『時計と都合の良さ   また神は殺されるのか』生々講義・読書会の参加者の重大な一人、はじめちぁ、さんからの嬉しすコメント


< @Milusom Doopha = エムエルンド >

昨日(今日だね)はおつかれさまでした。

初「講義」でしたが、受けてみて感想を。

・テキスト(「時計と都合の良さ また神は殺されるのか」)について、論理的なポイントだけ言うなら、もっと短く書けるのだろうと思う。

・もちろん論旨が何かは問題だけど。
 具体的な時計をいくら正しくしようとしても、背後にある絶対的な時間の正しさには追いつけない。絶対的に正しい時間を無視していわば括弧付きの「正しさ」で妥協するのはわれわれの「都合の良さ」だ。絶対的に正しい時間はある意味〈神〉と同じだけど、思考が絶対的な正しさを求めることにおいて、いわば思考は「神」をも殺す。(三文目はやや推測交じりです。)
 というようなことが言われている?

・ミクシング(一見して論旨とは関係ない様々な要素をも文章中に組み込むこと)はM.Lの文章の大きな特徴だけど、自明かもしれないことだけど言っておくならやはり、ミクシングは入れれば入れるだけ文章は理解しにくくなる。読者には、最初に、どれが論旨に必須の文言で、どれが論旨には必ずしも必要ないミクシングによるものなのか、区別がつかないから。
 こういうミクシングのような要素を入れることは、物を書く人はやらないこともないと思うけど、M.Lのそれは度外れに多い。体感比率で言えば、1対10万みたいな。
 論理的に文章を書く人は、ミクシング要素をゼロにすべく書いてるとも思う。
 文章は自由に書くものという原則(言うなれば「自殺権」と同等くらいの侵すべからざる大原則)からすれば、どうすべきというのはないけど、ただM.Lが、今言ったような認識(通常ミクシングはやればやるほど理解しにくくさせるよ)を持ちながら書いてるのかどうかということは訊いてみたい。

・やる場所に関して、今回聴講を指名してくれたので聴きに行ったというところもありますが、基本私は魔神界は、魔神さんち、他人の家という認識なので、まえばサーバーでやってくれる方がサポートはしやすいかも。まえばサーバーは、チャンネル「エムエラーンサーンバーンド」をサーバーの一つの重要な財産と考えているので。サーンバーンドオーサー(author)の活動の一環として、サーバー内活動に対してはサポートしやすぜ、という立ち位置。までも、これは、言うまでもなく、ご自由に。

・時計で時間を知るのにはもう飽きた、黒板に今の時間を書いちゃえ、いやしかしこれだと何時間経っても元の時間のままだ! という話は、なんか味わいがあるね。非常な馬鹿げ具合に、ここには哲学があるかもな、という気がする。(人称の問題に適用してみるなら、自分の胸に「わたし」と書いておく、みたいな?)

・M.Lの文章が、全体として、何を目指したものなのか、哲学なのかどうなのか、わからない。少なくとも、私には、少なくとも、今は。しかし何らかの〈モノ〉に動かされてはいるんだろうなと思う。そこにやむなき何かがあれば、そこに哲学が宿る可能性は残り続けるようにも思う。もちろん、文章の〈価値〉は、哲学以外にもいろいろあるし、あり続けるだろうと思います。健闘を。お互いに。

とりあえずこんなとこかな。葉子🍃さんのお店が開けるように祈りましょう。では!

 
 

 

エムエルンド   昨日はありがとうございました!とてつもなく、こんな感想・呈文をありがとうございます。これは一語も読み飛ばせないぞ、と思い、いま全て念入りに読み、終わりました。ちぁさんがお尋ねしてくれていたこともあるので、回答してゆきます。もしかしたらこれも、まえばサーバーに書いても良いかもですがね。

