見出し画像

なぜ演技力がある意味高い者はスペグラ力も高いと言えるのか。


 演技とは何だろうか。その本質として、人を騙すことではある、と言えるろう。騙すということは、確実に騙されたこととついになって初めて、確実に正立しており、し続けられる概念であると言われるべきであろう。
 
 私は、1週間に何回くらいなのだろうか、もう6,7年?或いは4,5年は、確実に、筋トレを毎日続けているのだが、筋トレの最中に哲学やその他創作的記述の必然性に襲われて、書き出したら、もう1時間半でもそれに没頭してしまう(それに気づかないのではなく、病的だとは思いながらもその選択をある意味自己投資的な感じで取らざるを得ないのである)。音楽もそうで、音楽の場合録音に至らない場合が殆どであるが、筋トレのパンイチの格好のまま、締め切った窓のふたつのみを開けた内壁か外壁かに囲まれがら、うろうろと、バタバタと、しながら即興音楽が、半ば自動的に、頭と身体に流れ続け、もはやそれを中断させてはならぬと、この心が要求するのか、それに身を任せて次の筋トレメニューへ移行することができない。それを、1時間半ぐらい続けて、ようやく再開し進み始めると、もう止まらなくなってその流れをやまして、だが実は残ったまま風呂へ色々と昇華しに行くような感じでいつもある。私は幼始ようし(最原古来)より、散歩中にも、何か義務的な作業中にも、家でも外でも何をしていても(それこそ風呂に入っていても。まあ、飯を食っている時は他の時に比べないやもしれぬのだが。)、哲学=氣刄思索や、音楽が、半ば自動的に無限にパイオニア質をもって大量で高速に流動する。だから、筋トレ中にも常に微弱に起こっている。だが、筋トレをはじめたのはたかが5,6何前なので、筋トレをはじめる前では筋トレを除くが、筋トレと風呂中での哲学活性化というのはなかなかなものである。私が筋トレを毎日級にやり始められたのは高校1年から3年前期の間のいつかであって、中学1年からチャレンジはやってはいたがていで続かなかったものであった。高校に入るにつれ徐々に激しいスポーツの季風が遠のき、認めたくなくとも(実際にそれ自体への否認欲は無かったが。)、私にとっての運動は筋トレへと絞られていった。それはいわば、週4の激快(輪仲のそれも含めて)から毎日の孤独な程良さへの程良い転換であった。メタ認知されると哀しかったり脱力感のあることも、実際にそれを論理学的秤計に掛けるとろくでもないとの見方がある方面ろくでもないように思えもできると気付いてくる。そもそも私が思考やアイデアを紙に書き留める選択に大転換的にきりかわったのは、それもはじめは中学の間頃なのだと定まっても、本格的な面持ちとなったのは、高校2年くらいの時だと言えると思う。本格的に取稿に至る直前までは、これまた事実的にも体感時経的にも、ゆるやかに続く楕円をささえるような長さで、「あぁ、これが、さねば抜けていく」などと考えていた、例えば、高1年の終りに始めた合気道の、始めて暫くたった行くときにか帰るときにか(まぁ、そんなことは想定的現世界が主軸にある本事を思えば関係ない柄なのやもしれぬが。)、暗闇の涼しいなか自転車にのって考えている。その頃には既に電子的なメモを取っていたか。あぁ、そう、肝心なことを書き忘れている。非常に強覚きょうかくしたくないことではあるが、何よりも気持ちの字化とその練習を手助けしたのは、Twitterと、エムキャッチーというそこでのアカウントのフォーミーであった。そこで私は徐々に、そこで、始めて、「論者」的言い方姿勢をこれまた(わたしにとっちゃ当然に)独自完徹に、着ていった。だが私の記憶では、そのTwitterで裏垢を創設する前から、紙にある人物への積念を「とうとう」文章にしたったという決定的第一回的瞬間が始点とし存在していたと思う。合気道に行く途中か帰る途中でに思ったのは多分高2の初期くらいであろう。そして合気道を始める、要因となるある出来事の遥か二年前から筋トレを毎日続けれていた気もするが、あくまで私の体感はさき主題的に述べて来たような激流性によって実情との乖離を余儀なくされているので、まぁ、もしかするとつまり、二か月前くらいか、だとして、高1のはじめくらいには決心と実行のともに筋トレを毎日続ける生活こその始点があったのやもしれない。話がやけに脱線したようになってしまったではないか。言いたいことは、大きな生活様式や運動様式が変わるなかで対想たいそう的な事象のトレンドは変化しつつも、激しい或いは流動的な(単なる沈黙や、はたまた電話の、そしては歌唱な歩行も含め)運動の中で激流の本領が良く出た(故に、すべてを遺したいという保存主義の野望がその際にはいつもチクチクとなった)、ということ。
         
