ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック 12

2000年、ジョナサン・リッチマン「ザット・サマー・フィーリング」

生まれて初めて確定申告をした。ライターとして得た収入はごくわずかなもので、書き方の初歩的な相談をした税理士さん(この時期の税務署にたくさんおられる)に「これって、雑所得ですよね?」と問いただされたほどだったが、「いいえ、収入です。これから増やしていくつもりです」と答えた。臨時の副収入的な算定になってしまう「雑所得」と、今後も見込まれる仕事としての「収入」にどれほどの違いがあるか、じつはその時点のぼくはよくわかっていなかったのだが、言葉のニュアンスとして「雑所得」はいやだと思う直感があったのだ。

とはいえ、このころのぼくの主たる収入は、派遣会社「良い意志(英語で)」を媒介した椅子工場での仕事だった。映画館やスタジアムの椅子をラインで製造する、その簡単な流れ作業や、できあがった椅子をトラックに積み込む仕事。派遣会社からは常時10数人派遣されていた。長期で手堅い仕事だったので一度派遣されたら引き続きの勤務を希望する人が多く、だんだんと顔なじみも増えていった。35歳で会社をリストラになった人が派遣チーフ、鳶職だったが体をいためた人、年に数ヶ月集中して働いて旅に出かけるバックパッカーなど、個性のない工場員の群れのように見えて、ひとりひとりの素顔はいろいろだった。ぼくがライターで食うことを目指していて、渡米もしたということを知って話しかけてきた同年代の人がいて、彼はクラブDJをやめたところだという。「いまは当座の資金つなぎでここにいるんですけど、この先は葬儀屋で働こうと思うんです。この先、堅いですよ、葬儀屋は」と彼は言った。あの言葉、十数年くらい時代を先駆けてたな。

工場の仕事を続けられたのには、これまた不思議な縁があった。1999年の秋、今日も工場での退屈なライン仕事だと思っていたら、朝から「ちょっと今日は別現場に行ってくれる?」と指名された。その現場は帝国劇場で、納品した椅子にちょっと故障があって、そのチェックの補助というものだった(万が一のときに代わりの椅子を運び込むとか)。そのときに同乗した製品検査課の社員さんと車中で話になった。走り屋あがりでバイク好きだったその人は生まれも育ちも武蔵境で、若い頃はディスコによく行っていたという。

「ブロンディの『コール・ミー』とか好きでねえ」と、なにげなくその人がもらしたひとことに「いい曲ですよね」とぼくが相槌を打ったら、「え? 知ってるの? 若いのに?」「いや、もう31だし、そんなに若くないです」「なんでここにいるの?」「じつは音楽が好きで、そライターの仕事をしたくて……(ふがふが)」。

そんなやりとりがきっかけでその人と親しくなり、「松永くんが長くいられるように、検査課で派遣の募集をかけてやるよ」と言ってくれたのだ。検査課の仕事は、できあがった製品のチェックだけでなく、新作の試作と動作の確認というもので、それ以来、ぼくはベルトコンベアのラインから離れ、工場内の検査室、試作室で時間を過ごすようになった。ぼくを引っ張ってくれた人がいたのは検査室で、試作室をまかされている社員さんはぼくより年下だったがこの人も寡黙な職人タイプ。大量生産のライン担当とは違うアウトローの集まりみたいな課が検査課だったのだ。

そんな専門的かつ孤立した感じの部署で、ぼくにできる作業は限られているので、毎日の主な仕事は「話し相手」だった。じつは、その人がぼくを欲しがった理由はもうひとつあった。じつは、その人は欠勤&早退魔だった。朝から検査室に行って、いくら待っていても出勤してこないし、昼休みで実家に帰ったかと思ったらそのまま戻ってこない、なんてザラ。スチャラカ社員だったのだ。「困ったなあ」と課長さんとぼくは顔を見合わせるが、ぼくは検査課に派遣されているのでライン仕事には入れない。「じゃあ、適当に検査室で時間つぶしといて」と、ほっとかれっぱなし。

いまにして思えば、そのほっとかれた時間のおかげで、ぼくは日々のむなしさに押しつぶされずに済んだのかもしれない。そのいっぽうで、ライターの仕事が思うようには増えていかないことに対する焦燥も生まれていた。