・「論理的なポイントだけ言うなら、もっと短く纏められるろう。」⇨これには、僕がなぜミクシングばかりの文章になるのか、という問いにも同時に答えるようなことが言えます。皆さんもお気付きの通り、これは何も「誤診」ではありませんが、私には、いわゆる、〈万人が読んで悪文と言えない美整文〉を書くという、実はこの世の8割以上の人口が常にキープしている能力が、人生の鼻から欠陥しているという事情があり、それは未だに不変的です。それには、二つのポイント(理由)があるのです。誤診ではありません。一つは、端的にそういうセンス≠能力が僕には無い。もう一つは、変な文を勢いで(かと言って僕は根底から有意味主義者であってこれに嘘はなく、勢いで無意味なことをするのは僕のアレルギーなので、ある意味で全て慎重に書かれてはいる。だが実際、衝動的に、神からお告げを貰わないけど、もらう風に閃いて、バッと何文か浮かんだのをそのまま著作に書いたりするから、書いている順序が読者には作者が混乱したように煩雑になってしまう。)書いてしまって、それを論理的な(=読みやすい=万人が読んで悪文と言えない美整なる)文章へと僕が書籍発表前に訂正する能力・気付き・余地は実はめっちゃ有るが、それでも考慮した上、いや実は殆ど考慮せず、僕の近年自身を貫く「有ることの意味」という趣味を以ってすべての変(だが言い得てはいる!!)な表現を却下せず寧ろ他に浮かんだわかりやすい表現こそ却下して通す、という僕のいつもの事です。
 適切な文章を書くと言うのは「センスだ」とは、適切な文を書けない人間だからこそ、僕は永らく痛感してきたことです。たとえばここで適切な二字熟語が、殆どの傑れた物書きには浮かぶところ、俺には当時全く浮かばない。僕は読むのは昔から超の超得意で、どんな文でも正直言って読み下せる。だって論理的にもそうではないか?どんな文だってちぁさんのいう論理的でわかりやすいように読意工夫して適切な単語が適切な接続詞と文法で紡がれていれば、語彙力の問題なくして、それを読めないということの方が、意味がわからない。谷口哲学者はかつてTwitterで「私はどんなにお粗末な文でも、それが何かを伝えようとしている文章である場合隈なく読み切れる」の旨と能力を開示しておられましたが、僕にも読むことに関しては同じことが言える。ですが、僕は一つのことを書いている時にもいろいろな(その著作へのミクシングを助けるような)雑念が僕に生まれ、その雑念こそ自分の価値と見ている所が、ある。ですがちぁさん、書いてきたように、↓

「ただエムエルが、今言った認識を持ちながら書いているのかは気になる」⇨に応えるなら、これはまさにYes、読むのはウルトラ得意なので自分が書いている時にも常にそれを正しい理解で読んでいて、なんなら書く前にすべての正しさを吟味した上で書き切っている(というとちょっと誇張ですかねぇ)。つまり、その認識も、持ちながら、僕はこんなものを出しておもしろがられるだろうなあ、困惑されるだろうなあ、とは殆どすべて思いつく読者の読む生々のときの感覚を察しながら、ちょっと今書いた文を読み返して、ミクシングはいつもながら多いな、あ、今回は少ないぞ、とか思いながら(ほんとに思ってるのかな?まー思ってると思う。)、変でも却下しないわけですよ、ようは。欲望として「オリジナリティのあるものをお出ししたい」と「有意味でないことや奇を衒ったことは書きたくないし書かないぞ」の二つが僕の根底から不変的に続いているのがあるわけです。なのでちぁさんがミクシングに関してここで言ってくれていることは、全て勿論自明ではあります。ですが他者から特に万人が読んで悪文と言えない美整文でこれを説明される機会が希少というのは嘘でない。1対10万をはじめ、この文を読んでいて数回爆笑しました、マジで。

