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さいたま国際芸術祭2023


 にゃあ、とねこが鳴く声がした。
 そこではねこが二匹、何やら『かりかり』のようなものを皿から食べていた。
 どこからともなく『かりかり』が出てくる皿が置いてある、というのは聞いていたような気がするが、ここだったか。これを見た人も、皿があるとは報告していたが、まさか本当に『かりかり』が出てくるとは思っていなかったのではなかろうか。
 なんとなくそのねこらには近寄り難くて、僕はそのまま脇を通り抜けて先を急いだ。

1.

 門は二つあった。一つは明らかにこの世のものとは思えない黒い靄を纏った門で、屋敷の錆びつき具合と全く噛み合っていないつやつやの門。もうひとつはおそらくこの屋敷にもともとあったのであろう古びた門だ。つやつやの門の脇では『ちぇしあ』のようなふさふさのねこがにっこり笑っている。
 すべての状況を看破するためにはきっと、つやつやの門を抜ける必要がある。僕の直感はそう告げていたが、少なくとも今の僕にはその資格はない。ひとまず僕は古びた門を押し開けて先に進むことにした。

2.

 屋敷に入ると、一階にはやはり何もなかった。
 何もないものを見て、何かがあるふりをするのは莫迦だ。裸の王様だ。何かを都度得られないとそれらを無駄と一蹴する『たいぱ信者』のすることだ。だからぼくは、なにもないに向けて何かをおもうことはなかった。おもわなかったことにして、先に進んだ。
 なにもないには誰かの手入れした花が咲いていたが、『たいぱ信者』だと思われたくなくて、あまり見ていないことにした。
 礼拝堂には入れなかった。

3.

 二階には小さな水たまりがあって、人三人くらいが腰かけられそうな石が並べてあった。水たまりはどうやら足湯らしい。先客のねこは特製の銭湯鍵を首に提げ、慣れた様子で浸かっていた。にんげんには足湯でも、ねこには温泉かもしれない。
 試しにそっと水たまりに手を伸ばすと、水に手を触れた瞬間から脳内に声が直接響いてくるのがわかった。誰の声かはわからないが、昔話をしているようだ。
 だがその語り口がどうにも妙だった。昔の話をしているはずなのに、今すぐそばにいるような、今まさに声の主が語り掛けているような、たとえば今すぐこの水の中から彼女の手が伸びて僕をこの水たまりの中に引きずり込むんじゃないかと思うような────
 怖くなって僕があわてて利き腕を水たまりから引き抜くと、ついてきたしろねこはしっぽを湯に垂らしたまま毛繕いをしていた。僕は開きかけた口を閉じ、しろねこには悪いことをしたなとおもうのだった。
 黒い靄の向こうの礼拝堂は扉が開いていたが、やっぱり礼拝堂には入れなかった。

4.

 三階はきっと半分水浸しで、その意味は少し考えてみたかった。
 なにもないに必死に意味を見つけるのは意地汚いとおもうけれど、ここに何かが残っているには違いなかった。靄の向こうからしか記録できないのも、ここに咲く花も、どちらもまちがいなく『でざいん』だった。錆びたりくすんだりするならそれは後退のはずで、それをあえて逆向きにするのは『でざいん』と呼べるはずだった。ここには、それぞれが信じる神様がいて、それがここたちを半分水に満たしているのだとおもった。
 でもたぶん、ここに神様はいない。神様は自分で見つけなくてはならない。
 僕はそれに喜んで良いかわからない。

5.

 ぼくは『とろんぼーん』を吹いていた。十年以上前の話だ。
 相対音感があることだけがとりえだったころ、ぼくはじぶんを音楽の才能に満ち溢れていると過信し、そして痛い目に遭った。
 今でこそあの鼻っ柱は折ってもらえてよかったとおもわなくもないが、結局ぼくは必要最低限の発表機会にしか参画できなかったとおもう。ほとんどが校内のそれだ。だから僕には想い出の地がない。
 けど、そうじゃなかった人にとっては、これが最後の演奏会になるのかもしれない。観覧席にたどり着いた僕はそうおもった。そういう人はきっと少ないけれど、それもまた芸術だろう。そもそも、ひとが芸術を享受するとき、享受できるものの内容は芸術の本質的芸術価値よりもそのひとの体験に依る。だからその演奏会を、僕はすこしだけうらやましくおもった。
 しろねこは今度こそ寝てしまったので、僕はしろねこを抱えて観覧席を後にした。
 黒い靄は極力見ないようにした。

6.

