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「窓ぎわのトットちゃん」と1%の寓話

 こんな話がある。
 某バイクメーカーが「あなたのところのオートバイユーザーは【悪い人たち】ばかりが乗っている」と言われた。それにバイクメーカーはこう返した。
 「そういう【悪い人たち】はユーザー全体の1%に過ぎない」
 それを知った【悪い人たち】は自らを「1%er(ワンパーセンター)」と称して、そういうパッチを造り、メーカーへの面当てとして背中に貼ったりした。【悪い人たち】なりの意趣返しであり諧謔を含んだ皮肉である。
 1%という言葉に、統計的な意味は無い。
 そもそも統計など取っていないだろうし、取れない。
 【悪い人たち】の線引きが判らないからだ。
 だからといって迂闊な線引きをすれば差別とも受け取られかねない。というかもう、これは露骨さを回避しただけの「差別」の領域だろう。
 メーカー側がユーザーをこのように「差別」するのは、本当に【悪い人たち】の占有率が高く、ブランドイメージの払拭・反論として「1%」という直感的な字面を選んだのだと思う。
 ついでに言うと1%というのは結構、多い。その上でそれは当時の、そのバイクメーカーの占有率を考えれば余裕で40%は超えるとも思う。

 「20%だの30%だのぶっちぎりでおるわアホ」という現実を踏まえての皮肉である。俺はこの話が非常に好きだ。洒落ているし痛快ささえある。
 だがそれは「今」思えることだ。
 当時のユーザーたちにとっては多分に反抗心が込められていたと思う。

 俺はこのエピソードに非常に寓話的なものを感じる。
 何故、某バイクメーカーは「1%」などと言ったのだろうか。それはその数字が「許容されるであろう数字」と判断したからであろう。どんなに強い主張、批判、持論を展開する者であっても、仮に100%だよと思っていても「保険として」そのパーセンテージを混ぜ入れることはよく見かける。
 「1%」という数字は説得力など持たない。裏付けもない。
 ただの保険であり統計的な話ではない。
 
 そして考えて見て欲しい。
 自分は40~50%に属する人間なのだと思っている者が、本当にそのバイクが好きで乗っているというのに、公式に、なんの裏付けもない「1%」に数えられた時、彼らは自分たちの、そのメーカーのバイクに対する愛情というものを「1%に属する迷惑な連中」とカテゴライズされる時の、少なからぬ悲しみという感情を。

 お前たちは悪い事をして迷惑をかけているのだから当たり前だ、と言われればそれもそうだろう。そこには正論があり正当な罰がある。真面目に真摯にルールを守って乗っていればいいのだと思うのが当たり前だ。
 だがそれが出来ない、そうなれない人間もいる。
 全体の、1%ぐらいの割合で。
 そしてまた、その中で「許される」のもまた1%であろう。

 そして自分はただ単に、そのメーカーのオートバイが好きで、好きだから乗っているにも関わらずメーカーから「お前みたいなやつは【悪い人たち】であって、1%の中にいる人間だ」などと言われたら、どう思うだろうか。
 怒るかもしれないし、悲しむかもしれない。
 どちらにどう振られても感情は動くだろう。
 だから皮肉と反抗を込めて「1%er」を自称するのだ。それはあてつけであり、鬱憤晴らしであり、いらないと言われた者の感情の炸裂であり、そして自分の心を守る為の自称なのだ。

 だから今頃になって、最早【別に悪くなんかない人たち】ばかりがユーザーとしての絶対数を占めるようになった今頃になって「1%er」などと、まるでアウトローファッションのようにワッペンを作ったりして貼っているような人間は、嫌われるし鼻で笑われる。何故ならその言葉はファッションではないからだ。
 その言葉は「差別」され「排斥」され「消去」させられた人達の叫びだったからだ。

 何度も言う。この稿の先でも言う。
 この数字は統計上の話ではない。
 人の持つ心情、納得、許容、そういうものを有効化する曖昧な数字を代表する「言葉」に過ぎない。

 「窓ぎわのトットちゃん」という作品は、その1%の寓話であると思う。
 ここ十年ほどで「おかしなやつ」「迷惑な行動をするやつ」「性格の悪いやつ」という自己努力の足りない甘えた人間と片付けられていた人間が次々と精神的な疾患であるという意識が高まり、また自覚もなされ、かつては「恥」とすら思われていた精神科への通院というものも当たり前のこととなってきた。

