「めんどう」でもやれる時とやらない時の違いを自分の経験をもとに検証、めんどうでもやるためには何をすればいいのか考えてみる

正直自分はめんどくさがりだと思ってた。

でも実際のところ誰にだってめんどくさいと思うことは沢山あるはずだ。

ただめんどくさいと思いながらもちゃんとやれる時とめんどくさいで終わってしまう時があるのはなぜなんだろうか?

同じめんどうと思いながらもできる時があったりできない時があるのは意思の問題であったり、気持ちの問題とはまた別なところに本当の原因はあるのではないかと考える。

めんどくさがりの一言で終わらせては
いつまでたっても原因はわからないまま​

何故自分がこんな事を書いてるのかというと、元々自分自身がめんどくさがりでついつい色んな事をサボってしまう人間だと思い込んでいたからだ。

何をやっても続かない、意思が弱い、自堕落な人間のようにまるで自分の心や考え方、意思の力が不足しているからそうなってると信じ込んでいた。

でもよくよく冷静に考えてみると、どれだけめんどうでも仕事をサボることは今となってはなくなったし(恥ずかしながら20代の頃はありました笑)
好きな事であればめんどうと思っても続けられる。

二十歳になってからパチンコにハマってしまって、仕事でもの凄く疲れて流石に今日はパチンコ行くのめんどうだからやめようと思いつつ気がつくとパチンコに行ってた時期もあった。

その一方でめんどくさいからとお風呂に2、3日入らなかったり、洗濯するのもめんどうだと同じ靴下を何日も履いたり。

汚い話で申し訳ないが振り返るとそんな事をやってた時期も確かにあった。

今はどうかというと、こまめに洗濯もするようになったし、お風呂に関しては朝と夜の2回入るようになったし、オマケで毎日自分で弁当を作って弁当持参で仕事にも行けるようになった。

以前の自分からするとまるで別人のようである。
何か特別なことでもあったのか?

何か大きな心境の変化があったわけではない。
あえて言うと職場が変わって、住む場所が変わったこと。

以前は会社の寮で風呂も共同のシャワーしかなく、当然洗濯機も共同。
通常の部屋と違って、入居者が変わってもリフォームをすることがないので壁紙も汚れてたし、畳もすり減って所々下地が見えているような箇所もあった。

環境で人は変わると言うけれどまさにその通りだ。
以前の部屋は汚く、綺麗にするという気持ちが起きてこなかった。
部屋もそうだけど、自分自身に対しても綺麗にしようという意識が起きてこなかった。

今年の4月に仕事も変わって、その時に部屋も綺麗なワンルームマンションに変わった。
たったそれだけの話なんだけど、洗濯も風呂も以前とは比べ物にならない頻度で行うようになった。

もちろん今でも時々はサボりたくなることもあるので、ついつい洗濯物を溜めてしまったり、昨日の夜お風呂入ったから今朝のシャワーは入らなくていいかと考えて入らなかったりしたことはある。

だけど基本的にはちゃんと洗濯と必ず毎日お風呂には入れるようになった。
めんどうと感じても気持ちを切り替えて自然とできるようになっていった。

そうやって毎日過ごしていくうちに、以前ならめんどうで絶対にやらなかった自炊も始めるようになって、オマケに弁当も作るようになっていった。

ここで最初に話を戻そう。

あれ?確かに自分はめんどくさがりだし、めんどうだと感じる瞬間は今でも多々ある。
でもそれでも「できる」ようになってきている。
めんどうと感じるけどできる。

これこそが今回一番言いたかったこと。

めんどうと感じることは以前とあまり変わらない。
以前ならそこで終わらせていたけど、今は実際に行動するようになってる。
この違いは何なのだろうかと考えたら、一番はやはり環境の違い。