 さて、その経験や今後というのも、私の人生中どの時点においても普遍的でありながら、そのせいをもって強覚される物成り。例えば、それはなぜか、他者はどうなのかについてその「確証性だけ」はすっ跳ばして、私に超大な自信を持たせる気塊状主体である。それは当然、幼始から量感も変わらぬ自信であって、毎日は必ずすくなくともよう訪れてはくれない故に完璧安心の逆豊なる苛泡けぼをこれ又幼始から変わらず日々に起こしてきた。その週何回かの現れようは、奇遇哉、期間的には、又其の「必ず起こる頻度」にフィットす重なる。
  
 私は普段自閉的に、その様に多量過ぎる多様な自信を自分に向けているのだが、演技における自信も当然ある。それは幼始から技術や感性を全く替えず(アイデアの質自体は毎度変わるのだが。)、ここまで来ている。奇妙哉、それは他者に演技だと前提的に分かられる所謂、舞台的な技芸としてではない。コミュニケーション的孤高ととってもらって結構である。それについても同じことが言えるが今は別の実例をここまで来て出したい。
 
 それは、ズバリ、私が、歌を舞台厳格的に(実に他者に何らか開かれた形で)歌う際に(それを快感的にコラージュ的想定する実情自閉時を当然に含めて。それは何故なら、舞台にあがっていないときに舞台について一切考えない俳優など想像して創造もできぬ程には稀だから。創造としての想像は説明可能なのでそういう書き方をしなくともよいのだが。世の中には、たとえ字数は比較的に長くとも、そこに時数をつかったほうが理解が圧倒的に易くなる複雑性に溢れているものだ。)、演技がうますぎる=過ぎるので、誰にもそれが演技なのだとは気づかれない、という処である。ま、あ、演技だとそれを指摘する際に倫理的なんかに必要な確証性だって、そもそも如何にも意図的に、与えることすら、不可能ではあるのだが。
 
 それは、どういうことなのか?演技が上手い歌とは?歌を上手くするためには自分の心を感情的に操ることがまあ必須となっていて、邪混気なく、自分の心を騙す、もとから離れた他をやはりその心限りで演じる事等になるのだろうが、今は歌の巧さについての議論を避けたい。悲しい表情で悲しい歌を歌うから演技を気付かれずらいものではあれど、そもそも「悲しさ」について他者と自己が共概捉雰感覚的に繋がっていなければ、そこに演技事実の滑り込む隙も無い。悲しい歌を楽しい気分なのに悲しい表情で歌えばそれは演技事実を今の文の読者に認識させる原理的仕組みは、我々を包んでいて、「悲しさ」は悲しい歌と悲しい表情を共通概念として理解させる唯一の鍵である。そのことは既に我々によって知られていることだろう。悲しくない歌を悲しい表情で歌うが実は歌い手の当現とうげん的内面に一切指されるべきような悲しさは無いとき、だがそれは演技であることになるのではない。演技というものは、未だ演技の何らかの実例について知らない(その実態が演技性であるとの正解に辿り着いていない)者にとって知識的内在化することが、少なくとも具体的には不可能である。今からCにこう演技をしてくるよ、と言ったAに対してその友人であるBなる今の主体が「分かったよ笑 隠れて見ててやるから」と共犯者的意識をかもそうが、実はその会話をCが知っていようが、そして今引かれて来た文の内容を丸ごと理解的に受け継いだAが今からしかし策略をまったく変えぬ演技をCにもっていこうが、AやBやCがまさしく同一性をもった演技を認識していようが、その演技が元の意味を失くしてしまうことはあり得ない。その個別の附属目的とは別に、演技の本質はいつでも「〇〇と認識するものを〇〇に敢えて見立てて出し、〇〇と認識するだろうと予め企んでいる。出す前にはその準備内容とは、🔵🔵という〇〇に似るか似ないか、取り敢えず〇〇ではないそれを〇〇の属す何らか本体的なものの皮の内側から〇〇という本性ではないという確証を、〇〇という本性を本体的なものの皮の内側から抜いて代えて入れておいて、その次に入れておく。」ことであるから、その条件を通過する「騙しの本質」なら全て演技の本性憑惣と同性なのである。
 
