようとまでは思わない。優美の気持ちはどうなのだろう。今、僕は彼女のアパートにいる。
「僕達、付きあって八年になるけどこれからどうなっていくのかな」
「それってどういう意味?」
「意味か、意味はこのまま結婚するのか、別れるのか」
「別れる? 別れ……たいの?」
「いや、そんなことないよ」
「よかったー! 別れたいって言われるんじゃないかと思ってハラハラした」
「優美はどう思ってるの? 僕と結婚したい?」
「ていうか、それって訊くことじゃないよ」
「そう? 訊いてもいいと思うけど」
「わたしは結婚したいよ。子どもも欲しいし。でも、幹人は子ども欲しくないんでしょ?」
「うん。いらない。結婚しても二人で生活したいな」
 やはり意見が別れた。何て言ったら子どもを諦めてくれるだろうか。
「どうしても子どもが欲しいなら、子どもが好きな男と結婚してくれ」
 優美は眉間に皺を寄せた。
「何その言い方! 最近の幹人の様子を見ていて思うけど、もうわたしの事好きじゃないんじゃないの?」
「そんなことないよ、まあ、マンネリ化はしてると思うけど」 
 優美の表情に影がさした。
「マンネリ化ねえ……」
 僕は笑いながらこう言った。
「大丈夫だよ、捨てたりしないから」
「上から目線ね! 何かムカつく!」
 僕はまた笑ってしまった。そして一応謝っておいた。優美の表情から笑みが消えた。ちょっとやばかったな。
「幹人はわたしの事、馬鹿にしてる!」
 僕は首を左右に振りながら否定の意味を込めて言った。
「そんなことないってば! ほんとごめん……」
「すぐに謝るなら言わないでよ!」
 僕は黙った。
「なんか疲れてきた……。わたしは仲良くしていたいだけなのに」
「それは、僕だって同じだよ!」
「じゃあ、何でそういう言い方してくるの?」
「だから、ごめんってば!」
「今日のところは帰って」
「何でそうなるんだよ」
「いいから帰って。そしてお互い頭冷やそう?」
 僕はまた返す言葉が見つからず黙ってしまった。そして、こう言った。
「わかったよ、気が向いたら連絡くれ。僕の方からはしないから」
 そう言って僕はスマホと鍵と財布、煙草を持って外に出た。
 嫌われたかな。実際、こういう場面になると恐ろしいくらいに虚しい。いつになったら連絡をしてくるかわからないし。車に乗りながら僕は落ち込んでいた。飽きてきた、と思っていたけれど大切な存在であるという事を今気付いた。泣きたい気分。フラれるんじゃないかという恐怖。そんなこと今まで思いもしなかった。優美の方が年上だから甘えていたのかもしれない。それが今回僕が馬鹿にした態度でいたから爆発したのだろう。ずっと我慢していたのかもしれない。優美には悪いことをした。
 十五分くらい走ってアパートに着いた。重い気分で車から降り、部屋の鍵を外した。中に入り、ベッドに突っ伏した。自分で思っている以上に帰された事がショックのようだ。
 約一時間後。何も考えずにいると眠っていたようだ。スマホを見ると女性の友人からメールがきていた。
<お久~>
 彼女は僕が幼少だった頃からの幼馴染。本当久しぶりに連絡がきた。名前は山内恵子やまうちけいこ、三十七歳。今は十二月、確か誕生日がもうすぐだったはず。祝ってやりたい。優美の事も知っているし。でも、今の状況じゃ僕と優美で祝ってやることは難しい。早く機嫌をなおしてもらわないと。
<久しぶり>
 小・中・高と同じ学校。僕は大学は行かなかったけれど、恵子は大学に進学した。進路が分れて連絡をとることも減った。大学に合格した時に電話で話した時、
「遺伝子の研究をしたい」
 と言っていた。そう言われてもよくわからなかったが。でも、研究をしたいということは、大学院にも行ったのかもしれない。訊いた事はないが。
<近況報告し合おう?>
<うん、いいよ。僕は八年付き合っている彼女を怒らせてしまった。だから、落ち込んでる>
 少ししてからメールがきた。
<八年? 凄いね! あらら、怒らせちゃったか。でも、それだけ長い間付き合ってると仲直りの方法も知ってるんじゃないの?>
<今回はわからない。だから彼女の言うように連絡が来るのを待つしかない>
<たまに会いたいと思ったけど、彼女いるなら無理だね>
 僕はすぐさまメールを返した。
<いや、会おう! カラオケにでも行って気晴らししたいし>
<そう、わかった。今から行く? もう二十一時だけど>
<うん、行く!>
<じゃあ、待ってるね!>」
 メールはこれで終わり、僕は出かける支度をした。シャワーを浴び、長袖Tシャツを着てチノパンを履いた。その上から黒いロングコートを羽織った。
