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 ヒロミさんのお姉さんの話を完全に信じたわけではないけれど、でもやはりこのところなにかにつけてヒロミさんの現れる夢を見てはいたから、気がついた時すぐ隣の椅子にヒロミさんが座っていたことに私はあんまり驚かなかった。私たちがいたのは高校の敷地にあったチャペルと今の大学にあるチャペルを足して2で割ったような、小さな教会だった。ヒロミさんは、私と目が合うとにっこり笑った。

 「おはよう、新谷」

 「おはようございます、ヒロミさん」

 ヒロミさんはチャペルの椅子に腰掛けたまま大きく伸びをして、それから辺りをきょろきょろと見渡した。なるほどねぇ、と小さく呟くと、こちらを振り返る。

 「新谷はそんなに僕に会いたかった?」

 な、と固まる私に、ヒロミさんは冗談だよ、と手を振ってけらけら笑う。そりゃ、ヒロミさんが私の夢に出るのは、私がヒロミさんに会いたいからに決まっている。決まっているけれど、どこかでヒロミさんがわざわざ会いにきてくれたのだと、思ってしまいたい気持ちもあった。ヒロミさんはひとしきり笑った後、咳払いをして、少しだけ真面目そうないつもの表情をした。

 「なあ、新谷」

 「なんですか?」

 「新谷は、神様っていると思うか?」

 私たちは、高校・大学どちらも宗教系の学校に通っていた。ただし決してその宗教の信者以外の入学を拒むわけではなく、もちろんヒロミさんを追っていた私は神様など信じてはいなかったのだが。そういえば、ヒロミさんがどういう意図でこの進学先を選んだのかは、考えたことがなかった。

 「んー……。いたらロマンチックだなぁって思うことはありますけど、別に存在を信じてはないですね」

 「そうか。まぁ、僕も同じだな」

 「そうなんですか?」

 ヒロミさんは一瞬だけこちらを見て、ふふ、と笑った。それから正面のステンドグラスを見上げて、遠くを見るような目をする。

 「昔から、何かを信じて、そして救ってもらったことがあまりにもなかったんだ。神を、偶然を、世間事象の尊さを信じられるほどの成功体験がなかった」

 「成功体験……」

 「そう。家族に対しても、友達に対しても、恋人に対しても」

 ヒロミさんの発した『恋人』という言葉に、私の心臓がどきりと跳ねる。私の情報網が正しければ現実のヒロミさんが誰かにアプローチをかけたということはなかったはずだが、しかし確かにヒロミさんの周りには少なからずヒロミさんに色目を使う人間がいたように記憶している。あれらのうち幾つかがヒロミさんのかつての恋人であっても、なんら疑問はない。これが自分の夢とわかっていながら、私はヒロミさんの言葉の続きを警戒した。

 「そりゃ、誰かと向き合おうって時に、自分と同じ『好き』を第三者に期待しようと思ったことはないよ。同じ『好き』でなくたって需要と供給さえ噛み合えば幸せだと思えることもあるだろうし」

 だけど、とヒロミさんは少しだけ悲しそうな顔をした。

 「僕は、あまりにも人を見る目がありすぎるんだ」

 「人を、見る目がありすぎる?」

 別に自分を過大評価したいわけじゃないさ、とヒロミさんはまた手をひらひらさせる。ただ、その形容句は私の心にもすとんと落ちた。ヒロミさんは、他人をとてもよく見ている。他人を救うわけに眼差すわけではなく、しかしそれで多くの人間を『救う側』だった。ヒロミさんの周りにはいつも、ヒロミさんに『勝手に救われていく側の』人間たちだけがいた。──もしかしたら、私も。

 「皮肉な話だよ、新谷。欠点だらけの自分を美化せずに正当化しようとしていたら、あまりにも多くの人間が美しく見えるようになってしまったんだ」

 「ヒロミさん……」

 「たぶん新谷も、気づいてるだろ。同じ感情で向き合う他人に出会えなかったどころか、僕は『僕と向き合う気のある他人』とすら出逢えなかったんだ」

 需要と供給さえ、すら叶わず。

 私は唇を噛んだ。きっと、私ならそれができたという気持ちと。『ほんとうのヒロミさん』が亡くなった後で、こんなことを考える己の卑劣さと。

 ヒロミさんはこちらに向き直り、そっと頭を撫でてくれる。

 「そんな顔をするなよ、新谷。僕はただ、すべての美しいものが自分に似わないのだと、それに気づいただけなんだ。僕が愛せるのは僕だけだし、僕を愛せるのも僕だけだった。たったそれだけのことだったんだよ」

