ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック 27

2015年、GUIRO「ABBAU」

SAKEROCKがニュー・アルバムをレコーディングしていると角張くんに聴いたのは、2015年に入って、どれくらいしてからだったろう? 「ライヴ・イン・ ハワイアンズ 2015」(1月31日〜2月1日)は、もう終わってたっけ? レコード初心者向けの本で、ぼくがアドバイザーとしてかかわっていた本『はじめてのレコード』(新入学に合わせた時期に発売と決まっていた)はもう校了してたっけ? 5月に出るceroのニュー・アルバムのタイトルが『Obscure Ride』になるとすでに聞いてたっけ?

2015年のはじめは、とにかくいろんなことが重なっていて記憶がはっきりしない。角張くんと交わしたその会話も、時間や場所はよく思い出せない。だけど、話した内容はいまでも思い出せる。

2012年の編成だった3人+サポートでレコーディングしているのかと聞くと、答えは意外なものだった。「ベースは馨くんです。(野村)卓史くんも入ります」

やめた2人が復帰する。そして、その5人でやっているということはオリジナルのSAKEROCKだ。『ホニャララ』のときも5人いたけど、あのときは4人のSAKEROCKと野村くんが曲によってゲスト参加というかたち。いま録っている作品は、最初から5人であることを前提としているという。『慰安旅行』以前に存在した、つまり、ぼくが知り合う直前まであった最初のSAKEROCKのかたちともいえた。原点回帰か、さもなくば……。

「その5人であえて作ってるってことはさ」と口に出したぼくに向かって、角張くんは「そういうことっすね」と答えた。いま思い出しても、このやりとりってお互いに答えを言ってない。だけど、角張くんが言いたかったことはわかった。「6月2日に両国国技館でライヴをやります」とも教えてくれた。それも、どういうライヴかはお互いに言わなかった。

2月28日、ラスト・アルバム『SAYONARA』のリリースと、6月2日の東京・両国国技館でのラスト・ライヴ『LAST LIVE "ARIGATO!"』の開催が同時に発表された。

『SAYONARA』の1曲目は、ベスト盤『SAKEROCKの季節』にも新曲として収録されていた「Emerald Music」。『SAYONARA』のヴァージョンは、それを5人でもう一度録り直したものだった。一音目が鳴りだした瞬間にもういきなりまぎれもない彼らの音がして、胸がいっぱいになってしまった。

解散に向けて『TV Bros.』で特集が組まれ、そのなかでぼくも一文書かせてもらった。無職だったころライター募集に応募してあっさり門前払いをくらった『TV Bros.』に、ぼくがはじめて書いた原稿がこれになった。SAKEROCKの記事ですごくお世話になった『Quick Japan』でもなにかやりたいと思ったけど、結局、このころぼくがいちばんよく原稿を書いていた『CDジャーナル』で特集を組み、当時『Quick Japan 』編集長としてお世話になった森山裕之さんにお願いしてぼくと対談をしてもらった。ヴィジュアル・イメージとしてもなにか特別なものが欲しくて、『ホニャララ』のブックレットで漫画を描き下ろしていた小田扉さんに一枚絵の扉イラストをお願いした。5人のSAKEROCKを描いたそのイラストは、小田さんと編集部のご好意でファンとも共有できるようにツイッター上にデータとして貼られた(まだいまもネット上にあるので、「小田扉 SAKEROCK」で検索するといいです。すごくいいイラストです)。

国技館の中央を円形のステージとして使ったライヴの模様は生中継もされたし、のちにDVDとしても発売された。ぼくとツマに割り当てられたブロックは1階の奥で、スカート澤部くんたちと一緒だった。あの日、SAKEROCKとカクバリズムにかかわりのあるほとんどすべての人があの場に呼ばれていたと思う。長くレーベルをやってきた角張くんだけど、所属バンドの「解散」を体験するのははじめてだと言っていた。

解散ライヴとしては完璧なセットリストだったと思う。ヒストリーの大通りにも小さな路地にも目を配り、あとにも先にもこの日限りしか演奏されないラスト・アルバムの曲もきちんと供養して。だけど、こちとらそもそも解散してほしくないし、あまりにも完璧に締めくくられたんじゃこっちの感性が困るんだよ。と思っていたら、本編でやった「Emerald Music」でしくじりがあったので、アンコールでもう一度やり直すという。不意に空気がほころんだ場面を見て、ああやっぱりSAKEROCKだなと思った。

この日の打ち上げは夜を徹し、錦糸町駅近くの中華料理屋で明け方を迎えた。誰が切り出したんだったかな? こうすればもっとおもしろく演奏できるんじゃないかとか、もう解散する(解散した)バンドなのに、来週もライヴがあるような話がはじまったのには笑った(泣いた)。ハマケンはほとんど寝てたけど、それもまたひとつの景色としてアリだった。この明け方の時間がずっと続けばいいと思った。

彼らを愛したファンにしてみれば「解散は解散。いいもわるいもあるかい! さびしいわい!」っていうのが偽りのない本音だと思うけど、「いい解散」というかたちがこの世にあるのなら、あの時間がまさにそれを体現してたと思う。

