ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック 22

2010年、シュガーベイブ、もしくは(((さらうんど)))の「DOWN TOWN」

ディスクユニオンから連絡があった。CDの再発で相談があるという。「なんのCD?」と聞いたら、「『ポパイ』のサントラ盤です。権利が取れたんです」という。「マジで?」

ロバート・アルトマンが監督し、ニルソンとヴァン・ダイク・パークスがサウンドトラックを担当した実写版『ポパイ』(1981年)のサントラ盤は、レーベル倒産による権利不明状態が続いていて、一度もCD化されたことがない作品だった。その管理者をどうやら突き止めたらしいのだ。

「ついては松永さんにライナーノーツをお願いしたく」と言われたが、率直に言ってあんまり気乗りがしなかった。『ポパイ』に対して気が向かないんじゃない。むしろその逆。この数年でいろんなCD復刻企画にかかわったり、ライナーノーツを書いたりしてきたけど、単に作品をCDサイズに落とし込んで、4000字程度の解説を添えるというルーティンに対して、不満を感じるようになっていたのだ。ましてや、『ポパイ』はアルトマン+ニルソン+ヴァン・ダイク・パークスという、黄金の大三角形みたいなプロジェクトなのだから、駆け足で概要だけ説明して終わるような仕事はしたくなかった。

「アルトマンとニルソンは死んじゃってるけど、ネット時代なんだからさー、ヴァン・ダイクにメール・インタビューくらいできるんじゃないのかな?」「はあ、そりゃまあ、やっていただけるのなら」「もし実現したら、最低でも16ページくらいのブックレットにしたいんだけど」「それも、やっていただけるのなら」

というわけで、たどり着けるのかわからないけどヴァン・ダイク・パークスへのアクセスを試みることになった。かつて『小野瀬雅生読本』で実相寺昭雄さんにたどり着いた体験がくすぐる、ちょっといたずら心もあるチャレンジでもあった。

そして、結果的にいうと、ヴァン・ダイク・パークスにたどり着けた。ぼくがLAにいる期間で、夜の予定が空いているわずかなチャンスに賭けた望みが叶ったのだった。事の詳細は省くが、ヴァン・ダイクからの返事はぼくが想像した以上に本気かつ情熱的なもので、「よくぞ『ポパイ』のことを見つけ出してくれた」というテンションだった。家に招かれ、2時間以上にわたってヴァン・ダイクは初対面のぼくにとうとうとことのあらましや、アルトマン、ニルソンの思い出を話してくれた。もうそれだけでブックレットは完成したも同然だった。

帰国後に編集に取り掛かり、無事『ポパイ』のサントラ盤は春にはリリースされた。すぐに再プレスがかかるほどの評判はうれしいものだったが、ヴァン・ダイクから「ニルソン本人が歌っているデモをリリースする気はないか?」とオファーされたのに実現しなかったり(その後に海外盤で出回った)、もう少しやれたかもと思うところも多かった。あのCD、ほどなく廃盤になり、残念ながらぼくの手元にはもう1枚も残ってない。だけど、LAを訪ねたときにヴァン・ダイクのもとを訪ねて、いろんな話を聞く貴重な機会はその後も何回か続いた。ちょうど彼が7インチ ・シングルの連作リリースを計画していた時期でもあって、すごく刺激的な時間だった。この年の秋、ライヴ・イベント「De La FANTASIA 2010」のために彼が来日した際には、細野さんとの対談の構成も担当させてもらった。

調子に乗っていたぼくは、その年の秋に別のレーベルから来た再発仕事でも、本人インタビューをやりたいと申し出た。そのアーティストは、フリー・デザイン。レーベルを通じてコンタクトしてもらったら、デドリック兄妹の末っ子であるエレン・デドリックから「もしニューヨークに来る機会があったら、取材に応じます」と返事があった。