夏が来て、工場での勤務もまる一年を迎えようとしたころ、ぼくは課長さんに辞意を申し入れ、了解してもらった。最後の現場は、建築中だったさいたまスーパーアリーナの座席設営。だから、あのアリーナにはぼくがビスを打って設営した椅子が何十脚がある。単なる派遣としては異例の送別会までしてもらった。「また武蔵境に遊びに来たら寄ってな。この工場も長くないと思うけど」と別れ際に言われ、冗談のように笑い合ったが、そのセリフの後半は本当だった。数年のうちに武蔵境工場は閉鎖して更地化され、いまはもう跡形もない。ぼくを救ってくれたあのひとは家業を継ぐことになったと、そのころにもらった年賀状に書いてあった。

その夏、『リズム&ペンシル』は再び稼働する時期を迎えていた。ジョナサン・リッチマンがTHE HIGH-LOWSの招きで来日ツアーを行う。大阪城野音、日比谷野音で行われるフェス「that summer feeling」にジョナサンも出演する。ならば、またパンフを作りたいという気持ちがムラムラと湧いた。今回は8ページの比較的簡易な内容。甲本ヒロトさんのインタビューを青森まで収録しに行ったり、キングジョーに装画をお願いしたり。さらに言えば、目的のひとつに、大量に在庫したままの『リズム&ペンシル』創刊号を物販で売りたいという狙いもあった。

ところが、数百冊の在庫をまとめて関西に向かおうとした矢先、一本の連絡が入る。「あの……、申し上げにくいんですが、ジョナサンが『リズム&ペンシル』は物販で売らないでほしい、と言ってまして」。それを聞いて、顔から血の気が引いてゆくぼくたち。「『リズム&ペンシル』のことは大好きだけど、自分のライヴに来てくれるお客さんには、よけいなお金は使わずに、純粋に音楽だけを楽しんでもらいたい」という説明を受けた。「え? なんで?」と動揺を隠せずにいたぼくらだが、「それがジョナサンなのだ」と受け入れるしかなかった。「パ、パンフはいいのでしょうか?」とスタッフに聞き返したら、「パンフは無料なので、いいそうです」という答えだった。

「あなたのことは好きよ、でもね」と恋人に言われたような気分。この一件については、その後も考える機会が多い。頑なといえば頑なだし、誠実さといえば誠実さ。2000年代に入って、ジョナサンはメディアの取材もほとんど受けなくなっていく(いまは、書き文字のインタビューはいっさい受けない)。その信念がちょうどはっきりとしはじめたころだったのかもしれない。

この年、ライター仕事はすこしだけ軌道に乗り始めた。意外なオファーだったのは、ハイファイ・レコード・ストアの店主、大江田さんから「店が運営しているウェブ・マガジンでインタビュー連載をしないか」と声をかけてもらったことだった。大江田さんのナビゲートで、音楽業界の陰日向で生きてきた人たちの証言をまとめておきたい連載だと聞いたので、タイトルは「20世紀に連れてって」がいいんじゃないかと提案した。最初に、水木まりさん、2回目に菅野ヘッケルさん。この2回目までは、まだ椅子工場で働いていた時期だった。

おなじころ、永井宏さんが主宰されていたワークショップから派生した本にも一文書かないかとお誘いを受けた。しかし、提出したぼくの原稿に対する永井さんの返事は「これではダメです。かっこつけすぎています」というもので、結局それは未掲載となった。この言葉は、ライターとしてお金をもらう仕事をはじめていた僕にとっては苦く強烈な薬となった(いまもぜったいに忘れないいましめとして心のなかにある)。しばらく永井さんに対してバツがわるいような気持ちでいたが、翌年、永井さんと中川五郎さんの対談をまとめて本にするという仕事をいただいたのだから、その後のぼくの文章を見ていてくれたのかもしれない。心から感謝しています。

