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逃亡


 大学最後の秋、僕は香川に行った。
 きみと一緒に。


 豊島美術館というのを、Twitterで見つけた。
 死ぬ前に一度行きたいなぁ、と思った。

 理由は今となってははっきり思い出せない。
 だけど、ある夜のこと。『香川に行くならきみだ』と、僕は確信した。
 きみはいいよと言った。だから僕は、きみと豊島へ行ったのだ。

 

 豊島への道のりは長い。
 まず、飛行機で香川へ。大きなフェリーで直島へたどり着いた後、小型船に乗り換えてようやく到着だ。
 小型船には、僕たちしかいなかった。東京にいたら、『その選択をしたのは自分たちだけである』という独占的な孤独を味わえることは、あんまりない。だからあの時の僕は、まるできみと二人で世界から隔離されに行くような心地だった。そういう些細なことが、愉快で堪らなかった。

 この旅をするにあたって、僕は自分に制約を課した。それは、デジタルデバイスに記録を残さないこと。
 手に入れたばかりのチェキカメラを、使ってみたかったというのはある。でも、それだけじゃない。
 僕はあの島で、死んでも良かった。死んでも良い旅になると思っていたから、きみを連れていった。でも、死んでも良かったと思ったことを、そう簡単にたびたび想起したくなかった。日常のあるデバイスをあの旅に持ち込むことも、日常にいるデバイスにあの旅を遺すことも、どちらもしたくなかった。だから僕は、チェキカメラを携えていくことにしていたのだ。
 たった三回だけ、僕は掟を破った。でも、きみがいまでも気に入ってくれているならいいか、と思わなくもない。案外、僕は現金であるらしい。


 きみを香川に誘ったのは僕だし、きみが香川に行きたい僕のそばに居るに足る人間と判断したのは僕だったが、それでもきみ自身がこの旅にどのくらい真剣に来てくれているのかはわからなかった。だからきみがあの夜のプログラムを見つけてくれたことは、それはとてもうれしかったのだ。もちろん僕が「限定に弱い俗物」であることも否定はしないけど、少なくとも、きみはきみなりには真剣に来てくれていることがわかったから。

 豊島への旅は、まるで僕たち二人でひとり旅をしていたように思っていた。
 僕たちは、恋人ではなかった。そうであれば良かったと思えたことも、残念ながらない。でも、きみは僕が感傷に浸ることを許してくれ、きみの態度が僕の感慨に影響を与えることも理解してくれる(と僕は都合よく解釈している)、数少ない人間だった。そんなきみが僕は好きだった。
 最も大きな目的だった豊島美術館にいたときでさえ、僕たちは感想を分かち合わなかった。でも、そうでない、たとえば感想を分かち合って答え合わせで「消費しきって」からスマホでググりながら次の予定を話し合うような旅にならなくてよかった。きみが僕の感傷に浸る時間を、Twitterを眺めながら待つ人間でなくてよかった。言葉にすることが野暮であると、きみがそれを完全に理解していてほんとうによかった。
 雑に言えば「エモ」かったあのときを、たったひとりの思い出として大事にさせてくれたことの感謝を、今ではきみに抱いている。


 『芸術は与えられるものではなく見つけるものだ』と、東京に戻ったあとの僕はノートに綴っている。
 豊島への旅で僕が触れたものはおおよそ「芸術」と呼ばれるものだったが、僕はそれに付随して「それっぽさ」も「映え」も欲しくはなかった。それを思考停止で礼賛したくなかった。

 自分だけが美しいと思うものを見つけて、それを大切にする。それを以て、芸術としたい。
 僕がクリスチャン・ボルタンスキーに出会ったのは、豊島の旅の途中だった。

 本質的な刺激としては、絶対に独自性の高いものではない。「当該刺激の本質的な特徴箇所」さえ味わえればよしとするタイパ主義者なら、絶対に数刻で飽きるだろう。だからというと逆張り精神が露呈するようで気恥ずかしいが、僕は『これだ』と思った。
 モノそのものに意味があるのではなく、その文脈に意味がある、芸術。
 終末ボックスの、原点にして理想形。

 僕はまだ死ねない、と思った。僕も死によって完成する芸術に幾度となく焦がれてきたが、逆に死とはその後自分という芸術を更新する機会も逸するということを初めて理解した。僕にはまだその準備ができていなかった。
 だから僕は東京へ帰ったのだ。


 準備ができる日が来るのかは判らない。きっときみにも分からないだろう。でもきっと、きみにしか解らないだろうから、いつか僕が死んだらきみにも僕の死を悼んでほしい。

 大人になっても、ずっと憶えてるから。

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