西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』

(2011年 記)

 私のお墓の前で暴れないでください、と秋川雅史なら歌いだすかもしれない。西村賢太の私小説には、それほどひどい男が登場する。
 無頼な生活の末に凍死した大正時代の作家、藤澤淸造を語り手の「私」は崇拝している。彼の全集を刊行したいと大望を抱き、関係資料の収集に尽力している。「私」はこの作家の墓へ毎月参るだけでなく、淸造忌の法要を復活させ施主も務め始めた。しかも、自室の藤澤淸造コレクションのなかには、作家の最初の墓標(木製)まであった。「私」の住む賃貸の部屋が、もうひとつの墓と化しているのだ。
 しかし、「墓前生活」を送る「私」は、暴れる。墓や法要にこだわる男だが、信心深く慈悲深いわけではない。金に関しては同居する女に頼りっきりなうえ、すぐにブチ切れては暴力をふるう。かといって、性欲の強い「私」は彼女に逃げられたくなくて、暴力のあとにはいつも平謝り。DV男の典型である。
 題名「どうで死ぬ身の一踊り」は、藤澤淸造の言葉に由来する。とはいえ、全集刊行の大望と女に逃げられたくない思いでいっぱいの「私」は、「どうで死ぬ身」と思い切ってはおらず、生に執着しまくり。そして、「一踊り」ではすまず、何度でも己の感情に踊らされる。
 作中では、女が「私」には二面性があるともらす。なるほど。語り手の「私」は、文章中でオナニーのことを「自らを汚す」と表現する。気どっている。まるで「汚す」前はきれいであるみたいだが、金、性欲などで意地汚く、身の回りも汚いのが「私」だろう。
 また、主人公は地の文章では「私」なのに会話での一人称は「ぼく」。この男は、「ただでさえ私にとり、月一回藤澤淸造の展墓をし、月回向の法要を行なうことは自分の唯一の矜持の立脚点」などと書く。墓参りをしかつめらしく「展墓」と表現する。だが、話す時は「ぼく」に変身し、甘えや媚びを含んだ口調になる。「あんなことで、拗ねたりして、ぼく、本当にどうかしてた。おまえに随分と不愉快な思いをさせちゃったね」なんて女にのたまう。困った「ぼく」ちゃんである。
 褒めにくい主人公だが、彼の美点をあげるなら、藤澤淸造への無垢な一途さになる。それは、女へのひどいふるまいと裏表だ。藤澤には尊敬、女には気安さで対しているが、一途さでは共通したところも感じられる。ただ、相手がなにをいっても応答のない死者か、いいかえしてくる生者かの違いが、「私」として矜持を持てるか、「ぼく」になって甘えてしまうかの差にあらわれているようにも思える。
 当たり前の話だが、「私」と「ぼく」の根は一緒だし、主人公が「ぼく」の時に示す、自分かわいさの態度については、身に覚えのある人も多いはず。人は誰でも、困った「ぼく」ちゃんを飼っている。だから、主人公を憎めない。西村賢太は、そんな自分かわいさを生々しく描く。この小説には、本当の人間がいる。
 とはいっても、墓の前ではやっぱり暴れないほうがいいと思うけどね。

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