 つやつやの門をくぐって、黒い靄の中に入った。


 ひとりめのねこさんは、おてほんさん。
 笑いをさそいながらも、ほがらかに。
 一日分の仕事をおえて、さっていく。

 ふたりめのねこさんは、とらうまさん。
 止まらない電話、繰り返す質問。
 仕事場からは、帰れない。

 さんにんめのねこさんは、ほんとうさん?
 こねこさんとふたり、並んで舞台。
 かつてあった日、もしくはいつかある日。

 よにんめのねこさんは、おなやみさん。
 先導者でありながら、追従者であること。
 夢か現か判らない、そんな問答を添えて。

 ごにんめのねこさんは、おかあさん。
 ひとりのじかんは、もくもくとすぎて。

 さいごのねこさんは、まよえるねこさん。
 きっとだれかに、きいてほしくて。

 いつまでも、誰かだけのおかあさん。

 ねこさんの答えは、見つかったかな。


7.

 靄の中は、いきなり二階だった。向こう側には、さっき入った足湯も見える。靄の中では扉が開いているので、礼拝堂にも入ることができた。

 礼拝堂には何人かの人がいて、教壇…? の近くに司祭? とおぼしき人がいて、それからねこさんがなんにんかいた。僕らは靄の中から、合法的に彼らの、なんらかの練習を覗き見ている様だった。僕らが入った扉からの道はあきらかに礼拝堂の構造と噛み合わず、座席も祭壇もお構いなしに靄の道はつづいている。ふしぎと声は鮮明に聞こえてきた。
 僕は直感的にそれがなんだか気づいた。自信があるわけではないが、あれは多分お星様だ。そこで、できるだけ覗き見をしてみようと思った気持ちはややめげてしまって、僕は礼拝堂をあとにした。

 それが作為であるというわかりやすい表現は、わかりやすくて好きだが、しかし同時にわかりやすさというのは『たいぱ信者』の大好物であって僕は嫌いだった。案の定、そこにはいつみても人間がいた。僕はそういうところに伏線とか解決とかを求めたくない。僕はこんなところにまで、起承転結でめでたしめでたしする物語を食べにきたわけではない。
 どちらかというと、用意された回答を見つけるよりも、回答につながりうる様なものを自分で見つけて、それを追いかけた自分の軌跡をこそ芸術だとおもいたい。たとえば、水戸の住所とか。

8.

 靄越しに見える三階も、特に変わったところはなかった。僕は少しだけ落胆した。
 私たちは一つの物語しか選べないのか? きっと今なら、答えは「はい」だろう。『たいぱ信者』の手に掛かれば、すべての過程と真相は「表向きの偽り」と「裏の真実」にかんたんに分別される。みんなが、鏡に映ったそれを撮る様に。

 明らかに通ってはいけないであろう扉(正直ここが一番興奮した。)を抜けると、そこは演奏会場の待合室だった。ここから階段を降りることはできないが、一見別々の建物に見えた演奏会場と屋敷がつながっていたことに僕は驚いた。先程は気づかなかったものの、靄の中からは演奏会場を見下ろすこともできた。僕は馬鹿ではないが、煙なので喜んだ。

 僕はそうとわかりやすい表現が嫌いだとは言ったが、わかりやすいからといってわかりやすい表現全てが嫌いなわけではなかった。ちゃんと手順を踏んで吸えばとても美味しい芸術は、わかりやすくだけわかってほんとうはわからなくてもちゃんと美味しいものだ。そしてそれをほんとうにわかると、その芸術はより一層美味しくなる。物は考えようだ。
 自販機の上の『てれび』では、しろねこが缶を投げていた。かんぺきな姿勢だった。僕は歓声を上げた。
 『ナイススライダー!』

9.

 お星様を見届けたあと屋敷の一階に戻った僕は、演奏会の短篇映像でとある少年が『とろんぼーん』を吹いていたのが「なにもない花があるところ」だったことに気づいた。
 あれが何年前の映像かはわからないが。
 どこかのだれかという彼が。
 この場所で。

 今度は迷わなかった。僕は懐から写真機を取り出し、花の写真を撮った。
 あの、特徴的な椅子と壁と一緒に。

10.

 屋敷をあとにして帰ろうとすると、行きに通ったかりかり皿のそばにまたねこがいることに気づいた。よくみるとすぐそばには鉄格子のはまった窓があって、『かりかり』はこのなかにいたねこが差し出したものらしかった。
 しろねこがどうしても、というので、僕はねこに『かりかり』と、それからぎんいろの『しいる』をもらった。今日の記念になるだろう。

 『かりかり』は、しろねこには大変好評だった。


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