 つまり、私がこれほどまでにすさまじくあらゆる要請点におき完璧な歌をしているとはその姿も含めて出し方、即ちそこに何を選んだか、あるいは間違えたのかも加味するのである。だがその身なりの方には現に心良き演技ががっつり含まれていることが実に殆どであるし、滅多か殆どかに関わらずそうなのがあり得るのか、は(というのなれば)、あり得る。んで、それは我々がなんとなく知っていることなので、ただ、実は演技だったんですよ、と言われれば、そうだったんだね、あそこでああしていたのはあくまでもそうしたいという欲望が根底にあってのことだったんだね、気付かなかったよ、或いは確認ができてうれしいよ、などと我々は演者に拍手を送ったり、白けて腐したりできる。だが、その欲望をハナっから、今までも理解できていない者とは、演技であると真に言われることのできない者である。ヴェーゼ、といきなり言われて、それは私がいま作った「新色」なのだ、と言われても「答え合わせ」のし様にならないように。だがそれはあくまでも、そもそもそれは何色?と答えを投げ出して訊いたわけではなかったからそう言えるに過ぎない。そもそも何パンかどうかも心の底から訊いていなかったのに、ヤギソバパンであったと答えられて答え合わせにならない、と言っているに過ぎない。だが、ハナっから色の概念を知らない人など居ないから、演技だったんだ、或いは嘘をつかれていたんだ、と認識することが論理学脳にどれだけ苛まれても、言われたことを自分がわかっていなかったという意味での答え合わせには成功した例を出してしまったろう。これは悲しい歌です、と歌い出しの前に喋る歌い手に対して、聴後「いや、悲しくねーじゃねーかよ、嘘つくなよ!」とブーイングを飛ばすことは宜しくないとされるだろう。それは、その歌い手とブーインガーの感性の違和は少なくとも根源からあるに決まっとろうという世論調である。だけれども、ここに対して差し挟める解釈的考察の山は雑い。その歌い手が、ブーインガーに比して感情の起伏や世界の残酷さを知っている度合いが弱すぎるのだ、というブーインガー側主張に議論の舵を切るなら、だが歌い手がブーインガーを含めた客層を舐めたことに対してそれを知覚してブーインガーは怒ったのやもしれぬし、歌い手からすればブーインガーの鋭さは前代未聞レベルで、今まで世に売れる歌を自分の繊細な高い本心の直行を妥協して作りまくっていて、そのことを今に見抜かれるまでずっと麻痺していたのかも、それこそ見込んでブーインガーは怒ったのやもしれぬし、ブーインガーのようなまた浅はかで人生の回りの足りないことに歌い手は心底呆れ、ていること自体を読み取ってブーインガーは震えたのやもしれぬし、また両者いずれか何らかの部分に自信をもてていないのやもしれぬ。またまた、脱線したようになってしまったようだ。
     
 とにかく、客体的でなく、主観としても、歌という人生の生きがいの途中に、秘密をつくるのでなし寧ろ野望達成に貪欲に演技することにおいて、何か演技する目的でなくて、演技自体の対象は、無碍にされた余計な真実性にある。コウモリに完璧に擬態したいという欲とその実現一本への欲を持つ者は、コウモリに擬態する際、コウモリを知り尽くしていなければならないのかもしれないが、それはあくまで技巧実践的な成り行き學であって、コウモリと思われる細微に気を配って舞台的にならねば、準備と実践中の進歩はないのだ。演技は、自閉性であることが、少なくともそのままでは、けっして、居られない。現に私も、「ああ、これは演技だったな」と自分を振り返ったり、実践しながら知覚する際には、他者の存在自体についての連想が飛ばざるを得ない。他者としての主観にたつのではなく、主体として舞台の上で如何に客にどう振り撒くかの考えと、なる。結局、コウモリについて専門知識を2割知っている一般人が、8割のそんな知識を習得している学生に、コウモリの演技対決で勝てるわけがない、わけもない故に、そういうことが言いたいのではない。十分、演出者としてある現の者は、前提知識の有無量にかかわらず、実力だけで高度演技を遂行すことが可能だ。現に対座相手は演技がうまいと認識している側も、その演技が技巧的に不可能であろうが可解であるのでなければ何も無いわけ〔そういう世界がこんだから〕。
 
 私はスクワットにタクトを振ることになる。その振りは、音楽の降りと共に在続けるのだけども、それがどれだけ演技の上手いモノであるかは、何に言わせられるう。そこに音楽をどれだけ見た者が、ただ主体として言えるのか。偶然にしては緻密すぎる実際の舞台は、必然の整頓を眼に宿らせ、轟轟と炎打つが捉えきれない機能的不幸が、あぁ遊びでなく誇示としてあるその演力ねば粘羽
 
    
 スペグラの問題… たとえば、俺はまじで皆のやるよな努力をサボってる。でも、才高ゆえ結果は即興で(手加減なんかしちゃいながら)チャチャっとやっちゃうから、ソムノローコ社長は「何やねん、練習しとるんかい、、、マジメでしょーもないなぁ,、、」
      
 そう   ☝️!  ルサンチマンはスペグラマターと深く関わる!    社長の中には 「努力したからできる」「できてないならサボってたんだ」の二択の乏しさしかないが、この世はもっと複雑 ➖ 多様さ。「努力がかなわなかった…」「努力せんくてもやれちゃう天才なんだ…」ってのは、あらかじめ身体が知ってたり、身にしみた経験をした者ならスペグラ力があってより深広ふかびろなスペグラを知っている。
  「新知しんちごと」にスペグラ力は高まる。
    自分の引き出しの場所すら忘れてしまう?そもそも引き出しを知ったことがあるから思い出し得るのはどっちだ?
また、社長がうしろめたさからある種ウソブき続けていたというのを知ってるかどうかも、真見の経験差、人間=スペグラ力、演力の差だ。
 
 
 
   スペグラ力ある方が多彩な演技ができるに決まっているのは、限・自閉秘境に限られしだ。ところで、スペースグラウンド?ちゃうちゃう。スペクトラム・グラデショやなかい。受け取る側の方がスペグラ力が低ければ、「これに騙されてしまう、即ちスペグラ敗けを露呈する人も居るんだろーな」
   という同スペグラ権言2Gonも「そこでは」言い得ない。