 「……そんな、そんなこと」

 「なぁ、新谷」

 ヒロミさんが私の頭を撫でるのをやめ、私の顔を覗き込んだ。私は顔を上げる。

 「新谷は僕のことが好きだった?」

 「〜〜〜〜〜〜ッ」

 慌てて椅子から立ち上がって飛び退った私を見て、ヒロミさんはくすくす笑う。それを見て、もどかしい気持ちと、やるせない気持ちが込み上げる。私は、言った。

 「……好き、でした。本当はもっと早くに言えばよかった。ヒロミさんが卒業するときになったら言おうってずっと思ってて、でもずっと、タイミングを逃してて。本当は、『ほんとうのヒロミさん』とこんな風に、幸せになりたかった。夢でヒロミさんに会う度、ヒロミさんの姿をこうして消費する度、辛かった。でも、私の人生の救いはあなたばかりだった。だからこうして、今でも夢に見るんです。ごめんなさい。こんな風にあなたを消費して、ごめんなさい──」

 溢れるように飛び出した私の懺悔の言葉を止めたのは、ヒロミさんの抱擁だった。危うく息すら止まりかけ、ヒロミさんの腕の中でよろめく。ヒロミさんはゆっくり私の頭を撫でながら、優しい声で話し始めた。

 「新谷は、今ここにいる僕が、妄想の産物だって言いたいんだね?」

 私は、こくりと頷いた。どう考えてもそうだ。これは、私の夢なのだから。

 「じゃあそんな新谷に、僕しか知らないことを一つ教えてあげよう。──僕の自殺を止めてくれたのは、新谷だったんだ」

 「…………えっ?」

 自殺。え? ヒロミさんが、自殺?

 「中学時代。君は知らなかったと思うけど、僕は部活でいじめに遭っててね。もちろん僕にも落ち度はあると思うけど、でも当時は数の差にはどうしても勝てなかった。だから自殺することで、復讐してやろうと思ってたんだ」

 第二音楽室の窓から飛び降りてね、とヒロミさんは笑う。笑い事ではない。5階にある第二音楽室のすぐ外は、普通に転んでも痛いゴツゴツしたコンクリートの道だった。頭から落ちたらまず助からないはずだ。

 「でもまさに、それをしようとしていた僕を呼び止めて、励ましてくれた。それが新谷、君だったんだよ」

 「あ……」

 部内でアンコンのメンバーが決まった日。その日のヒロミさんは少しいつもより顔に落ちる陰が濃くて、それを二年生のヒロミさんをさしおいて一年生の女の子が抜擢されたことが原因かなと邪推した私は、楽器庫ですれ違ったヒロミさんを軽い気持ちで励ました。

 あれが、まさか。

 ヒロミさんが、私の顔を見てまたにっこりと笑う。

 「嘘だと思うなら、姉さんに連絡して僕の部屋にあげてもらえばいい。姉さんは簡単に物が捨てられない人だから、実家の僕の部屋はまだそのままにしてるはずだ。姉さんと連絡先は交換したんだろ?」

 私はこくこくと頷いた。

 「日記でもなんでも、見てみればいい。全部、新谷にあげるよ。夢で会った僕は決して、新谷の妄想なんかじゃないって、見たらわかるはずだ」

 「妄想、じゃない……」

 「ああ。全部、本当のことだ。僕が、新谷に会いにきたんだ」

 再びヒロミさんに頭を撫でられ、徐々に意識がぼんやりとしてきた。だめ、まだ、私はここにいたいのに。

 「ちょっと喋りすぎたかな」

 薄れゆく意識の中で、ヒロミさんの声だけが、私に響く。

 「なあ、シンヤ。人間誰しも、『言葉』を知ることで少なからず自我がその影響を受ける。シンヤがそれを気にする必要はないよ。だから、シンヤはきちんと、自分の人生を生きてくれよ」

 最後に、ポンポン、と頭を撫でられ、私の意識は凋落した。

 「おやすみ、シンヤ」

 そして、誰もいなくなった。

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