外に出てみると、雪がちらついていた。道路は圧雪アイスバーンで危険な路面。それでも行く。ゆっくり走れば大丈夫だから。僕の車は白い軽自動車。それでも後からカーナビを付けた。タイヤは四駆。二人でカラオケに行くからもちろん、優美には内緒。用意が出来たので一応メールしてから家を出て恵子の住むアパートに向かった。
<今から行くから>
 というメール。
 彼女のアパートには数分で着いた。恵子は三十七歳という大人の女性。部屋の前に僕の車を停め降りた。そして、チャイムを鳴らした。少ししてインターフォンから声が聞えた。
「はーい!」
「幹人だけど」
「今、開けるね」
 そう言ってから開錠しドアを開けてくれた。
 彼女の服装は大人っぽい。黄色の毛糸のニットにグレーのロングスカート。
「すぐ行く?」
「うん? 何か話す?」
「いや、すぐ行くならコート着てこようと思って」
「少し話そうか、彼女の話しになるけれど」
「うん、じゃあ、入っていいよ」
 そう言って車に鍵をかけ、部屋の中に入れてもらった。
 僕は居間のベージュのソファに座り、恵子は向かいの床の黒い座布団の上に座った。
「実はさ、」
 恵子は僕の顔を見ている。話を聞く体制だ。
「優美の事好きだけど、少し飽きてきた」
「え! そうなの? どの辺が?」
「会話や性行為がマンネリ化しているのさ。この話は本人にはしたよ」
「そしたら何て言ってた?」
「続けて僕が喋ったんだけど、大丈夫だよ、捨てたりしないから、と言ったら、上から目線ね! 何かムカつく! て言われてキレられた」
「ああ……。それは確かに上から目線だわ。失言ね」
「やっぱ、そうなの? 謝ったけど、帰らされた。お互い頭冷やそうって」
「なるほどね、それは優美ちゃんの言う通り少し間を置いた方がいいね。それにお互い別れたくないんでしょ?」
「僕は別れたくないよ、優美はどう思っているか訊いてないけど」
「それを訊くのは少し様子をみた方がいいよ」
「何で?」
「何でって、焦っちゃだめ!」
「そうなのか」
「そうよ、焦っても何も良い事ないよ」
「わかった、アドバイスありがとう」
「そろそろカラオケ行く?」
「そうだね、行こうか」
 恵子は黒いロングコートを羽織った。大人の色気を感じる。
 二時間くらい熱唱しただろうか。気分はスッキリした。でも、彼女の優美のことを考え出すと不安になってくる。僕の失言のせいでフラれるのではないかと思うと。いざ、そうなったら飽きたとか思っていたけれど、そうも言えなくなってきた。
「どうしたの? 浮かない顔して。さっきまであんなに元気だったのに」
「実は……、恵子だから言うけど、優美のことを考えると不安になるんだ……。失言したせいでフラれるかもしれないと……」
「うーん、それはどうかわからないけど、飽きてないよ、それ!」
「そうだね……そうみたいだ……。何であんた事を言ってしまったのか……。後悔先に立たずってやつだ……」
 僕は今、凄く後悔している、そして反省もしている。この事を優美に伝えようかな。許してくれるかわからないけれど。
「恵子、今、優美にメールしていい?」
「うん、いいよ。仲直りできるといいね!」
「ホントだわ」
 今、僕は恵子のアパートに来ている。早速、メールを打った。
<優美、さっきはほんとごめん。失言してしまったことも凄く後悔しているし、反省もしてる>
 なかなかメールは返ってこない。無視しているのかな? それとも気付いていないのかな。無視だとしたら悲しい……。
 約一時間後、僕は自宅に戻った。恵子は、
「許してくれるといいね」
 と言っていた。ほんとにそう思う。
 僕は絨毯に横になっていた。その時だ。メールがきた。本文は、
<話したい事があるの。今から来れる?>
 すぐにメールを返した。そして、スマホと鍵、財布を持って部屋を出た。煙草は忘れた。その事に気付かずに出て来てしまった。数分で優美のアパートに着いた。早く会いたくて慌てて来た。車をいつも停めている優美の車の左側に駐車した。チャイムを鳴らし、今か今かと待っていた。ゆっくりとした足音が聴こえる。そして、
「幹人でしょ、開けて上がって」
 そう言われてすぐにドアを開け、玄関に上がった。優美に笑顔はなかった。なぜだろう? いい話しじゃないのか。
「入って」
 凄く素っ気なかった。いったいどうしたというのだ。言われた通り部屋の中に入った。歩きながら僕は質問した。
「メールみたか?」
「見たよ。そんなことより、わたしの話を聞いて」
 そんなこと、何ていう言い草だ。
「さっき会社の男性から電話がきて告られちゃった。好きだ、付き合ってくれって。その人はわたしに彼氏がいるのは知ってる。それでも言ってくるなんてよっぽどわたしの事が好きなんだなと思ったの。わたしは、考えさせてって言ったわ。この話を聞いて幹人はどう思う?」
 僕は腹がたってきた。これだけ後悔して、反省したというのに!
