VRは流行らず、どうして数学は大衆にうけないのか

はじめに

VRゴーグルがはやりにくいことに対するメモ。

自分の好きなものはより多くの人に認められたいものだ。数学が好きなラス額は素晴らしいとけんでんするし、VRにしてもそうだろう。
この両者は、全然違うもののようでいて、どちらも大衆が、みんなが「いいね」とならないことには共通点がある。

というのも、どちらも「知らない人・使ったことのない人が憧れうるものではない」からだ。

壁はなにか

数学は、それを身に着けて便利に使えば「良いものだよ」と、学習した後でそのありがたさが理解できる。VRも近しい。
だからこそ、大衆にとって大きな壁となる。

そこを突破したものは、ウォークマンだった。ほかにも大衆がなじんだものはたくさんあり、その多くは使っている人に憧れたり、使っていることを知らないけれどいいと思えたからではないだろうか。

音楽を聴きながら町を手軽に歩ける。そんな生活を、その姿を憧れるようにソニーは魅せた。ソニーはなにも、ウォークマンの小型化にまつわる技術や音質で大衆を魅了したわけではない。大衆がひっかかったのは、魅了されたのは、まず、使ったことはないけど使ってみたいと思わせる新しい生活スタイルだった。

いかに優れたものでも、大衆が見向きもしないという、好きな人が使うだけというのは数学がすでに証明している。

VRゴーグルをかぶっている姿、その人間に憧れることができるか?

多くのVRファンはそういうところに無頓着だ。「デジタルな空間の中でいろんなことができて楽しい」として、現実の人間とは極端に切り離す。そう、切り離すようなデバイスであるがゆえに余計にそうなる。

未来はどうなる?

みんなが憧れる存在になるための装置にVRゴーグルはなりうるか。

Youtuberになりたいから、カメラやスマートフォンが欲しい。みたいに、憧れの対象になるための導線があるかどうか。

ただ、そもそも巨大メディアが崩壊していく昨今「みんなが共通して憧れる人物像」というものがそもそもなくなってきているような気がする。今はまだ、TVも死んではいないし、Z世代にとっては主要メディアはYoutubeと思われる。

VRの宣伝というのは、使ってみたら楽しいよに終始している気がする。だからこのままではうまくいかない。

仮想の姿を使うからこそ、場所や年齢などの垣根を超えたコミュニケーションが可能で、そうしたメリットをあまり表に提示できていない気がするし、それはVRゴーグルではなく、音声チャットやテキストチャットにも共通する魅力でVR独自とはいいがたい。

さいごに

最近発表されたソニーのモーショントラッカーのmocopiのPVを見ていると、現実の人間との地続きで、みんなが憧れるような装置として見せていこうとしているように感じた。

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