工場をやめた2000年の後半は、ふたたび「良い意志」の日雇いに戻り、さまざまな現場におもむいた。事務所移転、ポスティング、ユニットバスの設営、大手学習塾のための中学校入学予定者の住民票写し、公団の家賃滞納者の強制撤去。強制撤去は、この会社でのもっともダウナーな仕事と言われていたが、ぼくが一回だけ参加したとき、なぜか「おまえは見張り」と指名され、トラックのそばにずっと突っ立っている役目になり、(泣き叫ぶ老夫婦の目の前から無言で家財を運び出すような)悲惨な現場は目にせずに済んだ。肉体的にもっともきつかったのは「品川での軽作業」という名目での募集だった港湾での冷凍イカ運搬だった(一袋30キロほどの冷凍イカの袋がタンカーからどんどん降ろされるのを、市場ごとのパレットに積み分ける)。へとへとになって1日を終えて帰宅する途中、「この仕事は1日入ったら最低1週間はやってもらう契約です」と言われ、そんなの聞いてないと断り、さらに不安だったのでその夜、深夜バスに飛び乗って逃げた。ちょうど翌日、名古屋でヨ・ラ・テンゴのライヴが行われる予定だった。ヨ・ラ・テンゴはそのときもいまも、ぼくの救いの神だ。

秋になって、ハイファイ・レコード・ストアから「1日だけ、だれもスタッフがいない日があるから店番をしてくれないか。給料は払います」とう依頼を受けた。その日、約2年ぶりに、しかも渋谷にあるレコード屋のカウンターに、ぼくは立った。すごく不思議な気分だったのを覚えている。(ディスクユニオンやHMVだけでなく、タワーレコードにもやんわり断られていたし)もうレコードにかかわる仕事はできないと思っていたから。

いくぶん前向きな出来事もありつつ暮れてゆく2000年。ぼくの経済状態はついに破綻を迎えていた。学生ローン、サラ金と流れて、もう正式にお金を借りるすべはない。しかし、結婚以来帰っていない両家の実家に顔を見せなくてはいけない年の瀬でもあった。意を決して、電話ボックスで見た「どんな状況の人でもご融資します」と書いてあった小さなチラシに電話した。愛想のいい声の男性が新宿駅南口の近くの住所を教えてくれた。

看板もないビルの一室で、その高利貸しは営業をしていた。さっきの電話を受けた男性は、どう見てもぼくより年若。「どうぞ」と言われ腰掛けると、さっそく本題に。「あなたの(借金の)履歴を見ました。真っ黒ですね。こりゃ普通貸せませんよ。いくら欲しいんですか?」。ちょっとくだけたような口調に逆に凄みを感じた。「帰省しないといけないんで、とりあえず10万お願いします」と、ぼくは言った。

すると男は「3日で1割」と言い放った。「え?」とたじろぐぼくを尻目にこう続けた。「いいか、おまえの信用だと、おれたちはそうするしかない。3日で1割。おまえが正月、実家で親戚にいい顔してる間に利子は3万にはなるかもな。帰ってきて13万円、払えるのかな? 払えないだろう? ぜったい払えないよ、おまえみたいなやつは」。口調はすっかり強いものに変わっていた。

黙ったままで冷や汗をかいているぼくに、男はさらにこう言った。「おれが、いちばんいい方法を教えてやる。おまえ、家に帰って奥さんに正直に言うんだ。『今年は金がないから帰れない』ってな。うちから金を借りるのはやめろ。いまならおまえから申し込みがあったこと自体をおれがもみ消しといてやる」

予期せぬ展開に、ぼくは固まってしまった。「どうした! 聞こえないのか? おまえに金は貸さない。だから、このままさっさと帰れ! 誰かこないうちにな!」

その剣幕に、「ひい!」と声をあげんばかりにぼくは立ち上がり、ほうほうのていでビルから逃げ出した。そして、家に帰って、ツマに「今年は金がないから帰れない」と告白した。ツマは「そりゃそうだろうさ」と安心したような呆れたような返事で、結局ひとりで里帰りしていった。ぼくは正月の生活費を作るために、残っていたなけなしのレコードを売り払った。

結論からいえば、あの高利貸しの若者が、ぼくの本当のどん底への転落を救ってくれたのだ。ひとり残ったアパートで夕暮れにベランダから見えた富士山を見て、ぼくはさめざめと泣いてしまったけど、それは安堵の涙でもあった。

この年の1曲は難しい。だけど、やっぱりジョナサン・リッチマンの「ザット・サマー・フィーリング」かな。最高で、残酷で、宙ぶらりの夏。大規模なツアーのタイトルにまで掲げられ、THE HIGH-LOWSの甲本ヒロトさんもファンも当然やるよねと待ち望んでいたのに、ジョナサンがこの名曲をやったのは、いちばん小さなキャパの京都磔磔での一回限り。その不思議な頑なさも、ぼくのなかに教えのように横たわったままだ。

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この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


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