「そんなのは許さない! 断れ!」
 いつになく荒っぽい口調。
「でも、わたしも密かに幹人に内緒で気に入ってたの」
「マジか! ふざけんな! 優美!」
「原因はあなたにもあるのよ」
 彼女は淡々と話している。
「僕に? どんな原因だよ?」
「幹人がいつまで経ってもプロポーズしてくれないからよ」
「僕だって結婚の事は考えていたさ。でも、子どもの事で対立しただろ。だから様子をみていたんだ! それなのに……。この裏切り者!」
「あなたにそんな事言われる筋合いないわよ! 飽きたとか言うし、最近、抱いてくれないし!」
「それは今後改めるつもりでいるんだ、だから断ってくれ!」
 優美は笑顔を浮かべた。何なんだいったい。
「そこまで考えてくれているなら断るわ」
「ほんとか? 隠れて付き合うとかは無しだぞ?」
 優美は呆れた顔をして僕から目線を外した。
「そんなことしないわよ。わたしも信用されてないのね」
「そんな事はないけど、一応、確認のために」
「そう、わかったわ。なかなか男気あるじゃない」
「だろ? だてに男三十年やってないよ」
 そう言うと、彼女は笑った。
「確かにそうね」
 ようやく彼女に笑顔が戻った。僕も自然と笑みが浮かんだ。これからは仲良くやっていきたいな。
 二ヶ月後、僕は優美を食事に誘った。ラーメン屋や定食屋ではない。もっと高級な店。事前に予約していたので午後六時三十分に着くように行った。優美にはジーパンではなく、スーツを着るように言った。僕もスーツを着ている。
 ここはこの町で唯一の高級レストラン。初めて来た。どうやら優美も初めて来たようだ。予約した名前を言い、席を案内された。アルコール度の低いシャンパーンがまず運ばれて来た。少しして料理が運ばれてきた。何品か運ばれてきて最後の料理が運ばれて来たあとに僕はジャケットの上着から小さな箱を出した。それを開き、僕は言った。
「優美、僕と……僕と結婚してくれないか?」
 すると、驚いた表情を浮かべ少し躊躇しているようだが、
「喜んで」
 と言ってくれた。
 子どもの事は解決していないが、それは追々話し合おう。
 彼女の指の太さは九号だろう。左手の薬指を出してくれたので嵌めてみた。
ぴったりだ。優美は満面の笑みで、プラチナの指輪を見つめていた。
「ありがとう! 嬉しい!」
「よろしくね!」
「こちらこそ」
 僕はウェイターを呼び、
「タクシー代行を一台お願いします」
 と言った。
 僕の部屋に着いて、
「子どもの件がまだ解決してないけれどどうしよう?」
 彼女は言った。
「僕の意見は変わらないよ」
「何でそんなに頑ななの? 普通、奥さんになる人が欲しいって言ったら、奥さんに合せてくれるのが普通じゃない?」
「そんなことはないさ、旦那の意見だってあるだろ」
 優美は少し黙った後、
「まあ……そうだけど。このままなら結婚できないよ……」
 確かにそうだ。このままじゃ駄目だ。はっきりさせないと。
「僕は子どもが出来ても可愛がってやれないかも。最悪、虐待するとか」
「何でそんなに子どもが嫌いなの?」
「何でって訊かれてもわからない。逆に訊くけど、何でそんなに子どもが欲しいの?」
「そりゃ、可愛いからよ!」
 強い口調で優美に言われたのでイラっとした。何でそんな言われ方されなきゃいけないんだ! 言ってはいないけれど。
 もしかしてこの結婚は成立しないのか。折角、指輪を買ったのに。無駄になるじゃないか。何とか子どもはいなくても二人で仲良く暮らしていければいいと言わせる方法はないのか。と僕は模索した。
 僕が以前、風疹にかかったせいで精子がないという嘘をつこうかな。よくない嘘だけれど。でも、そうでもしなかったら優美は納得しないだろう。僕は仕事をしながらそんな事を考えていた。帰ったら伝えよう。
 時刻は午後六時三十分頃。僕は帰宅した。まずは入浴して、優美は夕食を作ってくれていた。お互いのアパートの合鍵は持っているので、それで開けたのだろう。