以前は自分がシャワーを浴びたいタイミングで別の人に使われて入れなかったり、洗濯機も同様。
それに加えて普段の生活する場所も汚かった。

でも今は好きなタイミングで風呂も洗濯もできるし、部屋も片付いてて綺麗な部屋である。

そもそも意識が知らず知らずに変わっていたことが大きい。


次に以前に比べたら格段に手間が減ってる。
以前はシャワー室で洋服を脱ぎ、ある程度乾かさないとシャワー室から出てこれなかった。

洗濯にしても洗濯カゴに汚れた服を入れておいて洗濯の度にそれを洗濯機に運び洗剤も一緒に運ばなければいけなかった。

それに比べると今は一人暮らしなので部屋のどこで裸になろうと問題ないし、当然汚れた衣服はそのまま洗濯機に入れておけばいい話。

洗濯する時は洗剤さえ入れればすぐに洗濯を始められる。

これで何が言いたいのかと言うと、手間を省くだけでめんどうだと思うことでも毎日続けられるようになるということ。

そして面白いのが今までめんどうと感じてやらなかった事をやれるようになってくると、他のめんどうと感じるような事もできるようになってくるということ。

それが自炊であり弁当作り。


そして今この瞬間のこと。

noteを書くことも以前ならめんどうでやらなかったかもしれないけど、今となっては気がついたらnoteを書けるようになってきた。

最初の頃はnoteを書くまでにノートパソコンを移動させてスイッチを入れて起動させて、書くまでに時間と手間が結構かかっていた。

そこでその手間を少しでも省くために今はタブレットから書くようにしてタブレットは目の前においておくようにした。

タブレットから書くのも少しめんどうだと思った時にはスマホから書けるように少しずつだけど手間を省くようにしていった。

ここまで読んで頂けたならもうおわかりだと思います。
めんどうだと感じてもやれるかやれないかの違い。

めんどうだと感じる事こそなるべく簡単にできるように工夫する事。
そしてめんどうでもやるが習慣になってくると他の事もちゃんとできるようになってくるということ。

めんどくさがりかどうかではなく、まして自分は意思が弱い人間だからと自己嫌悪に陥る必要もない。

これを読んでいるあなたにも嫌でも毎日続けている事や嫌とさえも感じずに毎日続けていること。
そしてやらなければいけないからとやり続けていること。
まずはそれを考えてみてほしい。

そしてそれらを続けるうちに自然と簡単にできるように自分なりに工夫しているはずだ。
それを他のことに応用すればいいのだ。

新たにやりたいことがあるのならなるべく簡単に、思い立ったらすぐにできる環境を整える。

毎回押し入れから引っ張り出すとか、まずは机の上を片付けて作業スペースを作らないと始められないというようなことは意思の力関係なく続けることは難しい。

なのでなるべく簡単に、できればすぐにでも始められるような環境をまずは整えること。

スペースの都合上出しっぱなしにできないのであれば絶対に出さざるを得ない状況を作るとか、自分なりに工夫すればどれだけめんどくさがりでも続けることができるようになってきます。

めんどうでもやれるためにはやりたい事が簡単にできるような環境を整える

やる気だとか性格の問題だけでは解決しないという事を覚えておいて下さい。


さてここからは完全に余談です。
作者に興味ない方はそのままスルーしてくださって結構です。

昨日の記事に今日から新しくnoteを始めるような気持ちで記事を書くと宣言して気がつけばそれなりの記事が書けたと自己満足してます。

今日の記事繋がりじゃないけど、先にやる事を宣言してしまうのもある意味めんどうでもやるということへの助けにはなると思います。

そして今日からはちゃんと記事を見直してその場で修正し、必要であればちゃんと書き直しもしています。

最初にそれをしなかったのは、自分の心への負担を減らすためです。

ちゃんとした記事を書かなければとか、後でしっかり見直すとかタイトルも目を引くものを考えるとか、自分自身に負担をかけてしまうとそれだけでめんどうという思いを引き起こす引き金になります。

今回の記事の中で書いたなるべく簡単にというのは心理的負担という意味も含まれています。
もし今の自分には重荷になるというのであれば段階的に負担を増やしていってみてはどうでしょうか?

いきなり完璧な記事を書くのではなく、最初はとにかく思った事を書き殴る。
箇条書きでも、支離滅裂でも内容が無くても何でもいいと思います。

そうやって書くことへの心理的負担が下がってきたところで次の新しい課題を出していけばいいのです。

自分は今まさにそれを身をもって実施中です。

なので今回からはちゃんとタイトルも考えたし、タブレットでパソコン画面を確認して、スマホでも確認して両方の見え方をちゃんと確かめた上で修正しました。

ただまだまだ実力不足なので、読みにくいとか文字の配置が下手クソだとかあるとは思うけど、それも含めて今後の自分への新たな課題にしていけばいいと思っています。

3ヶ月後、1年後に振り返った時に自分の成長が実感できるようにこれからも毎日コツコツ頑張っていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?