AI生成にまつわること

はじめに

 僕自身は、絵も描けばプログラムも作るし、AI生成も使うし、いろいろな視点を持っているタイプです。というわけで、いろいろまたいでる人間の1人はどういう考え方なのかをスタンスの提示とともに書いておこうと思います。
 まず、AIの画像生成を中心に。

作る人はAIで生成できようと作る

 まず、AI生成についてよくあるのは、使う人達全体を悪人とするような見方は、感情的で視野が狭いと考えます。

 もし、AI生成が悪いなら、検索エンジンを使っている人も、自分好みのニュースやメディアが表示される恩恵を受けていること自体も悪です。

 AI生成を法的かつ産業的に問題ない範囲で使っていこうという人たちもいますし、転売ヤーのようにメルカリを悪く使うような人達もいます。

 さて、私たちはもうすでにAIの活躍によって1つ、人間がかなわないな、そしてそれでいいよね、とした分野があります。すでにそういうのを許している、今、反AIの人達はその時抵抗したのかと考えると推測ですが、全くしてなかったんじゃないでしょうか。そう考えると、自分の番にならないと真剣に考えないというのはいささかいい加減だなと。

 と言っても、AIが優秀になったからそれが廃れたかというとそうでもありません。それは将棋です。将棋で、人間はAIに敗北しました。しかし、今でも将棋は残っていますし、にぎわっていないかというと、もてはやされているヒーローがいるじゃないですか。

 将棋と同様であるなら、波を超えれば、結局はAIが生成できようができなかろうが、人は作ることをやめないんじゃないかと考えています。

 個人の趣味も、文化的なものとしても、守ろうと思えばできるし、実際に将棋はそうなっています。

 マラソンだってそうです。馬に乗って走った方が、車で走った方がずっと早いじゃないですか。でも、人は肉体を使って走ります。

 機械であれ、AIであれ、文化を全て駆逐したかというとそうでもありません。もちろん、狂言や歌舞伎、舞台といった表現は映像によって様変わりすることとなっていますが、それでもライブ感というのがあるからこそ、人は1つの場所に集まることを捨てませんでした。

 だからこそ、健全に使う、という前提条件で考えたとき、そこまでひどい目に合う人達がいるのかというと、あまりそうは思えなかったりします。

 もちろん、技術の変化に追い付けなくて、というのはあるかもしれません。アニメでも漫画でもアナログからデジタルへの変化はありました。プログラミングの変化はもっと早いので、技術によって作り方が変化していくことはあります。そして、それが1人の人間の生涯で何度も起こるようになってきた、というのが、今の社会のような気がしています。

学習ものとデータの権利

 よく、学習元のデータが権利的にどうなのか、ととりあげられますが、いまさらよくそんな発言ができるな、と思わざるをえません。

 検索エンジンだって、誰かの著作物であるテキストデータを利用して成り立っています。この検索エンジンにずっと文句を言っている人なら別として、いざ、自分のデータが使われはじめたから文句を言いはじめるというのは、自分に都合のいい時だけ黙認し、都合が悪い部分だけ騒ぐ、というようにしか見えません。

 動画もそうです。これまでは、おすすめに乗せてほしいからと、どちらかというと自身のデータを解析されることを望んできたのではないでしょうか。それを「おすすめされる」から「生成できる」になったとき、ふと手のひらを返したのです。それは、私としては身勝手に見えました。

 学習元のデータの権利を主張するなら、そもそも、検索エンジンもおすすめも、ダメなんじゃないでしょうか?

産業として悪になるAI生成はある

 商業、つまり産業という面から見たら、本来利益を受け取る人の利益が減る、というのは悪といえるでしょう。

 そうしたことが内容、著作権や特許というのがありました。

 AI生成では絵柄の模倣が嫌われています。これは、産業の面において、適切な対処がなされるべきだと考えます。

 具体的に私が思いつけることは、学習データの部分的な公開を法律で義務付けすることです。画像であれば、学習した画像の公開です。タグやそれに付随するメタデータの公開は、おそらくしない方がよいでしょう。

 付随するデータにこそ価値があるため、これは学習データを構築した側を産業として守るためにも、必要です。また、全て公開としてしまうと悪用もされやすくなります。検索の面では不便かもしれませんが。

 こうすることで、JASRACのような第三者機関を立ち上げて、学習データとして利用している場合には、利益を制作者に還元させる、という流れを作ることが理論上はできるように考えます。

 ただ、私自身はインターネット上のデータは検索の情報源として、最初から利用されるものであったので、学習に利用されるのはインターネットで利用するときの税金のような考え方をしてもいいのではと考えます。

なぜAI生成が忌避されやすいのか

 アナログ生成者がAI生成を忌避するのは、アイデンティティを奪われるという恐怖があるからです。

 そうした結果「苦労」という歪んだ理論武装がなされることがあります。

 これまでの「苦労」がAI生成によってかんたんに水泡にきしてしまう、これはあんまりではないか、私達の苦労はなんだったのか、と。

 でもAI生成も多くの人達の「苦労」の結果、出来上がったものです。1個人の苦労と、あまたの人の苦労を比べてしまうと、どちらが重いかは明らかなはずですが、アイデンティティを奪われる恐怖から、自分たちの苦労しか見えず、批判している人も多いように思います。

 AI生成は一朝一夕でできたものではありません。FaceBookが人間の顔を小さいサイズで生成できる、とかそういうところから徐々にいろいろなアルゴリズムのブレイクスルーと、グラフィックボードの能力をCPUの計算でも一部使えるようにしたりと、様々な苦労によって達成されたものです。

 と、それだけだったらよかったのですが、産業的に被害を与える人がいることと、被害を受ける人がそれそうおうに産業的に価値の高い人、つまり声も大きくなりやすい人であるため、そういう流れができやすかったのではないでしょうか。

 この点については、お金が設けられるなら、法律が整備されていなければ何でもする、という人がいる、という話で、AI生成を楽しんでいる人のほとんどは既存の創作者をないがしろにしたいわけではないと思います。

そんなにAIって怖い?

