見出し画像

エムエルンドの 世界 一理解的論理学像

 風呂に入る前、私はこう考えられた。痰を絡みす際には、最小の痰から最大の痰のレベルまで(大きさの話ではなく掃き出しづらさの位のこと也。)、意識的であれ無意識であろうが3層くらいの力み段階をうまく調整して用いられる。層というがここでは年輪型=バームクーヘン状に円が小さくなるほど内に入り込まり、大きければ大きいほど外に入り込まるイメージ。又単なる力みの度合いは指されず、三層のうち一番の外=大層(それは三層目。)に位置できる力能を保有しているときの者は、下=内二層にいつでも力加減や捉え範囲意識を繰下げることが可能であり、一層にしか留まれない瞬の者は最も危うい、つまり痰と最低限の話で苦戦するに値する者となる(仮に常に三層に居続けられる強者も、場今の性格によっておのずの真の力に関わらぬ痰との戦闘には易々と突入し得る)。
 
 よっては、

                      力とは層の外延である。

 
  
 力=得方幸方。層とはスぺグラ〔スペクトラム&グラデーション.〕、外延は伝統的哲学用語の意にひとっきりも介せず〈力を増していく=マトリョーシカを内側から次々に証明していく。〉と成りる。      

 
 風呂に入ってこれらのことも考えられていると、或るに本論の本題が思い付かれた。力は層の外延である。それは一つの世界で思い付かれたことだ。仮に複数の世界で同じことが浮照はっけんされたとて、一人の人間が複数の世界に同時の足で立っていることも無理なら、二つ以上の己ず目線も無理。はして、一つの世界の「一つ」をどう取る。この皆の住む現実世界をそう取ってもよいし、私は1人しか居ないに取ってもよかろう。んでね、この一つの世界とは関係のない、世界でつまり別世界で、一人の屈強のボクサーがね、トレーナーなんかと話す「強さ」や〈力〉には、話の中にも、なんら「外延」や「層」の言葉概念、抽象・感覚は無いさ。違うと思ったんなら、君が、別人なんだと思えばいい。そもそも君のことを想定する前に書いちまったからこの例人は別人だしね、君とは。
 
 さて、ではでは、このボクサーの基へ越境して私が来ては其殴役に、「力とは層を外延さすこと也ね」の事を説明する次第。すると其殴役は、何らか納得するだろう。だからこそ、私の上の大大黒字の新(?)真定義は正しかったよのう。其殴役は何らにも納得できなかった。だから私の力とはの定義は的を外しているのかもしれんね。そうであるべきではないのか。
 
 
 ここでわたしゅう分り易い例を出そうと事前に風呂で大方練っていた。
 
 或る28XX念(年は念ということにも成た)、其のA世界では、又或る無人島の処に一人の〈主人公〉が行き着いた。おや、無人かと思ったが原始的日本人言う生残り?つうのが数名居って、救ってくれた。ぬるまぬ水をじゅぐんと飲み干して〈わたし〉ゃあオムライスという話をそこの民族の隙穴に聴いた。どうやら、私にも教えてくれたことで、オムライスっていう料理は、黄色の楕円をフリースタイルで茶汁に任せた太さらしひ。ほう、それがオムライス。
 
 こちら或る1875年B世界、オスムカント(又一国。)にぶらり降迷おち天踊てんよう(こちら又一村。オスムカントは世界の極北だが直ぐ下。)のⅠ児いちごに、オスムカントの漁猟民たちは親しくオムライスの智を分けた。のちのⅠ児いわく、オムライスったら三角▢丸の図式しかない世界にて丸の一存を奪う唯一の茶色。削ると黄金に光る柔らかさとも毎日書くらしい。カントのオムライス信仰ね。
 
 
 さて、例霊終り。
 
 A世界とB世界は実はまったく同じ一つのC世界であって、Aイコール前期Bイコール後期C世界ってなだけなんじゃという解釈もありえ、いやいやそういう意味で同じ世界ではないのだよという諦釈もありえるが、どっちにしろ、今からの議論は可能だ。A世界とB世界は見るところ一切接触不可能っぽいが、そうなんだとしよう。そうなって、A世界の〈主人公〉とB世界のⅠ児が2094年のある場に転送され、二人きり机に腕を置く。オムライスについて意見を主催者にきかれ、まず互い口をきかずに白板に無言で描いてゆく。
 
 主人公は「オムライスとは、黄色の楕円です。それにお好みの形、量で茶色のソースがかけられもします。ぺらっぺらでなく太いです」  Ⅰ児は「オムライスは丸。茶色。で、内部は、黄金で、柔らかい」
 
2人の出した情報のどちらが正しいオムライスなのかについて、二位の情報をそれぞれ戦わすことはできる。楕円きっちりなのか、まんまる満月なのか。まあ何れにせよ、丸くはあろう。いずれにせよ、黄色と茶色だろうよ。あつみが本当にあるのか(まあ厚みの厳格一切無いものも無いだろうが。)、本当に硬くないのかは、わからない。堅い他に条件を満たしているオムライスを、オムライスに仲間入りさせられるかはまだ判断を下し切れない。うすっぺらいオムライスをオムライスとよべるかもわからん。でも、二人が指差し合って「同じオムライスを想っている!」と言えるシーンは多かった。戦況終。
 
 
 
 さてパシッ。この世界に戻ってきた。この一つの………と言うなど、もはや野暮だ。さて、ボクサーの言う「力」と私の風呂らへん思った「力」は、同じものが指されているだろうか。仮になんの繋がりもない場所でお互いに別々の見方で別々の定義を発見したとて、指されているものが同じ言葉なのであれば、それは同じ見た目、形式、様相をしているはずさ。ある意味、そうでなければならない、とは、言えるやもしれないな。