「ありがとな、夕食。まさか来てるとは思わなかったから、スーパーで惣菜買ってきちゃったよ」
「今日、わたし休みだったからね。それで作りに来れたの」
「そういえば、そうだったな。ところで子どもの話しなんだけど、僕、以前、風疹になっちゃって、精子がいなくなったから子どもは無理だよ。すまんな」
「え? 風疹になったら精子なくなるの」
「ああ、そうだ。いなくなる」
 彼女はショックを受けたようで、でも、
「じゃあさ、ホントに出来ないかどうか試してみようよ」
「試す必要ないって。医者にそう言われたんだから」
「そっかぁ……。うーん、何か腑に落ちないなぁ。試してみて出来ないなら納得できるけど、そうじゃないからさ」
 なかなか諦めないやつだなぁ。すんなり諦めてくれればいいものを。それだけ子どもが欲しいということか。畜生! このままだと子どもができてしまう。どうしよう、嘘ついたこともバレるし。ヤバい、最悪だ。本当は風疹などにかかっていない。
「排卵日に試そう?」
 優美は言った。
「すまん! 風疹にかかったことがあるという話しは嘘だ! 嘘ついてすまん」
 彼女は呆れた顔で僕を見ている。
「何でそういう嘘つくかなぁ……。それだけ子どもが欲しくないということだね」
 僕は頷いた。
 このままだと本当に優美と結婚出来なくなる。やばいなぁ。
「どうしても子どもが欲しいのか?」
 僕が訊くと、
「欲しいね、貴方の子どもが欲しいのよ!」
 と彼女は答えた。
 それほどまでの強い思いだとは……。これは観念するしかないのかな……。
「わかった、僕の子どもを作ろう。いつならいいんだ?」
「排卵日は月末辺りよ」
「わかった」
 そう言って彼女の意志に負けて子どもを作る事にした。
「でも、」
 と言い、
「新婚三年目くらいまでは二人だけで暮らそうな?」
「うん、いいよ」
 言ってはいないが、結婚していきなり子どもがいるとなると結婚した実感がないから、と思っている。僕が思うに結婚は本人同士の繋がりで成り立っていると思う。それか、家と家との繋がりと言う人もいる。それはそれで有りだろう。ただ、子どもがいるとなると責任が伴う。だから大変だと思う。そういうのもあって子どもはいらないと言っていたのだ。そういったことを優美は知ってか知らずかとにかく子どもが欲しいの一点張りだ。知らないわけがないと思うが。今日は僕も彼女も仕事は休みなので、まずは、お互いの両親に、
『結婚する』
 という旨の話しをしに行くつもり。午前中は僕の両親に話しをしに行き、午後から優美の両親のところへ行くつもり。一応、連絡してから行く。いなかったら意味がないから。母さんの携帯に電話をした。母さんは未だにガラケーだ。父さんはスマホだが。しつこく呼び出してようやく繋がった。家の母さん
は機械に弱いので、ガラケーすら使いこなせていない。
「もしもし」
『もしもし、幹人。久しぶりね、どうしたの?』
「話したいことがあるから、優美と一緒にこれから行くわ」
『あ、準備もあるから一時間後に来て』
「わかったよ」
 今の話を優美に話して聞かせた。すると、
「幹人のお母さんってきちっとした方ね」
「そうか? そうでもないぞ」
「いやあ、わたしのお母さんに比べたら幹人のお母さんの方がよっぽどきちっとしてる」
「そうなのか」
「そうよ、わたしが言うんだから間違いない」
「でも、威張っていう話しでもないと思うぞ」
「まあ、確かに」
 彼女は笑っていた。かわいい笑顔。何だか最近では優美の事を飽きたと思っていたが、そういう思いは薄れてきた。良かった。でも、なぜ飽きたような気持ちになったのだろう。まあ、薄れたからいいけれど。
 そして一時間後。
「優美そろそろ行こうか。一時間くらい経った」
 時刻は午前十時三十分頃。僕らは部屋を出て、車に乗った。発車させ、いつものように十分くらいで到着した。母親の車だけがあり、父親の車がないのできっと仕事なのだろう。車から降り、家のドアを開けた。中に入り、優美にも
