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悪の根源的党派性をちょいと考える

 
 剣技部門の選手の服は根源的に、いや昔から短かった。その短さは多くの性根せいこんを刺激し、盗撮を誘発してきたが、これを問題視する世論の方が一般的となった近現代、次々に服装から工口スを抜き去る世の連動の一として、剣技師のユニフォームにもそれ相応の変化がきたされようとしていた。
 
 一人の小僧が首根っこ捕えられ連れてこられては周りを一回眺めてこう言った。「僕は肌が隠れている方が興奮します。あの、性根がです」どうやら賢く、それは比喩表現であるようだったが、まさにだからこそ、喧嘩を売っていることは明らかだった。少年が言いたいことはこうだろう。僕なんかはそりゃ奇妙な目で見られますよ、少数派だもの。世論の配慮還元先にも含まれませんよ、少数派だもの。
 
 工口くないものが盗撮されることができないのはなぜだろう。工口くあるものを撮られることの嫌さは、どう説明され得るのだろう。と言うのも、工口く思われることは生命歴史学的には肯貢のことに他ならない筈だ。工口く思い、思われることが、一つのセクシャリズムの本質であり、男女共に人生の楽しみとなる他はない。工口く思われることの不愉快の実存は容易に想像できても、それが工口く思われること自体の悪さなのだとは言い切れないではないか。
 
 どうして工口いことを撮ることが、セクシャリズム的クライシス制の「悪=盗」だという風になれたのだろう(経緯は今にゃどうでもいい)。問題は、工口く思われることの性的快感も含めた「利点」との矛盾をどんな説明によって消化切捨するのか(されているのかを説明するのか)だ。学術的にも、性的魅力を自身が帯びることの良さは易々と参証できるだろうが、性的魅力に思われを帯びること(\自体)の悪さは、そもそも最初から自然にみちびかれ在ったものでもない筈で。たとえば「セクハラ」という言葉もなぜか古代のものではない。800歳(或いは1800歳)の人生の後半で「実はこういう悩みを打ち明けられないままずっと来たんだよ………」という事でもなかろう。最初からドーナツ状の(=空虚な)社会思党があらわれてしまって、本能的にそれに従ってしまうから、空虚な自覚もなく幻想としてのだから霊なる共感と実感をそのセクハラという対象と共に我らは抱いてきているのではないだろうか。
 
 なぜに〈裸系完全性形〉へ近づくごとに工口スが増大するようなモデルが絶対的な工口スとして君臨しているのだろう。いや、そのモデルを外れたものも現代では昔よりより一般的知識となれたのに、それでも〈非露出肌裸・服装完備系完全性形〉へ近づくごとに工口スが増大するモデルを「工口スとしてもつ」性格の人にとってのセクハラを社会は構造的に増幅させざるを得ない、その性格の人にとってのセクハラのし易さを、この社会は構造的増進させざるを得ない。服を着せて欲しい少数者の前に服を着せ着せ着せていき、服を外してほしい大多数派の前から服を被せ蕪せ乗せ込んでゆく。これでは社会の中でこの世論風潮自体にストレス性の嫌気が立ち篭めるのほど当然のことも、ない、のに。
 
 しっかしそもそもなぜ、世界は党派的な悪をもたざるを得ないのだろう。なぜ、世界は大多数派の好みにカブさるのだろう。それこそ、生命歴史学的にも学術的にも、羅点ラテンがいかなくはないかね?
 
 だって、別に少数派のままに進む「可能」世界(「後述」的表現、「後講義」用の鈎括弧。)の中も、我々のプラグマティズム的実存に則した身なりですっかり全て(粒子とも世好とも)あれる筈さ。眼を斜め遠くに投げやってやい思考するんだ、随分と悪にはガテンがいかない、それでもそれは悪であれる筈だ。それを示すのは此方こがたの世界で、憲法学のひとは奇妙に本場の哲学者じみた厳格さと、明晰さのホバリングへの努力の継続を兼ね備えている。裏をかえせば、わけもわからぬままに憲法を根拠としたモラル・アタックメント一本の武器を悪用する殆民のそこからの楽園(地獄、か笑)が、現世こちらの界である。一体に浸されたオレンジのプールの色素は、謎であってもよいのである。
 
 世の意味では、工口いものを撮らずして性的盗撮に形式的に見合った事に成る行為をすることはできない(そのことに不服があるけども。)が、「悪い事」をせずして盗撮を行うことは、これはまた違った普遍的厳格さで、こちらだってできない。それは、「盗む、ってな行為は悪いって属性でしょう」というただの語彙論理ゲームで済ませてよいこと(実感を扱う実例議戯なく!!)なのだろうか。いやしかしでは、盗まざる悪とはなにか。いやそうとも言えたが、悪なき盗みとは。所詮は、人間の所有権を否定し自然の領主観を強調することで盗むことから悪性を取り除く、その悪性を無駄なこと・無碍にする方法が次いで口に出よう。だがそこで「悪」の語意を使ってしまうのは悪手なのだ。ここではまさに、悪の本体の蠢きそのものが追跡されているのだから。そうなると、悪を追求しすぎることは悪い、などと言うのもここでナンセンスの花と成りるね。
 
 悪をpathする為に人は至れり尽くすが、だから本能の装備なのかと見やんか?   だがそれではただの個人のすききらいの話に落ちてしまって、悪の本質としての他者同士間警戒の最重要質の解決には至らせん事言こんごんよねえ。そもそも、セッ⭕️スほど人生の本質はない。という世間(それでも私は世間と呼ぶよ。)の常識があるなら、身体を触られることの不愉快の根拠こそよく分られてもいない筈。逆も言えるか?んでそもそも、心理学が早々に手をつけていた領域か?
 
 社会性を一旦すべて外してみる。悪をやってはならないという本質のつがいということから離昏させる。だから、これは善/良なんだこれはAcwallなんだという区別は依然と可能な世界で、人々はその区別を一切社会での人文交際的な振る舞いや、コミュニケーションへの直接活用に使おうともしない普性であることになる。そうなってもきっと、人文交際的な振る舞いやコミュニケーション(という人生や人間や生活の存命の大事な本質。)がある時点で、そんな世界の儘では、その社会/対人的振る舞いの為の選別意識のシンプルな唯一の中核(主体の本能=必然的に扱う考慮材料としての。)として「悪」は君臨しあるだろう。逆にじゃあその中核を、ただの言葉遊びとしてでなく厳格語義審査をパスした思考で「悪以外の言葉(だから、その言葉に/とは内容詰め込まれ。)」で表現することは可能なのだろうか。いや、「分が悪い」に収まる他も無かろうよ。すると実体の想われと同様如何なる可能世界においても非成の許されないものであるらしいね悪。その上で、なればそうである意味理由=源泉---根源には、う~ん、まず、しかし、そこに必ず「党派」という言葉概念も当てはまりはしなさそうだ。そうなんだ、としても、本能が生存を目指し、性悪の殺意が万人に予めさとって分かられ、クールに決めても数的無力の原理が目立つ以上、そして人間の居る場それが社会的でないことのできない(これはウィトゲンシュタイン源流的観念でもあり得る。)以上、には、選別に数の勝相からの逃亡の意がDNA的に組み込まれていることはもはや隠しようもなく、悪の根底にある党派性のせりあいも、又防ぎっ子無い。
 
 世間は取り敢えず、少数派の主張する真逆のセクハラを、「馬鹿にする」ことだけは、してはならない。はて、ならないらしい、善だけが。