 だが「窓ぎわのトットちゃん」で描かれる時代背景は、大がかりな戦争に突入する手前の時代の話である。まだ日本という国に余裕があった時代である。それでも来るべき戦争という前段階において、日本国民は平均化を求められ統一性を教育された。
 当たり前のことである。
 軍事力において兵士の質とは個々ではなく全体の統一性と規律ある一斉行動が何よりも大切であり、多少の不満や反抗心が個人の中にあったとしても「うまくやれば」それは誤魔化せる。誤魔化せるというよりも、迷彩出来る。

 だがそれが出来ない人間も無論いる。
 これは軍隊までいかなくても、同じ事だ。その前段階における学校教育の時点で、地固めというものは仕込まれている。価値観すら平均化され、何が正しいかなどというものすら教育される。本来は、個々が決めることであると思うのはやはり「今」だからだろう。
 当時はそれが普通であり、多くの場合、誰もその環境にストレスなど感じなかった。

 だが、その中でも例外はいる。それは強い思想の問題であったり違和感を信じる強い意志であったりと色々だが、当時の空気を考えた時に、そんな人間がどれだけいるだろう? という問いに対して「1%くらい」と言われれば、納得するだろう。あくまで統計上の問題ではない。概念としての「1%」に過ぎないからだ。1%くらいは例外がいるよ、いたよ、という「いなかったよ」という反論の勢いを無くすに足る数字だ。だからこそ先述のバイクメーカーもその数字を口にした。もはや慣用句と言っても差し支えはない。

 そして「窓ぎわのトットちゃん」はその「1%の寓話」の物語だ。
 今でこそトットちゃんを見たときに、見た人間は何らかの病名を想起するだろう。だが時代背景を考えればそんな理解は入り込む余地など殆どない。ただの問題児だ。そして手に負えないから、集団の中からはじき出されてしまう。

 それらの人間を受け入れる場所が「トモエ学園」だ。
 そこには1%erの「居場所」がある。居場所を提供されている。
 1%erの居場所は少ない。だからこそ、例えばチーム、クラブ、日本で言えば暴走族、そして暴力団、そういったものに彼らの居場所は提供されていた。
 人間は弱い。居場所が欲しい。自分がいていい場所を常に欲する。
 トットちゃんがトモエ学園に初めて訪れた時に、支離滅裂で繋がりのないエピソードを飽きもせず立て続けに語り続ける。聞いている方がうんざりするような一人語りを、校長は好きなだけ喋らせ、聞いている。
 そして言う事がなくなった、いつもなら途中で遮られていた一人語りを気が済むまで喋ることが出来た、その最後にトットちゃんが口にする言葉は「どうして私は問題児なんだろう」だ。
 俺がこの物語で心を鷲づかみにされたのは、この一言だった。
 彼らは1%erになどなりたくない。
 少なくとも、望んでそうなりたくはない。
 劇中、他の学校の生徒たちが徒党を組んでやってきて、イジワルをする。トモエ学園にいるような連中は兵隊にもなれないのだと小馬鹿にする。この時代において「兵隊になれない」「戦争の役に立たない」という存在は共同体に属することが出来ないという「出来損ない」だ。
 だからトットちゃんは前に出て言う。
 トモエ学園はいい学校だと。
 そこには、自分の居場所があるからだ。
 外にはじき出された自分を受け入れてくれた共同体が「いい学校」でないなどと到底、認められることではない。そして他の生徒も同調し、その圧力に嫌がらせをしに来た連中は退散する。
 何故なら嫌がらせをしに来た連中は言われるがまま流されるままに「普通の学校」に所属しているだけでそこに強烈な愛着があり信念があるわけではない。そこにしか居場所がないという相手の圧力に抗しきれないのは、当たり前の話なのだ。

 だがその「居場所」ですら当たり前の人間らによる善意、気遣いで初めて成り立っている。トットちゃんはよく理解していない、というていで表現されているが、偶然、先生が校長に怒鳴られているシーンに出会す。
 生徒に対する気遣いや理解が全く足りていないと叱責されている。それは本当に、うっかり口にしてしまったという程度で、それほどの問題も自覚していなかっただろうし、言われた相手もショックを受けたというリアクションではない(このシーンは非常によく描写されていて、大袈裟な演出はなく相手の内心は伺うことしか出来ない。気にしていなかったかも知れないとも受けとめられる)
 彼ら「1%erの居場所」は無数の気遣いと意図的な善意で成り立っている。
 ただ単に、自然に、友達のように接してくれている訳ではない。
 トットちゃんがもしもっと大人で、自分がどういう人間なのかを自覚していたら、このシーンはとても残酷なシーンになっていたと思う。

