本格ミステリ・計算・科学・機械

※以下は、探偵小説研究会の同人誌「CRITICA」に寄稿する予定で2013年に書き始めたものの、結局「序」だけで頓挫した下書きのお蔵出し。400字詰め換算で100枚以上の長文評論(ワーキング・タイトルは”ミステリ建築の意志”だった)を予定して全体構成のメモは用意したけれど、どうも気分がのりきれなくて続かなかった。当時考えていたことは、今でも頭のどこかで燻っているので、いずれ仕切り直して取り組むことがあるかも。あくまで「かも」だが。

序.本格ミステリ・計算・科学・機械

 不可解な謎に対し、合理的な推理によって意外な真相を明らかにする。そのような基本形を持つ小説ジャンルであると、とりあえず定義しうる本格ミステリは、数学、計算といったことがらとはじめから関係づけられて登場した。難しい状況を知恵によって打開する、あるいは事件をなんらかの手段で解決する物語は、旧くから存在していた。だが、本格ミステリというジャンルの出発点とされるのは、エドガー・アラン・ポーの短編「モルグ街の殺人」(一八四一年)である(引用は巽孝之訳)。

 知的能力のうちでも分析力として語られるものは、それ自体では、ほとんど分析されることがない。わたしたちにわかるその発露は、分析力の効用にすぎないからである。そのいちばんの特徴として言えるのは、分析力というのがその持ち主にとっては、とりわけ絶大なる分析力の持ち主にとっては、何よりも血湧き肉踊る娯楽の源になっているということだ。

 このように書き出される「モルグ街の殺人」の冒頭部分では、分析力をめぐる考察がひとしきり綴られる。そして、後に描かれる不可解な密室殺人の物語において、「血湧き肉踊る娯楽」としての分析力=探偵の推理に焦点をあてたことが、同作が本格ミステリの出発点とみなされる結果をもたらした。
「モルグ街の殺人」冒頭には、次のような文章も記されている。

 問題解決の能力を大いに磨いているのはおそらく、数学的研鑽とともに、わけてもその最たるものであり、不適切ながらも、たんに逆転的論理展開を有するがために特に「解析学」と呼ばれてきた機能であろう。しかし計算することはそれ自体では分析することにはならない。

 分析力=推理には、数学的研鑽、計算が不可欠だが、プラスアルファも必要であることが語られている。ポーは、数学に支えられた論理をまず前提にしたうえで、名探偵のひらめきなどのプラスアルファを含む「血湧き肉踊る娯楽」のジャンルを創始したのだ。
「モルグ街の殺人」の続編と銘打たれた「マリー・ロジェの謎」(一八四三年)でも、ポーは、超自然的な事象を信じたくなる気持ちに対し、数学的思考の重要性を説いていた(引用は丸谷才一訳)。

 こういう感情――ぼくがいま述べたような半ば信じる状態には思想と名づけるほどの力強さがないから敢えて感情と呼ぶのだが――を完全に克服するには、チャンスの法則、すなわち専門語で言うところの、確率の計算によらねばなるまい。が、しかしその計算は、本質においては純粋に数学的なものなのである。それ故ぼくたちは、科学における最も厳密に正確なものを、思考における最も不可解なもの――影のごとく霊のごときものへと援用するという、無法なことをおこなうわけなのである。