「まえばサーバーで講義やってくれたらいいかも、あくまでも任意」⇨そうですね。なんというか、魔神界でやったのには強い欲志が関わってはいましたが、注意なるは、別にまえばサーバーでの講義が気に食わなかったわけは過去に誓って一切なかったってこと、まえばサーバで講義するってこと自体実は頭に浮かびませんでした。講義を実際に立てた時なんかにもね。僕のことをアウサーとして認めてくれてありがとう。これは当然ながら・とか勿論・とか付け加えることでないだろう、僕は、ちぁさんは嘘を書かない人だという信頼が強く染み付いた人間であり、かつ僕にはアウサーとして認められる(万人が読んで悪文と言えない美整文の著者として認められる)ことが一つの目標・価値でもありました。ただし僕は考える天才ですよ。ちぁさんはここで、僕が特殊なアウサーだと、これまた芸術家として僕が嬉しめることを書いている。つまり僕もちぁさんも、まだ(?)、僕が万人が読んで悪文と言えない美整文の名手へ至っただなんて表現したことがない。

「人称の問題に適応してみるなら、自分の胸に「わたし」と書いておく、みたいな?」⇨こんなユニークな(=僕の到底思い付かない連想的な)ことを言ってくれるのもちぁさんぐらい。そうなのかな、まだわかりきりません。兎角この段落でちぁさんが纏めてくれた僕の作った時計と黒板の物語ですが、このちぁさんの説明文、反射的に複数繰り返し読んで、風景を想って大爆笑致しました。いやあ、まさに言い得て妙というより綺麗に纏めてくださっててかつ面白い部分を取り残さず書いてくれてくれて、あざっすよ。

「具体的な時計をいくら正しくしようとしても、背後にある絶対的な〜〜妥協するのは我々の〈都合の良さ〉だ。」まではまさに御意ですが、直後の「絶対的に〜〜〈神〉をも殺す」、これはちょっと僕自身まだ、問うてくれていますが、回答に相応しいものが練り切れなく、考えたいな、と。いやいや、すみません、勘違いしてた、別に区分ける必要なく、この括弧もちぁさん、まさに御意です。ここ段落のほんまに最後の文は「神殺しの風車」にもある(エムエルンド哲学=)続象概念の話に核心的に繋がりますね。まさに言い得られていますよ。直お手前の「絶対的に正しい時間はある意味〈神〉と同じ」、そうですね、殺される神の素性が言われている、御意。

大方、回答は成ったと思います。ここでは最後にあとちょっと。

ちぁさんは、僕が全体として何を目指した文を書いているのかを、尋ねてくれました。その回答は、やはりこれも、僕の趣味に沿った理想の実現を目指しているだけです。具体的にその理想はどんなのが「多い」のかと言うと、やはり哲学の義務ではなく僕の遊び(強迫?)心の趣味として、僕は自分の書くものがあらゆる観点において最高度の高得点を叩き出すのが好みです。つまり、(わかりやすさにおいてもわかりやすく、は、ほぼ無理だけど、)官能が関係ないように思えて官能を読み取ろうとすれば官能が誰の書いたものよりも読み取れ、エムエルの書物を読むことによって文自体や著者のことが好きになろうとすればもうエムエルンド以外無理なぐらい好きになり、かっこよさで言っても天下一品、独創性、哲学性、すべて満点………そういう万能感こそ僕の快楽で、なんというか哲学の義務かもしれないかもだけど、昨日ちぁさんとも話した、カントの「書き表されるのに、不備があってはならない、必要な一切がかけてはならない」こそに僕は烈しく共鳴する他はないわけです。
 あとね、僕は、日本語可能意、つまり、日本語において可能だが誰もやってきたことがないような文を思いつくことが多いと自負している。自然に真剣に論理的な文章を書いていったことは山ほどありますが必ずと言ってよいほど途中でその「可能(だが変)文(奇文ではない、変化しただけさ!!)」を思いついて書いたら、それをやはりこれは読めないと却下するより、もはや読めなくても自分の芸術作品として(哲学というよりね!!)出そう、とレァさんばりばり(知らんけど。)になるわけですね。変なんだけど有意味主義!!言い得て妙だ、が一番好きなのは僕の人格そのもので、芸人として保育園の時から手腕を振るってきましたが、僕の芸風も一度もそっから揺るいだことはない、「変(たけど、)」ってのも最重要ではあるわけです(だって「新しさ(-古さ)」と一緒で差別化がないもんね。俺も褒められて嬉しいようには褒められてぇもん)。