ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック 24

2012年、ペイシェンス&プルーデンス「ア・スマイル・アンド・ア・リボン」

2011年に起きたことが多すぎて、書ききれずにこぼれたエピソードがいくつかある。

ひとつめは9月。大江田さんとディスクユニオンの共同企画で、アニタ・カーのボックス・セットが編まれることになり、「この機会に絶対に会うべきだ」とぼくがけしかけたこともあり、一緒にスイスのジュネーヴまで行った。

行ったはいいのだが、大江田さんが最愛の音楽家アニタにいよいよ会うという前日、ぼくが腹痛で昏倒。ひどい痛みで何度も気を失うほどだった。

以前、お腹に激痛が走り、「これはぜったいに盲腸だから」とツマに告げて、夜中にタクシーで救急病院に行ったことがあった。医師に「ここが痛いんです。盲腸だと思います」とお腹を指差して言ったら、「盲腸は逆側ですよ(苦笑)。便が詰まってるだけなんで、浣腸をしましょう」と言われたという笑い話みたいな実話を身をもって経験していたので、「今回もそれだと思います」と大江田さんに伝えた。

「よし、わかった」と大江田さん。スイスまで来て、憧れの人に会おうっていうのに、薬局まで浣腸を買いに行かされるなんて。「これは相当に効くやつだそうだよ」と2個入りのを買ってきてくれた。しかし、2個使ってもぜんぜん治らない。「も、もう1個お願いします」「もう1個?」驚きながらももう一回買いに行ってくれたが、結局状態はすこしもよくならない。

うつらうつらして目をさましたら、お医者さんが呼ばれていた。診断は「ウィルス性の胃腸炎」。「いま、このあたりで流行ってるんですよ」とのこと。薬を処方してもらい、ぼくは安心してからまた気をうしなった(翌日にはなんとか動けるようになり、大江田さんとアニタの対面で通訳を務めた)。

ふたつめは10月。見覚えのない差出人からハイファイ・レコード・ストア宛に封筒が送られてきて、開けたら坂本慎太郎さんのファースト・アルバム『幻とのつきあい方』のサンプル盤が入っていたこと(送り主はマネージャーさんだった)。めちゃめちゃびっくりして、たぶん変な声を出していたと思う。

あとになって、2010年に出た『ミュージック・マガジン』の企画「ゼロ年代アルバム・ベスト100(邦楽編)」で、ぼくが書いたゆらゆら帝国「空洞です」についての文章を読んでくれていたと知った。それがきっかけで、最初のソロを送ってくれたといいうのは、光栄なことだった。はじめて取材をしたのは、2011年末に出た『CDジャーナル』だ。

それから、もうひとつ。2011年で書けずにいた最後のエピソードは、友人のトム・アルドリーノのこと。2010年の秋に、いつものようにスプリングフィールドを訪ねようとしたら、「体調がわるいんだ」と固辞されてしまったことは前に書いた。NRBQのテリー・アダムスや音楽仲間、彼を気遣う人たちがちょくちょく様子見に家に寄ってはくれているようだったけど、心配は募った。。

夏の買付で、ニューヨーク周辺に弟の運転で来た。すこしでも時間を作って、思いきって家を訪ねようと思った。このころ、何度電話をかけてもトムが出ることはなくなっていた。ところが、このときはなんのぐうぜんか、電話に出たのだ。ニューヨーク州のオーバニーでの買付を終えたぼくらは、2時間ほどドライヴしてトムの家に着いた。彼がなかにいれば、家の鍵はいつも開いていた。「トム! 入るよ」

テレビのある部屋から、トムが這うように出てきた。その姿を見て、ぼくはたじろいだ。あのふさふさとした天然のカーリーヘアが、生気をうしなったように白くしなだれていた。再会するのは一年半ぶり。トムといちばん仲のよかった猫のタフィも、この間に亡くなっていたと知らされた。トムは地震のことも心配してくれたけど、とてもだるそうで、すこし話すとすぐ横になってしまった。それでも、「最近よかったのはね、ハイラマズのあたらしいLP」と言って『タラホミ・ウェイ』をかけてくれるのだが、A面が終わらないうちに、彼は眠りこけていた。おみやげ代わりのCDを何枚か置いて、うつらうつらしているトムに「またね」と声をかけて家を出た。

