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 鍵を開けて家の中に入ると、シンヤが僕の部屋の中心に立っていた。シンヤはゆっくり顔を持ち上げてこちらと目線を合わせると、こて、と小首を傾げる。ふわりと黒髪が揺れて、いつものいい匂いがした。

 「ここが×××××さんの部屋なんですか?」

 「ああ、そうだけど」

 なぜ鍵も持たない君がここに、と続けて言おうとして、この部屋が桜上水のワンルームではなく見知らぬアパートであることに気づいた。これは夢だった。シンヤが言う。

 「×××××さんって、思ったより部屋汚いんですね。汚い? というより、ううん、物が多い?」

 「……フォローをどうも?」

 中途半端にゴミを入れられた袋を足で脇に寄せ、読みもしないくせにもらったペーパーの山を蹴飛ばし、やっとの思いで僕はシンヤの隣に辿り着いた。僕の部屋は端的に言えば汚部屋の一言に尽きる。現実世界もそうだし、そしてこの安アパートもどっこいだった。食べ残し飲み残しの残骸のようなものだけは無いので、そういう不衛生さとはまた別だと言い張りたいところだけれど、シンヤからすれば五十歩百歩だろう。シンヤは僕の記憶する限り、最も究極的なミニマリストだった。

 「×××××さんの本棚がいっぱいいっぱいなのはまあ、わかりますけど……。そこの紙束とか、こんなストラップ達とか、ケーブル達とか、お菓子の缶とか。本当に×××××さんの人生に必要なんですか?」

 「カウンセラーの真似事をしにきたなら帰ってくれ」僕はシンヤの手からファンシーな缶を奪い取る。元カノがお土産として寄越してくれた、菓子が入る蓋付の缶だ。当然、中身は空である。「要らなかったらとっくの昔に捨ててるさ。そうじゃないんだから、君が踏み込むことじゃない」

 「でも、こんなにたくさんのものがあったら、今を生きるのに不便じゃないです?」シンヤが今度は反対方向に傾いだ。「だってほら、足の踏み場もない」

 「部屋なんか動き回れて目当てのものにアクセスできたら十分だろ」僕はシンヤの行動を遮ることを諦め、ベッドに腰掛けた。本物よりも少しふかふかしている気がして、少しだけシンヤに対する苛立ちが和らぐ。缶を脇に置いて、僕はシンヤの方を見上げた。

 「君はいったい何をしに来たんだ?」

 夢の中の人間にそう訊いても、仕方ないかもしれない。ただ、僕がいまさらシンヤを夢に登場させた理由は、少し気になった。ふわふわとした足取りで部屋の数少ないフローリングが見える箇所を彷徨いていたシンヤは、ゆっくりとこちらを振り返る。


 「×××××さんは、どうして目の前にあるものだけ大事にできないんですか?」



 視界がぐにゃりと歪む。

 次の瞬間、ぼくらは1音と2音の間の楽器庫にいた。シンヤは窓際のマリンバの前でマレットを右手に握ったまま、廊下側の壁際に立つぼくを振り返っている。ぼくはいつの間にか手の中にあったボーンのケースを抱えたまま、微動だにすることができなかった。

 「何にしたってそうですよ。カメラロールもそう。スマホのホーム画面だってそう。人間関係ですら、いつもそうです。うっかり手に入れたものにいちいち意味を見出して、一つだって捨てられないし忘れられない。いつだって残るもの形になるものばかり掻き集めて、目の前にあるものを大切にしない」

 青いリボンのセーラー服を着たシンヤが、ゆっくりとこちらに歩み寄る。ぼくが思わず後ずさると、シンヤは利き手に握った2本のマレットをぼくの第一ボタンあたりに向けてぴんと伸ばした。数歩下がったところで廊下側の壁と背中がこんにちはしてしまったぼくは、それ以上引くことができない。ぼくは観念したようにシンヤを見つめ直した。

 「……ぼくは負け犬だ。吹奏楽部だって結局辞めてしまったし、かといって怖くて自殺も碌にできやしなかった。結局何も残らないことだけがいつだってぼくにとっては真実なんだ。思い出しかないんだ。いつか食らうダメージを本能的に躱そうとすることの、いったい何が悪いんだ?」

 シンヤはかぶりを振る。その目は鋭く、現実のシンヤがぼくにしたことのないような目だった。

 「詭弁ですね、×××××さん。かつて何も残らなかったことは、未来に向けても何も残らないことを意味はしないんですよ。ねえ、本当に何のことを言われてるかわかりませんか?」

 シンヤはマレットをおろし、大股でぼくとの残りの距離を詰めた。長かったはずのシンヤの髪はいつのまにか肩で綺麗に切り揃えられていて、ぼくより15cmは小さいはずのシンヤと目線の高さはほとんど変わらなくて。

 10年前のシンヤが、そこにいる。

 「目の前にいない時ばかり大切にして、いざ目の前にしたらぞんざいに扱って。かと思えば、存在しない事実にばかり怯えて、ありもしない解釈を捏造しては勝手に逃げ出して。本当に、誰も気づかないとでも思ってたんですか? どうして、目の前にあるものだけを、目の前にある時にだけ、大切にできないんですか?」

 それが、きっと一番幸せになれるのに。

 シンヤの声は震えていたが、ぼくは意外にも平静を保つことができていた。そうだ、もしシンヤがぼくにそんなことを訊くことがあれば、そう答えようと思って、ぼくは──


 「だって、目の前にある時だけ大切にしたらいいなら、約束なんていらないじゃないか」


 ぐるりと世界が揺れて、僕らはまたあのボロアパートにいた。ロングヘアーと白いコートの姿に戻った小さいシンヤは、僕が数年前に降りたアイドルのロゴが入ったペンライトを右手に握ったまま俯いている。僕はベッドから立ち上がって、シンヤの髪をわしゃわしゃと撫でた。

 「質問に質問で返すなよ。会話の鉄則だぞ」

 シンヤがゆっくりと顔を上げた。

 「……今日のところは私の負けでいいです。でも、私、まだ納得していませんから」


記憶はここで途絶えている。

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