 一方、島田荘司が「21世紀本格」という新しいジャンル像を提起し、遺伝子組み換えやクローン、脳科学などを念頭におきつつ、「私の考える新しい本格ミステリーには、最新科学の知識も是非とも必要なのです」(『21世紀本格』二〇〇一年)と述べた時にもポーを引きあいに出していた。島田には、ポーの時代の分析力=推理を、現在の科学水準に即してヴァージョン・アップしたいという意図があった。
 飯田一史や小森健太朗が指摘した通り、島田荘司の語りかたには、ポーの「論理」を「科学」へと拡張しすぎている面がある。ただ、多彩な作品を発表したポーという作家が、本格ミステリのルーツであると同時に、科学的思考から想像を広げるジャンルであるSFのルーツともみなせること、本格ミステリが検証可能な科学的捜査の発達を前提に発展したことなどから、本格ミステリを論理、数学だけでなく科学と関連づけることには一定の妥当性がある。
 小説家が事件という謎を出題し、読者が解明を試みるというゲーム性を有する本格ミステリに関し、その規則(ルール)を明らかにしようとする試みがしばしばみられた。なかでも有名なロナルド・A・ノックスの「探偵小説十戒」(一九二九年)の第二条には「当然ながら超自然的要素や魔術的要素を物語に持ち込んではならない」(宮脇孝雄・宮脇裕子訳)、ヴァン・ダインの「推理小説作法の二十則」(一九二八年)の十四には「殺人の方法とそれを探偵する手段は、合理的で、科学的でなくてはならぬ」(井上勇訳)という項目がそれぞれあった。科学的合理性を前提にしようとする傾向が強かったのだ。
 後の本格ミステリでは、幽霊、蘇る死者、超能力など特殊な設定を盛り込んだ作品も少なからず書かれるようになった。だが、その場合でも、物語の前段で特殊現象の規則性を示しておくことが、本格ミステリで特殊設定を許容するための条件になった。そうすることで、疑似的にせよ、科学的合理性に類した作中の合理性を確保するわけだ。
 また、本格ミステリと科学の関連に関しては、トマ・ナルスジャックが一九七三年に発表した評論『読ませる機械=推理小説』が、主要なテーマにしていた。同書では、ポー、エラリー・クイーン、ディクスン・カー、G・K・チェスタトン、アガサ・クリスティといった本格ミステリの巨匠たちと同等以上の扱いで、オースチン・フリーマンへの言及に二章を割いている。彼のソーンダイク博士ものは、法医学や鑑識技術など捜査における科学技術を強調した内容だった。
『読ませる機械』でナルスジャックは、「推理小説は自ら科学的であろうとするだけでなく、しばしば見せびらかすために科学的であった」と書き、本格ミステリが疑似科学的小説であり、捜査のシミュレータだと論ずる。そのうえで、本格ミステリとサイバネティクス(機械や生物の制御、情報のやりとりに関する科学)との類似性を指摘し、次のように語っていた。

 コンピュータでプログラムが占める位置を、小説のなかでは探偵が占める。なぜなら推理小説は、正確で論理的な事項を出発点として、一定の真実を提出するようにつくられている限り、プログラムされているからである。

 ここでは、計算されて作られた機械が計算するように謎を解くことが、本格ミステリの理想像として語られていた。
 ナルスジャックは、本格ミステリは「自らのルールに閉じ込められて」、「燃料の尽きた機械のように、徐々に作動を止めるだろう」とエントロピー理論的でネガティヴな予想を立てていた。しかし、少なくとも日本では、一九八〇年代末からの新本格ムーヴメントもあり、本格ミステリが作動を止めることはなかった。
『読ませる機械』には、様々な科学の基盤となる数学の専門家である数学者のフランソワ・ル・リヨネが序文を寄せていた。彼は、同書の議論を評価しつつ、ナルスジャックのネガティヴな予想には不同意を表明していた。ル・リヨネは、本格ミステリの未来があるための条件を次のように書いていた。

 このような仮説が印刷した紙の上に具体化されるには、現在のところ空想でしかない二つの条件が満たされることが前提となるということをわたしもよく知っている。第一は、推理小説にゲーデルかブルバキのような、特別な作家が現われることである。それが可能であることは、わたしの目には、ほとんど明白である。第二に、そうした香辛料を味わういわば食通の読者が存在することである。(荒川浩充訳)

 文中に登場するクルト・ゲーデルはアメリカの数学者、ニコラ・ブルバキはフランスの数学者集団のペンネームであり、いずれも数学の革新に関して功績があった。一方、法月綸太郎の評論を起点にして、一九九〇年代以降の日本の本格ミステリ界で断続的に話題にされてきた「後期クイーン的問題」において、特別な意味を持った名前が、ゲーデルだった。
 はたして、ル・リヨネの予言は、日本の本格ミステリ界で的中したのだろうか。

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