6月のはじまりにSAKEROCKが解散し、6月の後半にはぼくは熊本にいた。ceroのサード・アルバム『Obscure Ride』ツアーの九州編で、ぼくの地元である熊本でもライヴをすると知り、帰省がてらの遠征を計画したのだ。しかも、このツアーは日程がうまい具合に隣接していて、熊本からの1週間強で、最高にうまくいけば岡山まで帯同できそうだった。運よくメンバー車に空きが一席あるということで、移動のメドもついた。「一緒にいて、なにか(記事を)書くんですか?」とだれかに聞かれた。特になにかを書くぞみたいなことは強くは意識してなかったけど、いまのceroを見ておきたいという気持ちがわりと強くあった。それは『Quick Japan』のcero特集で関係者にいろいろ話を聞いていくうちに、初代ドラマーの柳くんが言った「いまのceroはいましか見れない」という言葉にインスパイアされた行動でもあった。

はじめて見たとき(2010年)の、やりたいことにいろいろ追いついていない演奏を思い出せば、いまの7人編成でのライヴには隔世の感があったし、タイトな日程でツアーをすることで生まれる強さや変化もきっとあるはず。それを確信していたわけじゃないけれど、とにかく見ておかないと後悔する気がして、物好きな同行者として旅の後半に乗り込むことを決めたのだった。

のちに、このツアーのファイナル(ZEPP TOKYO)とツアー・ドキュメンタリーを収めたDVD『Obscures』のライナーにも書いたけど、このツアーのライヴ以外でのハイライト(すくなくともぼくがど同行した範囲では)は、光永くんの実家のある長崎市で、オフの日の夜にみんなで行った稲佐山展望台でのシーン。そのときの強い印象と、14年の暮れに亡くなった髙城くんの母ルミさんの思い出と、ちょうどこのころ高円寺のAmleteronで、池澤夏樹訳、つまり旧訳版のヴォネガット『母なる夜』をたまたま見つけて読んでいたことが重なって、あのライナーになっていた。

ライナーノーツといえば、この年の9月にリリースされたVIDEOTAPEMUSIC『世界各国の夜』に書いた文章も、いまでもとても気に入っている。VIDEOくんの音楽には、SAKEROCKの表現の根幹にもあった「生活のなかのエキゾ」という感覚を受け継ぎつつも、さらにそれを盛り場や街の文化や歴史ともオーバーラップさせる魅力があった。彼がやろうとしていること、実際になしとげていたことは、ぼくにとってもこの20数年の間に自分が聴いてきた音楽の筋道が間違いではなかったと感じさせてくれるものでもあった。

そして、2015年は、もう何年も活動の報せを聞くことのなかったバンドが、あくまで自分のペースではあったけど再びちゃんと音楽を鳴らし始めた年だった。

そのバンドは、GUIRO。

じつはこの数年のうちに、GUIROのリーダーというか、GUIROそのものである高倉一修さんからは、ごくまれに私信のようなものを受け取っていた。彼が文章を書いたフリーペーパーもあった(無記名だったけど、すぐに高倉さんだとわかるものだった)。

2014年の暮れに一度、GUIROと名乗らずにお試し的な再始動の演奏があったと聞いていた。年が明けて、名古屋の喫茶クロカワで行われたライヴでは、ようやくGUIROを名乗った。カタリカタリの2人や小鳥美術館の牧野容也くん、Ettの西本さゆりさんが助演したアコースティックな小編成で、東京から駆けつけた厚海義朗くんも「友情出演」的に2曲ほどベースを弾いただけだった。

それでも、数年ぶりにGUIROを見たという事実に、ぼくはすごく感極まってしまった。「この感動をだれかと話すことで減らしたくない」と思い込み、ロクにあいさつもしないで結構はなれたところまで歩いてクールダウンし、用もないのにファミレスに入り、お茶をした。その後、K・D・ハポンで行われていたホライズン山下宅配便のライヴに合流した。MCで高倉さんも言っていたが、かつてGUIROがいったん活動を休止する前の最後のライヴがホライズンとの対バンで、再始動の日にまたおなじ名古屋で両バンドがライヴしているというのだから、ぐうぜんはおもしろい。

その後、喫茶クロカワでの編成に加え、以前のメンバーだった厚海くん、松石ゲルさんも本格復帰することに。そして、年末に再度ライヴが行われることになった。一宮市にある尾西繊維協会ビルという昭和モダニズムな建物の3階にあるホール。ホールといっても、広めの教室のような感じだろうか。

開演前にあたりをうろついていたら、どこかで見覚えのあるような若者が遠くから歩いてきた。「まさか……?」と思ったら、ceroの橋本くんだった。彼もまた、かつてGUIROに衝撃を受けた者のひとりだったのだ。

この日のライヴで、新曲としてはじめて演奏された「ABBAU」(2ヴァージョンあった)には、思考がひび割れるほどのショックを受けた。高倉さん、休んでいるあいだにこんなすごい曲を書いていたのか。それとも「休んでいた」「音楽をやってなかった」とみなしていた、ぼくらの感覚がそもそも間違いだったのかもしれない。きっとあの7年は、このあたらしい恵みのために設けられた長い「休符」にすぎなかったといまでは思ってる。

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この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


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