「入っていいよ」
 と促した。彼女の顔を見ているとぎこちないように見える。きっと緊張しているのだろう。僕は大きな声で母親を呼んだ。
「母さん!」
 優美はやや小さな声で、
「お邪魔します」
 と言った。
 僕が居間のドアを開けるのと母親がドアを開けるのがほぼ一緒でドアが動かなかった。手を離すとドアは内側に開いた。その反動で母は倒れそうになるのを堪えていた。何とか転ばなかった。優美は、
「こんにちは」
 と小さな声で言った。
「あら、優美ちゃんも一緒なのね。座って。」
「今日は話したいことがあって来たんだ」
「どうしたの、改まって」
 僕達は居間に入りソファに腰掛けた。母親は硝子のテーブルを挟んで反対側に正座した。母親は僕らを見ている。僕も母親を見ている。そして話しだした。
「実はさ、僕達、結婚することにしたんだ」
「え! あ、そうなの。そういう話しはお父さんもいた方がいいね」
「まあ、そうだけど、僕と優美の休みがなかなか合わなくて。たまたま今日一緒の休みだから来たんだ」
「そうなの。それじゃあ、仕方ないね」
「うん、だから夜になったら僕の方から父さんに電話して話すよ」
「そうだね、それがいいね」
「うん、午後から優美の実家に行って話す予定」
「そうなんだ」
 母は立ち上がり、
「温かいコーヒー飲めるでしょ?」
「僕は飲める、優美は?」
「飲めるよ」
 僕は母親に、
「僕も優美も飲めるよ」
 母はステンレス製のトレーに湯気のたったコーヒーを淹れて運んで来た。そのあとに砂糖とクリープを何個かずつ器に入れて持ってきてくれた。
「寒いねえ、さあ、冷めない内に飲んで」
 優美は、
「ありがとうございます。いただきます。お砂糖とクリープもらっていいですか?」
 と訊いた。
「どうぞどうぞ、そのために持って来たんだから」
 と言われて彼女は砂糖一杯にクリープ一個を注ぎ入れた。僕は甘いのが好きなので、砂糖三杯にクリープを二個入れた。
「あんたは相変わらず甘党ね」
「うん、甘いものは最高!」
「確かに美味しいけどね。優美ちゃんは女の子だから甘いものは好きなのかな?」
「まあ、割と好きな方ですね」
「だよね、うちも好きだもの」
 僕は男だけれど甘いものが好き。一般的には女性は甘いものが好きと言われている。でも、男性の僕も甘いものは好き。だから一概に言えないだろう。
「この前みたいにお昼ご飯食べていったら?」
「いいの? 何か悪いね」
「何も悪くないよ、実家なんだし。あんたの結婚相手だっているでしょ」
「まあ、そうだけど」
 優美は言った。
「何か申しわけないです。この前もご馳走になったのに」
「いやいや、気にしないで。ゆっくりしていって」
「ありがとうございます」
 母親は笑みを浮かべている。真面目な結婚相手で嬉しいのかもしれない。そうだったらいいのにな。そしたら優美も居やすいだろう。今、思ったことを母親に訊いてみた。すると、
「そりゃそうじゃない、真面目が一番よ!」
 優美は安心している様子。よかった。僕としては優美が楽しくいられるのが一番嬉しい。
「お昼何が食べたい?」
 母親が訊いてきた。
「僕は何でもいいよ。優美は食べたいものある?」
 彼女は何となく困っているように見えた。
「幹人、あんたが何がいいか言いなさい。優美ちゃんに訊いても困らせちゃうじゃない。ねえ」
 優美は苦笑いを浮かべている。
「じゃあ、食べに行こうか」
 僕はそう言った。
「何食べたい?」
 母親にも訊いてみた。
「お蕎麦がいいわねえ」
「蕎麦か、僕あまり好きじゃないんだよな」
 母親は優美に訊くとこう言った。
「あ、お蕎麦いいですね」
 母親は僕の方を見てニヤニヤしている。何なんだ一体。
「うちの勝ち! じゃあ、お蕎麦食べに行くよ」
「母さん、蕎麦屋どこにあるか知ってるの?」
 母親は得意気な顔をしてこちらを見ている。