その機会は、あった。毎年買付で出かけているニューヨークのレコード・ショー「WFMUレコード・フェア」が折しも10月末に開催されることになっていた。その前後なら時間がとれそう。その日程で打診してみたら、答えは「イエス」。というわけで、ワシントン・スクエア・パークの近くの喫茶店で、エレン・デドリックにインタビューをした。このときも3時間くらいだったかな。フリー・デザインの全アルバムについて話を聞いていった。CDが発売されたのは年が明けてからだったけど、ぼくの提案で、フリー・デザインのシングルをリリース順に収録した2枚組の『シングルス』も発売されることになった。

それから、この年は星野くんのソロ・アルバム『ばかのうた』が発売された年でもあった。東京でのワンマンは渋谷クラブクアトロだった。いまの人気から振り返れば、クアトロのキャパは小さいと映るだろうけど、当時は人気がどう推移していくのかわからない渦中に誰もがいて、実感が追いついてきたのはもうすこししてからだったと思う。この年、下北沢インディーファンクラブの第一回が行われたけど、星野くんの出演は昼間のmona recordsだった(もちろん、すぐに入場規制)。SHELTERのトリがSAKEROCKで、入りきれないお客さんのために急遽、入れ替え制にして2回連続でライヴをやったのも思い出深い。

この年、SAKEROCKのライヴでは星野くんはエレキを歪ませた音で弾く曲が増えはじめていた。「KAGAYAKI」という曲をはじめて聴いたときの衝撃はいまも忘れられない。馨くんがいまもHei Tanakaで弾いているクリスタルボディのエレベも、この時期から使っていた記憶がある。

そのモードが、年末に出たアルバム『MUDA』として結実していた。サウンドの変化に戸惑ったファンもいただろうけど、ぼくは好きなアルバムだった。『MUDA』の取材は『ミュージック・マガジン』の依頼でおこなった。西荻窪の喫茶店で星野くんとやったインタビュー。そのときは意識してなかったけど、『Quick Japan』以外の音楽雑誌でSAKEROCKの「新作」についてのインタビューを星野くんにしたのは、このときがはじめてで、かつ最後にもなった。

すこしさかのぼって、秋口だったかな。角張くんから「このバンド、どう思いますか?」とCD-Rを渡された。そこに入っていたのが、ceroの『WORLD RECORD』。ぼくの返事は「フィッシュマンズっぽいところもあるけど、(佐藤くんが亡くなってから)もう10年以上経っているし、“フィッシュマンズの子どもたち”に終わらない可能性があるように思う」という感じだった。でも、ぼくの返事を待つまでもなく、角張くんのなかでceroをカクバリズムからデビューさせる決意はもう固まっていたと思うけど(この年のインディーファンクラブにもceroはVIDEOTAPEMUSICとともに参加していた)。

「彼らの周りにはけっこう横のつながりがあって、音源をまだ出してないようないいバンドがいっぱいいるんですよ。だけどあんまり知られてない。ツイッターとかで情報を出して、それを見て友達がライヴに来てる。だから、誰それが彼女にふられたとかもみんな知ってる、みたいな感じですかね。でも、おもしろいですよ」

そう角張くんが言っていたのを覚えてる。2000年代のぼくは、ずっとSAKEROCKを見てきたわけだけど、よくよく考えたら彼らは同世代のバンドとの横のつながりがほとんどなかった。さらに彼はこんなことも教えてくれた。

「松永さんは阿佐ヶ谷ですよね? このceroってバンドのヴォーカルの子が、お母さんと一緒に駅の近くでバーやってるんですよ。すごく感じのいい店ですよ」。その店は、「R・O・J・I」という綴りで「ロジ」という名前だという。ぼくは「へえ、今度行ってみようかな」くらいの返事をした。