 この作品は戦争が激化する前の話であり、それなりに暢気な描写は続く。
 ロマンチックで幻想的な描写で綴られる、少年少女の恋愛にも似た友情(俺はアレは恋愛というほど近しい物ではないと思う)を軸に描き、暗い気持ちになるような作品ではない。
 道徳の授業で見せられるような、露骨な反戦作品、どれほどの悲劇が巻き起こされたかなどという作品とはアプローチが違う。反戦、というメッセージが込められていないとまでは言わないが、非常に希釈されている。
 トットちゃんが現代劇だったとしても変わらないメッセージがこの作品の軸となっている。
 だから俺はこれは「1%の寓話」なのだと思っている。
 寓話は時を経て舞台が変わっても人の胸に爪痕を残すからだ。

 作中で、小児麻痺の子供が出て来て、トットちゃんと先述した恋愛に近しい友情を築く。
 ここは俺は本当に大事なシーン、大切な展開だと思っている。
 メッセージというならば、ここにあると思う。
 トットちゃんの持つ「疾患」は精神的なものであり、ましてや子供である。相手が幼い場合、それが疾患なのか、子供なりの未熟さなのかは判定しにくい面があり、本人の努力や自覚、成長によって消えていくものかも知れない。現実にほんの最近まで、そういった「疾患」は甘えであるとか性格が悪いだけと片付けられていただろう。
 小児麻痺は違う。見ただけでそれが「疾患」と分かる。
 疾患というものがあるから共同体に属せないということを他人に分かって貰わなければならないと考えた場合、それは例えば手足が存在しないであるとか、最早コミュニケーションすら不可能なほどに精神が破綻しているほどでなければ、その疾患を理解して貰うのは困難だ。これは、これほど様々な精神疾患があるのだと広まった現代においても解決の難しい問題だと思う。

 トットちゃんは小児麻痺の相手を木に登らせようとする。
 そこの居心地、そこから見える景色、そういったものを見せたいという善意だが、当然、登ることは出来ない。単にひ弱で度胸がない、というなら、木に登るという行為が自分の限界を打ち破るという「努力」として描かれるだろうし、やらなければ観客もストレスが溜まるだろう。
 だがもう、絶対に登れないのである。努力で埋まる話ではないのだ。
 誰もがそれを分かる。トットちゃんが善意とは言え何としてでも登らせようとするとき、観客が見ているときに思う事は「無理させて死んだらどうするんだ」というトットちゃんへの反発が大きいだろう。
 実際、登ったところで得るものは特に大きくなかった。
 彼は脚立を使って「登らされた」のであって自分の非力さを自覚させられただけである。のちに、腕相撲大会(といっても参加者は数人だが)があり、トットちゃんは異常な強さを見せ連勝を繰り返す。余談だが、トットちゃんが怪力無双の身体能力を持っていることは各所で描かれている。決して大柄ではない普通の少女であるトットちゃんのそれは「スイッチが壊れている」という描写でもあると思う。
 その腕相撲大会に(幼い恋愛としての嫉妬心から)意を決して参加した小児麻痺の男の子相手に、トットちゃんはわざと負ける。これは好意の表れなのだが、相手は激怒する。不快感をあらわにする。
 自分の居場所だと思っていた場所が他人の気遣いで違うと自覚してしまう。先述した教師に対する説教がそれを現している。彼らは自分の居場所に対する違和感を察してしまったとき、失ったのだと感じ、そして奪われたと誤解し、その時にそれは怒りとなって噴出する。

 別にそれで二人の仲は決裂はしない。
 だがその怒りのシーンは俺の心をぶち抜いてきた。善意も悪意も関係ない。トットちゃんはわざと負けた瞬間に、トモエ学園にいやがらせに来た連中と同じ存在になっていたのだから。それを理解しろと言ってしまうには、やはり相手が幼すぎ、純朴に過ぎるだろう。
 素直に作中にぶつけられない感情は胸の中にもやもやと残った。

 その後のエピソードで、トモエ学園にプールが出来たというのでみんなで泳いで遊び始める。当然、体力的な、運動というものに悲観的とさえ言える考えを持っている小児麻痺の子をトットちゃんは無理に引っ張り出す。
 またかよ、と思う。
 だがその考えは一瞬で覆される。
 彼は水の中に飛びこんだとき、溺れるどころか「水中では地上よりも身体が軽くなり、動ける」ということに気づき、その事実が、彼の人生でも最上級ではないかという喜びを発生させる。
 その時の俺の感動は説明し得ないほどだった。
 彼はそこに「自分はここなら動けるのだ」という居場所を見つけたのだから。

