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なぜ「視覚」はメタ視覚の複数と違って特殊なのか。
単なる視覚と違い、カメラが収めたり鏡に反する視覚的象を「メタ視覚」と呼べよう。スクワットの指揮は、前提として必呈性と欲志がある上で、それを完璧に保存できない理由は、二重だ。
空想上の視覚の散じ方は何にも再現できない。そもそも「非再的現」は実視覚および遠見(=空想)/散覗しかでまず、現に見られているそれはあくまで(内身的構成員。主体事実自体じゃあり得ない。とりま、保存できなさを極めていく。網膜にカメラがはりついても、黒目に合わさっても、視覚 そのまま保録はできん。
「どこを見るか」はまさに「意識されている所」であって、たとえ黒目の焦点意外頑視できなようが、見ている事実なしに見ていることはできない。
カメラ等メタ視覚は二次的に「確認」されることでしか視覚範囲と成れないが、普視覚は何も確認しない現前をもてない。
目の前の有々からは逃れようがなく、本能の麻痺は必至である。こりゃ、無意識の起源(エネルギという機能。値事実。)かも。
・ それを除いて、主観以外、カメラ撮映や鏡の助けるメタ視覚が、なければ「ありえる(全ての)保存」は当然完決しない。いかに全角度から完璧にガワを保記完れても、内閉なるこの感想を当然「視覚的に」収えることは不可能ぬ。
では、両立なる妥協ない理想はどうする? 内閉の唯識者なる「私」はメタ視覚を借りりゃ
/\
可
、「完全に見た!」とか、「保れ(てい)る ! 」となるが、客観 ーー (通後的主観も。)保完がガチ不能。
私以外の人らが全てを客観的に保完してくれても、あと一つ、いや、おれの魂は俺自体どうにも確証を附属させて送付れない。
意識の動いて止まってある所以外に今的な実の風景、それも、想種により色彩が自在変傾されるそれを その幻質 を 主感の他で捉えることなどは、不可い。
思考を、撮る。感情とは何だろう。考える。考え続けても、答えは出ない。