フリー・デザインのエレン・デドリックへの取材をニューヨークでやったと、さっき書いた。「WFMUレコード・フェア」に行くのは、ハリケーン直撃で開催が中止になった年を除いて、毎年の恒例になっていた。たいていは、スプリングフィールドのトム・アルドリーノを訪ねて、車で一緒にニューヨークに向かう。ところが、この年はトムに連絡しても返事がはかばかしくない。どうも体調があんまりよくなさそうだった。「ごめんよ」と謝るトムに、「今回は日程的に無理だけど、来年お見舞いに行くよ」と伝えた。

エレンさんに取材したあと、ニューヨークは急に寒くなり、10月だというのに街に雪が舞い出した。真冬用のダウンジャケットなんて持ってきてなかったから重ね着でなんとかしのいでいたのだが、案の定、帰国後に風邪をひいてしまった。ところが、熱が引いても咳がなかなか止まらず、喉にもいやな痛みがある。気になって病院で診てもらうと、「ちょっと炎症になってるけど、大丈夫ですよ」と言われた。しかし、なんだかわるい予感がした。トムが体調を崩していたことも頭の片隅にあったのかもしれない。

あー、もしこれがひどい病気で、このまま死んじゃうようなことあったらいやだな。そう漠然と考えていたことが、そのうち「自分のしたいこと、見ておきたいものを、ちゃんと張り付いて見届ける」という気持ちが、むくむくと頭をもたげてきたのだ。それは、SAKEROCKの成長を見てきながらも、(自分の別の仕事への義理を感じて)要所要所で目にしておくべき瞬間を見落としていたという後悔にも似た感覚から来た思いでもあった。この年の3月に、ゆらゆら帝国が突然解散してしまったことも、少なからず影響をしていた。

結局、喉の痛みはひと月もしないうちにおさまって、いまではなんともない。もはや笑い話でしかないんだけど、このとき感じていたいろいろなことが、ぼくの2010年代を決める伏線になっていた。そのタイミングで、自分が見ておきたい状況に自分が暮らす場所でめぐりあったということでもあるけれど。

12月には、恒例のキネマ倶楽部でのSAKEROCKのワンマン・ライヴ(この年は結成10周年を銘打っていた)があり、さらにクリスマスを過ぎて26日には、赤坂BLITZでももう一度ワンマンが行われた(レキシの池田貴史さんが参加)。いつもなら、こうしてSAKEROCKで締めくくっていた1年だが、この年は延長戦があった。12月29日、渋谷O-nestで、「ending 2010」と銘打ったカクバリズムの忘年会的なライヴ・イベントが行われた。10インチ・シングル「21世紀の日照りの都に雨が降る」をカクバリズムからリリースしたばかりのceroを生で見たのは、この日がはじめてだった。サポートメンバーであるはずのMC.sirafuがセンターというセッティングで、まだまだやりたいことに手が届いていない印象もあったけど、彼らが行こうとしている場所はきっといいものだと予感できた。

この夜のトリはceroではなく、はじめてのライヴとなったイルリメのバンド、(((さらうんど)))だった。この時点では、ぼくはイルさん以外のメンバーとはまったく面識がなく、バンドに対してもなにをやるのかまったく未知数な気持ちでいたが、ポップでシティな歌ものだったことにすごく興奮した。

アンコールでやるレパートリーがこの時点の(((さらうんど)))にはまだなくて、みんながうろ覚えの状態でシュガーベイブの「DOWN TOWN」をカヴァーした。そのやぶれかぶれな楽しさが、次の時代の薄い皮膜を突き破って、ぷしゅーっと知らない風を吹かせてくれた気がした。

ほどなくして(翌日だったか、年が明けてすぐだったか)、阿佐ヶ谷駅で降りて、角張くんに教わった店「Roji」に行った。髙城くんはこの日はいなくて、お母さんであるルミさんが店を切り盛りしていた。だまってビールを飲み、帰り際に「こないだ、ceroのライヴに行ったんですよ」と伝えたら、ルミさんの顔がパーっと明るくなって、「本当ですか? よろしくお願いします!」と返事が返ってきた。

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この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


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