「知ってるに決まってるじゃない。知らなかったら言わないよ」
 なるほどな。
「そっか、じゃあ、母さんの運転で行こう。もちろん、母さんの車で」
 母親はしてやられた、という表情を浮かべた。きっと、運転が面倒なのだろう。
「あんたも口がたつようになったね」
 ふふん、と僕は鼻で笑った。
「いつまでも子どもじゃないんで」
「ああそうですか」
 優美はクスクス笑っている。
「親子漫才してるみたい」
 そういうと三人で爆笑した。
「じゃあ、行こうか。車に乗ってて。髪の毛、櫛でとかすから」
 鍵をいつも引っかけてあるところから取り、優美に声をかけて家を出た。そして車に乗り少し待った。
 十五分くらい待っただろうか。
 母親は急ぎもせずにゆっくり歩いて来た。
「母さん、早く歩いてくれ」
 でも、車の中で言ったので聞こえていない様子。今は冬だから窓は開けないし、仕方ない。母親みたいに六十歳くらいになっても女は捨ててないんだな。これは言ったらまずいだろうから、心の中に秘めておく。
 僕と優美は後部座席に乗っている。
「どっちか助手席に乗ればいいのに」
 母親はそう言ったが僕は、
「僕は後ろに乗るよ。久しぶりに」
 優美は自分から、
「わたし助手席に乗ります!」
「うん、どうぞどうぞ」
 母親は嬉しそうだ。僕は一人になったが大して気にしていない。
「優美ちゃんは素直でいい子だね」
 母親がそう言うと、
「え、そうですか? ありがとうございます」
 母親は、ふふっと笑っている。何を思って笑っているのだろう。
 三十分くらい走って到着した。外観は白い壁で入り口の上に看板がある。二階建て。主人が二階に住んでいるのかな。まずは入ってみよう。
「ここ、美味しいのよ」
 母親は自分の店でもないのに自慢げに言っている。まあ、自分の店なら逆に自慢しないか。入ってみると床は大理石のようで黒っぽく内壁は白い。
「いらっしゃい!」
 デカイ中年の男性の声が店内に響き渡る。店内は左程広くなく清潔感がある。親子で切り盛りしているのだろうか。店員は二人だけのようだ。この白衣を着た女性はきっと男性の母親だろう。
「三名様ですか?」
「うん、そう」
 僕の母親が対応してくれている。
「お好きな席にどうぞー」
 店員は言った。僕らは四人用の席に座る事にした。
 周りを見渡すとお客さんの入りはまばらだ。
「うちは寒いから温かい蕎麦にする」
「僕も同じものにするかな」
「じゃあ、わたしも同じものを」
 決まったので母親は、
「すみませーん!」
 と店員を呼んだ。
「はい!」
 返事が聞こえ、すぐにやって来た。注文を伝えた。
 十分くらいで熱々の蕎麦が運ばれて来た。一つずつ器が置かれていく。
「ごゆっくりどうぞ」
 お辞儀をしたあと去っていった。
 優美の顔を見ると、目を爛々とさせている。
「美味しそう」
 彼女は言った。
「さっ、いただきましょ」
 母親は言った。
「いただきます」
 優美は言ってズズッとすすった。
「凄く美味しいです!」
 感激しているようで僕も嬉しくなった。
 僕も食べてみた。すると、意外にも美味しく感じられた。蕎麦は母親が作ったそれしか食べたことがないので期待していなかった。僕はいつの間にか夢中になって食べていた。母親は、
「美味しいでしょ?」
 言うので、
「うん、旨い!」
「うちが作るから美味しく感じないんじゃないの?」
「それはあるかも」
 母親の表情が変わった。
「失礼ね!」
 僕は思わず笑ってしまった。
 三人とも完食して僕は煙草に火を点けた。思い切り吸い込んで、思い切り煙を吐いた。
「ふー、旨かった!」
 僕がそう言うと優美は、
「おじさんみたい」
 そう言って、彼女と母親は笑っている。
「おじさん? そんなことないだろ! お兄さんだ」
「そうね」
 尚も笑いながら優美は言った。まあ、優美が言ったことだからいいか、許そう。僕はどれだけ彼女の事を愛しているんだ。