 私はゲームを作っていますし、描けないながらもイラストも自分で描いたり、依頼したり、AI生成を使ったりとしています。

 さて、次のイラストは私が描いたものです。これの仕上げをAIに任せられますか?

 これは「旅人・出会い」を意味するファンタジーRPGのカードの絵です。いろんな世界を渡り歩く旅人という、意味を込めて背景にはいろんな世界を抽象的にざっくり描いています。

 AIでできたのは次まででした。

 これでは、世界の広がりを感じられません。同様のことはたくさんあります。

 宝箱でもそうです。開いた宝箱と閉じた宝箱を描いてもらって使おうと思ったんです。でも、どうしても、同じ宝箱にはなってくれませんでした。現時点ではAI生成にはいろいろな限界があります。

 現状のAI生成には、いろいろな意味を絵に込める人や、それを見出せる人にとっては、わりと限界があるなぁと感じられるものだと考えています。

 また、どうしたって、AI生成をする側にも絵心は必要です。ただ、プロンプトをいじっているセンスを磨かなかった人が作ったものは、ちょっとしたことで化けの皮が剥がれます。

 例えば、AI生成でそれっぽい画像を作って、文字を入れたとしましょう。そのとき、文字の入れ方に絵心のあるなしがはっきり読み取れてしまったりします。

 私の場合は、ゲームを作っているので、絵素材がたくさん量産できると嬉しいのですけど、それでも、難しいなぁと感じることが多いのが現状です。

 もちろん、面白いものも生成してくれて助かるものもたくさんあります。

 ちょっと考えてみてほしいです。次のような絵をAI生成で完成させられますか?

崖から落ちる
劇場
賢者
一匹狼
獣の力を使った強攻撃スキル
思考を巡らせるスキル
祈りによる回復スキル

 行動系のスキルカードや、意味をいろいろ込めたカードはどうもAI生成ではまだまだ難しいように感じています。

創作の受けとりてのリテラシーの不足

 たぶん、産業的に悪化させている要因の1つは、創作の受けとりての倫理観の不足もあるかもしれません。

 そもそも、絵柄の模倣をAIが生成したとして、その商品を買う、という行動は責められるべきことではないでしょうか。模倣作品を作った人も悪者ですが、買った人も責められるべきではないでしょうか。ここに、非対称性を感じます。

 転売ヤーと同じです。転売ヤーから買うのも悪に加担しているのではないでしょうか。

たぶん規制は衰退の道

 今現在、自身で生成できる技術を持っている人にとってはAI規制は一時のやすらぎになるでしょう。

 ですが、日本やアメリカが規制をしたとして、すべての国がそうするわけではありません。むしろ、規制しない方が有利な国があります。

 特許であれ、なんであれ、受け付けませんとした方がその国家としては技術を、産業をどんどん生産性も高く品質も高く、強くしていくことができます。

絵から離れて、言語生成系は人間に至るのか?

 私は、AIに「幻想をいだく機能」を実装しない限りにおいて、人間と同質の知性を持つことはないと考えています。

 人間は脳の容量からだいたい集団を認識できるのは150程度と呼ばれる、ダンパー数というのがあります。これを、幻想の力で超えてきたというのはサピエンス全史でなされています。

 AIはどうかというと、幻想の力を使わずに、膨大なデータ容量によって人間の知性に近しいモノを作り上げているのが現在だと思われます。

 平たく言うと、AIに勘違いする機能を許容できるか、です。

 きっと彼は私のことが嫌いだろうとか、山には神様がいるとか、当てたいキャラクターのイラストを描いたからガチャが当たったんだとか、そういったことをAIはTrueとできるでしょうか。そういうAIを人間は許せるでしょうか。

 たぶん、人間がそれを許せないのではないでしょうか。

 だって、勘違いをするということは、もしかすると、人間がAIに牙をむくから立ち向かわなければならないと勘違いしてしまうかもしれません。そんな機能、危なくて入れられませんよね。

 というわけで、私は、AIは人間と同質の知性を持つことはないんじゃないかと考えています。

最後に

 私はどちらかというと、作ること自体が好きだったりするので、それがどう使われようが模倣されようが気にしないというか、模倣していただいて大賛成だったりします。

 ツールもゲームもプログラミングのデータをGithubで公開しているものも多いです。

 そのとき評価されるより、ずっと残る方が嬉しいです。

 そういうスタンスの違いもあるかもしれませんね。

 教育にも、そこそこ興味があるからかもしれないですし、部分的に全体主義な考えもあるかもしれないですね。

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