 人間はそうやって居場所を求め、どんなに斜めに構えて「そんな場所はいらない」などと言ってみたところで、見つかったのならばそこにいたいと願うだろうと思う。
 その場所を守る為なら死んでもいいとすら思う、と言っても言い過ぎではないと思う。流浪するのが好きな人間などいない。居場所がないからそうしているだけだ。
 その異常な執着心も描かれている。
 縁日でヒヨコを買って貰えなくて駄々をこねるシーンで「この先、一生何かを買ってくれとはねだらないからヒヨコを買ってくれ」というシーンだ。トットちゃんは一生という長さを自覚していないだろうが、それでも一生を引き換えにしてでも「欲しい」と思ったものに執着する。
 これは得られないものを得られる、と思った、やっぱりダメだったという結論を意地でも覆し、何を犠牲にしてでも得たい、喩えそれがくだらない、すぐ死ぬような縁日のヒヨコだったとしてもだ。
 それでも、そんな執着心には背を向け、流浪するのが性に合っている、という人間もいるだろう。
 1%くらいはね。いてもおかしくない。
 そういう「言葉」なのだ。1%という言葉は。

 先述したがこの映画は道徳的な面を押し出した説教臭い映画ではない。
 ファンタジックな演出で、社会からはじかれて尚、そこに喜びを見いだす少年少女たちの交流を描いた作品で、俺が長々と書いてきたことなどフレーバーに過ぎない。
 だがフレーバーから漂う匂いは、やはり作品のトーンに影響する。どうでもいいものでは決してない。だからこの作品は本編を楽しみながら、どんな匂いを感じ取るかで印象は変わってしまうと思う。
 それもまた、作品の楽しみ方ではある。

 俺はこの映画を見て、精神疾患というものについて改めて考え直させられたところがある。初めて知った、というのではなく、それなりに理解していた心算でもまだリアルな理解は足りていないとそう思った。

 例えばだが、小児麻痺の子を無理に木に登らせようとして、落ちて死んでしまったら、トットちゃんはどんな罪に問われるだろうか。事故、で済むかもしれない。仮に殺意があったとしてもそうなるかも知れない。
 だが成長し、大人になり、どうしても社会性というものを切り離せなくなった時に、そのようなことをしてしまったらどうだろうか。
 「あの人は精神疾患だから」で許すべきなのだろうか。
 精神疾患、心神喪失により無罪、そのような判決は人権というものを考えた上で配慮した上での制度かもしれない。だが実際に被害を受け迷惑を被った方はそんなことで納得するだろうか。
 「理解する」と「納得する」はまた別の話である。
 どこまで理解し許容すれば、それは「差別」にならないのだろうか。
 差別ではないと主張したければ相手の詐病を疑うしかない。お前はまともな人間で利己的な悪意の上でそれを行ったのだと主張し、自分の言うその理屈を信じるしかない。
 全く関係のない他人だって、話を聞いたらそんなものは詐病だし、仮に詐病じゃなくたって許すな、ともなるだろうし、実際に、そう言う。精神疾患は目に見えない。目に見える理由があるのならば、そのトーンは下がるだろう。それは時代背景は関係のない、何十年過ぎようと今になってもどう解決していいのか分からない、そういう問題でもある。
 何かしらの、そういった案件に接したときに生じる自分の感情、自分の意見、そういったものが本当に正しいのかどうか。
 そんな不安が広がってくる。
 本当に、そうなのかも知れない。この事件の犯人だけは例外なのかもしれない。そんな可能性を完全に否定できるものだろうか。
 「1%」という言葉、概念にはそういう側面がある。
 結局、落とし所はそこにある。その言葉の中にある。
 一切の例外を認めないことに対する抵抗は当たり前のことだ。
 誰かを許せないというなら、残り99%に押し込めなければならない。
 それは果たして正しいのだろうか。
 考えてみたって俺にはさっぱり、見当も付かないのだが。

 ところで似たような作品に「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という作品がある。俺が好きな映画である。夢想癖のある女性が生きづらさを抱えて生きていく中で、夢想の中にある幸せを非常に際立たせた作品だ。
 アプローチは全く違うが、俺は同じものを描いていると思う。
 そして真逆の造りとなっている。
 何が真逆かはご存じない方はひまな時にでもご覧頂きたい。
 こんなこと書いて俺も悪趣味な奴だなという気はするが。
 仕方ないじゃん、そういう人間なんだからして。俺は。




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