ニュー・ブーツ・アンド・グラミーズ

「明日、グラミー賞に行くことになったんで、レコード・ショーに行けなくなったんだよ」

懇意にしていた中古レコード店の店主にそう告げたら、彼は「へえ、そりゃ大変だね」と気のない相槌を打ち、ニヤッと笑った。本気にしてない。なにか事情があって、ぼくらがうそをついていると思っているのだろう。「へえ、日本人も“アメリカン・ジョーク”言うんだ」くらいの。

だがそれは本当だった。細かい事情は省くが、知人から「もしかしたらグラミー賞のチケットが余るかもしれない。もしその時期にアメリカの近くにいるのなら、来てみないか?」と打診を受けたのは、その買付の旅の出発前。その日はオレゴン州で朝から中古レコードのショーに行くはずだったが、「グラミー賞の式典を見られるなんて一生に一度だ」という思いもあって、スケジュールを調整。レコード・ショーをパスして、一泊二日でLAに飛ぶ弾丸グラミー詣でを決め、ポートランド〜LA往復の航空券も予約したのだった。

セレモニーは全米にテレビ中継されるので、ドレスコードがあると知らされていた。一応、スーツの上下はトランクに入れてきたが、靴とタイ(“蝶ネクタイ”と明記されていた)はアメリカで買うことになった。靴は安売りスーパー、フレッド・メイヤーズで売っていた、偽革のやつ(30ドルくらい)にした。一回限りだし、これくらいなら履き捨てにしてもいいかもしれない。

そんなこんなで、どうにか準備完了。昨日まで床に置かれた安レコードを埃にまみれながら漁っていたのに、ドレスアップしてLAのステープルズ・センターまで出かけた。

早めに会場に着いてみてわかったのは、グラミー賞にはふたつの顔があるということ。午後5時(東海岸時間で午後8時)から全米に生中継されるショーアップされた式典が行われるのが、LAレイカーズの本拠地でもあるステープルズ・センター。この式典のチケットはレコード業界関係者を通じて販売され、一般の人は購入することはできない。しかも、アリーナ部分に座れるのは、基本的にノミネート関係者のみだ。

もうひとつのショーは、生中継が行われる前に、隣接したコンヴェンション・センターで行われる。じつは、そこで昼間から3時間ほどかけて多ジャンルにおよび、50部門前後もあるグラミー賞の大半の賞が発表される(テレビ中継では早足のテロップでどんどん紹介されるのみ)。とはいえ、その場にも簡単なステージがあり、小規模のステージ・バンドもいて、司会者もいて、セレモニーもある。生中継に出てパフォーマンスするような大スターは授与に現れることはあまりないが(その場合は壇上でさっさと代理授与が済まされる)、もちろんこの場での受賞を名誉と受け止めている業界人も多く、ときどき感動的な場面が訪れる。ぼくらのおなじ列に座っていたのがナンシー・ウィルソンで、しかも受賞して壇上に向かったのはびっくりした。

すごいと感じたのは「最優秀パッケージ・デザイン」「最優秀ボックス・セット」「最優秀ライナーノーツ」といった部門があること。ライノ・レコードが90年代にリリースしていた破天荒なCDボックス・セットの類も、この部門の常連だったという。音楽ライターをやっている身にとって、「最優秀ライナーノーツ」という言葉の響きにはやはり特別なものを感じた。それが救いとか名誉になるということより、「だれかが読んでくれている」という事実の究極の確認として、素直にいいことだなと思った。

それと、プレゼンターや受賞者が壇上からアナウンスされるときに、もし彼らに過去のグラミー履歴があれば必ず「ファイヴ・タイムズ・グラミー・ウィナー(過去に5回グラミーを獲った)」とか「スリー・タイムズ・グラミー・ノミニー(過去に3回ノミネートされた)」と紹介されていること。日本では「何部門でノミネートされ、何部門制覇するか?」ばかりが報道に乗るが、グラミーの現場ではそんなことはほとんど話題になってなくて、むしろ過去の履歴が尊重されていた。それも受賞だけでなく候補であっても、きちんと名誉としてカウントして。その年限りの横軸だけで見るのではなく、ちゃんと縦軸も見ているという事実に、文化の骨格の強さを感じた。

なぜか、グラミー賞出席はその年限りの椿事とならなかった。翌年には仕事していた雑誌から出席のオファーが舞い込んだりして、結局、ぼくは幸運にも数回式典に出ることができた。何度も見ていると、このアメリカ音楽界随一の祭典にもいろいろいいとこもそうでないとこも気苦労もあるんだなと感じる局面もある。ちなみに、今まで見たなかで一番サプライズだと感じた瞬間は、最優秀新人賞確実と言われていたジャスティン・ビーバーを負かして、エスペランサ・スポルディングが受賞した瞬間だった。ちなみに、この年は最優秀ライナーノーツ賞を、ビッグ・スターの編集盤『Keep an Eye on the Sky』で解説を書いたロバート・ゴードンが獲得している。それもアツい。

蝶ネクタイは、会場に着いたら普通にロングタイの人が多いと知って、3年目を最後にやめた。30ドルで買った靴は案外丈夫で履き心地もよく、その後もぼくはその靴でグラミー賞に出続けた。最近はグラミーに行くチャンスはなくなったけど、友人知人の結婚パーティーにはいまもその靴で出向いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?