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Berollhi Potimu   あるひの葉舞 .

  
 【「選ぶ」ことの有意 / 超越という事。】

相手の言葉はいつまでも真に受けてはならない。それの嘘可能性と、(根・実 双方への)至能未満可能性の両方(それぞれ)が、どうも崩せないからだ(崩せて初めて真に受けて良い)。

ならば、「自分の言葉」でおなよう(同様)にそれについてはどうだろっか。自分の言葉の嘘可能性は、自分がしっかりとそれに相応しい主性を(およそそうでない人は一人たりともレベルで居ないが。)健全に有しているなら、あり得ない。至能未満可能性の方は、「実方」は私に権限がありすぎるものでもないから残るが、根の部分は主性の働先であるために、崩れる。

論理学の方で考えてみよう。『彼は「〈他者〉であるから」嘘をついているかもしれない』という(発言的、かどうかはどうでもよいが)命題と、『私は「〈自己〉であるから」そうであるかもしれないような嘘をつくことができない(どの場に居てもよいが「思考する」自己は一つしか存在しないから。)』という(〃)命題と(=駄例)よりも、『彼は「〈自己〉ではないから」嘘をついているのかもしれぬ』と『私は「〈他者〉ではないから」そうであるかもしれないような嘘をつくことができない(此の括弧場、野暮だが内容は同前に〃。)』の命題瓦対(麗例)のが今にはうつくしい。

 駄例は謂わば「プラグマティズムの哲学(的出力の晶方形 論理軸筋. )」、麗しい方がより〈単純論理学的〉だ(「より」と言うとスペグラ=一世界観{多数世界観でなく。}が成立してしまってはいるが)。

 彼は自己ではない、とは明らかに誤見だ!

 私は確かに他者ではないが、だからと言ってこそそう言えるのだろうか?こここそ最吟妙晃となれぶよ。

 ここがはじめて(全能の象徴としての神などが、)「論理学的でない=論理学的には=考えていては決して掬えない、現動的な=プラムティカルな、自己というものを抉り出す(複数より単一を誘拐する)」ということの意味が必然的になってくる段階だ。

 「この自己であるからこそ自分に根本的にわからないような嘘がどの口からでも吐けない」のか、「論理典像としての自己であるからこそ、自分が根本的に嘘であるかわからないような嘘をどの口からでも吐くことができない」のか。

 だが【プラグマティズムの段階を抜かして】、「論理像としての自己、他者」と言ってみても、そんな自己と他者のそれぞれに固有の(本質的に現実的な)権意性、意味などがあり得るわけがあるまい。

 ただ無数にあるどんぐりのなかから二つを無造作に取り出し、AとBとそれぞれに1字ずつ書き、「Aは自己」とか「Bは他者」とか書いたところで、現実的=真実的には「Bにとっての自己と他者」と「Aにとっての自己と他者」は〈同価〉であらざるを得ない。