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 「明日、隕石が落ちるんだよ」

 夕日の差し込む図書室で、ブレザー姿のシンヤがそんなことを言った。どこの図書室かはわからない。少なくとも中学校のそれではないし、高校・大学時代のそれとも微妙に噛み合わない。先月まで資格試験に向けて閲覧室へ通った地元の図書館が一番似ている気もしたが、あれはまともに書架のほうを見やった記憶もないので判別はつけようもなかった。つまりこれも夢だな、と僕は納得することにする。

 「……なにかの本に影響されたか?」

 ふるふる、とシンヤの頭が揺れる。僕と並んで書架の前に立っていたシンヤは、目の前の『モモ』を抜き取って後ろにあったテーブル席についた。

 「本当のことだよ。じゃあ×××××は、それが起きないって言える? 明日、地球に隕石が落ちないって証明できる?」

 「そういうのを悪魔の証明って言うんだよ」

 僕は少し迷ってから、一段上に収まっていた『非・バランス』を手に取り、シンヤの向かいに座った。「未来に起きないことの証明は土台不可能だ。でもだからって、それが起きることの証左にはなりえないだろ」

 「でも明日、隕石は落ちるんだよ。その時にどうするかって話をわたしはしているの」

 「はぁ」

 シンヤは僕に一瞥もくれず、その目線は両手で開いた本の中に注がれていた。ただしその本はどう見ても上下逆さまで、シンヤにそれを読む気があるとは思えない。シンヤの話は続く。

 「明日隕石が落ちるとしたら。今あるものがすべて失われて、無に還るとしたら。そういう状況であったとき、最後に自分が何をしたいか? わたしはいつだってそういうことを考えるのが好きだし、明日隕石が落ちても満足できるように生きていたいの。これが『隕石理論』」

 「『隕石理論』ね。これはまた……刹那的だな」

 シンヤの方を見やると、むっとした表情で逆さまの『モモ』から顔を上げたシンヤと目が合う。

 「刹那的じゃ駄目なわけ?」

 「いいや。でも、それだけじゃ生きられないだろ? 地球最後の日にしたいことなんて、大抵溜め込んだリソースを使い尽くすものだって相場が決まってる。本当に隕石が落ちるならともかく、そんな積み上げを全否定するような生き方を毎度繰り返すようじゃ、総体として生活はままならなくなるんじゃないか?」

 「……そういう話じゃないの、×××××はわかってて言ってるよね?」

 シンヤが『モモ』をパタンと閉じた。そのまま校庭側の窓に向かい、閉められた窓を大きく開けて手すりに寄りかかった。僕は本に栞を挟んでからシンヤの後を追いかける。

 夕陽が山際に沈むところだった。

 「隕石理論は、積み上げることの全否定じゃない。そもそも、最後にしたいことが『リソースの消費』だけに決まっているわけがないもの。主観世界が終わるかもしれないとわかったとき、せめて最後にどうしても今の自分に『積み上げ』たいものを選ぶ。隕石理論が導くのは、たったそれだけ。宵越しの金を持たないとか、別にそういうことじゃないの」

 そして、シンヤはしばらく黙り込んだ。僕はシンヤから目線を外し、黙って暗くなっていく窓の外を眺めていたが、そのうち何かがおかしいことに気づく。いくら暗くなると言っても、空の色はふつう紺色程度止まりのはずだ。しかし空は陽の沈んだところから順に塗り潰したような黒色に染まっていき、最終的には図書室の灯りが届くあたりより先はすべて漆黒に染まってしまった。

 「シンヤ?」

 慌ててシンヤがいるはずの左を向くが、そこにシンヤはいない。後ろを振り返ると、シンヤは元の席で本を開いていた。ただし、その本はもはや『モモ』ではなく、シンヤの持つ本の色は──表紙も頁も、一面の赤。僕は思わず息を呑んだ。

 「×××××は、刹那的に生きるより計画的に生きる方が合理的だと思ってるんだよね」

 「……そりゃそうだろう。より幸福な未来を実現するために、最も重要なのは設計だろう?」

 「でもダメ。×××××はそこを間違えた。計画性があるから合理的とは限らないよ」

 「一体どういう……?」

 図書室の奥から薄黒い靄が漂ってきた。靄は直ぐにシンヤにまとわりつき、シンヤの姿が見えなくなる。と同時に、背後からシンヤの声がした。

 「ねえ×××××。あなたはなぜ嫉妬するの?」

 僕は暫し考え込む、フリをした。「味方を奪われる潜在的な恐怖に怯えているんだ。何せ『味方が在り続ける』という成功体験に乏しいからね」

 「嘘吐き」

 今度は違う方向から声がした。窓と手摺りがあるはずのそちらを振り返ると、むしろもはや辺り一体には図書室の風景など見る影もなかった。あるのは平面的な風景、一面の黒い靄と、僅かにそこに見えるシンヤの顔。

 「あなたはいつも計算をしている。観念的に他者のリソースを占有して、つねに優越感を得るためにはどうしたら良いか。長い目で見て得をしたいから、そうやって他者を眼差すから、思ってないことだって言える。みんながあなたに振り回される」

 「違う!」

 目の前のシンヤに向かって叫ぶと、シンヤは雲散霧消する。するとまた次のシンヤが、また違った方向から歩いてくる。

 「演算結果として、あなたが損をする方が多いと、すぐに愛を吐くことに疲れてしまう。先を見て、計画的に、動こうとするから。新たな論理可能性の演算を行うより、脳死で愛を吐いていたほうが楽だから、あなたは新規要因を『嫉妬の対象』という形で憎んで遠ざけたがる」

 「やめろ、シンヤ、君は一体何を──?」

 シンヤは浮かんでは消えていく。耳元で、僕に何かを囁きながら。決して考えたことがなかったはずのそれらは、しかしながら僕の中で輪郭を持って落ち込んでいく。バーナム効果万歳だ。ついには耳を塞いでしゃがみ込む僕の前に、赤い本を持ったシンヤがやってきた。

 「本当に計画性がある方が合理的だと思う? 自分にとって何が大事かわからなくて、ただただ石橋を壊れるまで叩いているのは、×××××にとって本当に合理的なことなの?」

 「……嫉妬が醜いことくらい、わかってるよ」

 僕が頭を掻き毟ると、シンヤは頭の上で心底楽しそうにケラケラと笑った。

 「明日隕石が落ちると思って、本当にいまの自分に欲しいものだけをあとひとつずつ積み上げて行った方が、よっぽど理に合(かな)うと思わない? ねえ。見えもしない悪意や、ありもしない事実を拒むより前に」

 僕が恐る恐るシンヤを見上げると、シンヤは赤い本を掌の上に広げていた。それをシンヤは少しずつ閉じようとして、そして僕は気づいた。その本が閉じていくにつれ、自分の視界も狭まっている。

 「あなたの嫉妬を取り除く方法が、たった一つだけあるの。それ、なんて言うか知ってる?」

 目を丸くした僕を嘲笑うかのように、閉じかけた赤い本の最後の幾分かの幅を、シンヤは勢いよく閉じる。閉じると同時に、僕は終わった。


 「そういうのを悪魔の証明って言うんだよ」

記憶はここで途絶えている。

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