「そろそろ行くか、優美の実家にも行かないといけないし」
「そうね」
「優美、実家に午後から行くって事、連絡した?」
「あ! まだだわ。忘れてた。今からするね」
「車の中で電話したらは?」
 母親はそう言うと、
「そうですね、そうします」
 僕らは立ち上がり、母が会計を済ませた。車に戻り、早速、実家に電話をしている。
「もしもし、もう少ししたら幹人と二人で行っていい? 彼氏のことよ! うん、わかった」
 電話を終えた優美は僕達に説明した。
「散らかってるから片付け終わったらきていいよだって。連絡くるみたい」
「そっか、わかった。とりあえず帰ろう」
 僕は母親の方を見て言った。
「そうね」
 時刻は午後一時三十分頃。僕の実家に着いた。
 一時間くらい経過して優美のスマホが鳴った。
「お母さんからだ、出るね」
 通話はすぐに終え、
「もう来てもいいって」
「わかった、じゃあ行こう」
「気をつけてね」
 と母親は言った。
「さて、優美の実家に行くか」
「うん!」
 実家に行くのはこの前ぶり。僕の両親と同じ町内に住んでいる。
「母さん、じゃあね」
「うん、またおいで」
「お義母さん、お邪魔しました」
「いえいえ、優美ちゃんもまたおいで」
「はーい」
 母親と優美の関係は良好のようだ、いいこと。僕らは車に乗り、彼女の実家に向かった。しかし、僕は方向音痴なので実家がどこだったかわからなくなってしまった。それを言うと、
「相変わらずね、もう一回教えるよ」
「ていうか、頻繁に来ないと覚えられない」
「それは毎日来たいという意味?」
「いやあ、そういう意味ではないけれど」
「頑張って覚えてね」
 そう言った後、
「わかった」
 と答えた。
 畜生、格好悪いところ見せてしまった。まあ、初めて見せたわけじゃないけれど。
 僕は再度教えてもらって彼女の実家に着いた。
「今度は来れるよね?」
 優美はケラケラ笑いながら言っている。
「うーん、自信ない」
「仕方ないなあ、また教えてあげるよ」
「よろしく!」
 優美が先に車から降り、僕は後から降りた。先に行ってもらうために。今度は僕が緊張してきた。優美は玄関のドアを開け、中に入った。僕も後からお邪魔した。
「お母さーん、来たよー!」
 大きな声で言った。
 するとドタバタと足音をたて、玄関に向かって歩いて来る人がいる。きっと優美の母だろう。居間に繋がるドアが開き、
「いらっしゃい!」
 と笑顔で迎えてくれた。
「幹人連れて来たよ!」
 僕は挨拶をした。
「こんにちは! お久しぶりです」
「こんにちは、何か用事があってきたの? それとも遊びに来たの?」
「用事です」
 僕がそう答えると、
「立ち話もなんだから上がって」
 そう言い終える前に優美は居間に入った。
「お邪魔します」
「はい、どうぞ~」
 優美はベージュのソファに座っていたので僕はその隣に座った。優美は、
「お父さんは?」
「今、仕事に行ってるよ」
「そっか、何しに来ただけ言っておく?」
「うん、それでもいいよ」
 優美は笑みを浮かべながら、
「実はね、わたし達結婚しようと思うの」
 言うと母親は、
「あ! そうなの。まあ、お父さんは相手が幹人君なら反対しないと思うけどね」
 と言った。僕は緊張しているせいか、今の嬉しい気持ちを上手く表現できなかった。優美は嬉しそうに笑みを浮かべている。
「でも、お父さん帰ってくるの六時過ぎよ。今、まだ三時前よ。それまで待ってるの?」
 優美は、
「ああ、そうなんだ。じゃあ、また来るよ。お父さんに言っといて」
「わかったよ」
 これから僕と優美は結婚する。子どもも作るしこれからが大変。でも、楽しく明るい家庭にしたいな。そう思いながら僕は優美とお義母さんの話しを聞いていた。

                               了

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