車を運転しながら弟が声をかけてきた。「会えたし、よかったな」。元気なころのトムを知っている弟も、とまどいを隠せないでいるのがわかった。「うん、そうな」と、ぼくも心ここにあらずな返事をした。マンハッタンに向かう車のなかで、そのあとふたりともしばらく無言だった。

その年の10月の終わり、ニューイングランド一帯を記録的な大雪が襲った。交通は寸断され、多くの家庭でライフラインが数日にわたって止まったというニュースは日本でもいくらか報道された記憶がある。ちょうどそのころ、トムは倒れたらしかった。発見されたときは昏睡状態で、すぐに救急病院に運び込まれた。ぼくがそれを知ったのは、すこしあとのことだったけど。幸運にもなんとか一命を取り留め、年末には会話もできる状態になったと聞いたので、今度こそすぐにお見舞いに行こうと、年が明けてほどなく渡米する手はずを整えた。ちょうどマンハッタンでNRBQのライヴも予定されているタイミングだった。

そして、2012年が明ける。1月7日の昼、お店でレコードを出していたら、携帯に一通のメールが届いた。トムが亡くなったという報せだった。「あー」と声が出てしまった。自分でもびっくりするくらい、感情が死んでしまった声だった。勤務中だったので、トイレに行って、何度も何度も鼻をかんだ。そうしないと泣き声が出てしまうからだった。

ぼくは、友人と先生を一緒になくした。病状が深刻だと聞いていた時期もあったので、覚悟をしてなかったわけじゃない。それでも、トムがいなくなったことを飲み込むのは想像した以上につらかった。2005年から1日も欠かさず(震災の当日でさえ)書き続けたブログは、この日で止まった。

大きな喪失からはじまった2012年だったが、それでも生活は続いた。1月の下旬、新代田FEVERでTUCKERのサード・アルバム『TUCKER Plays 19 Post Cards』のリリース・パーティーがオールナイトで行われた。cero、TUCKER、そしてトリが福岡の奇才NONCHELEEEという大胆な組み合わせ。文句なしに最高だったNONCHELEEEを見届け、タクシーを相乗りして阿佐ヶ谷まで帰った。そのときに一緒になったのが「なかしー」という女の子だった。

家の方角も一緒だったので、旧中杉通りを北に向かってしばらくふたりで歩いた。そのとき彼女が熱心に勧めてくれたのが、柴田聡子という女性シンガー・ソングライターだった。たしか、歩きながら「カープファンの子」のライヴ映像を見せてくれたんじゃなかったかな。柴田さんのファースト・アルバム『しばたさとこ島』が出る半年前くらいのことだった。しばらくして南池袋のミュージック・オルグで柴田さんのライヴを見た日か、それともだれか別のライヴだったか思い出せないけど、彼女のCD-R『夏のデモ』『春のデモ』を買った。これが才能というものだなと驚嘆した記憶はいまも生々しい。

3月、森山さんが編集長を辞してからしばらくお呼びがかからなかった『Quick Japan』から数年ぶりに依頼。それも、片想いを取材しないかという。去年の夏に聴いて衝撃を受けていた曲「踊る理由」が、カクバリズムから7インチでリリースされることになっていた。

取材はNRQのセカンド・アルバム『のーまんずらんど』のレコ発企画で片想いが出演する吉祥寺曼荼羅2の上にある居酒屋で行われた。リハーサル後に、「2、3人メンバーが取材に応じる」という話だったが、タダ酒が飲めると聞いてメンバー全員が来たというのはよい思い出。ceroで知り合っていたあだち麗三郎くん以外の7人とは、この取材ではじめて言葉を交わした。

4月には、一年間のロンドン生活を終えた女性シンガー・ソングライター、野田薫さんの帰国記念ライヴがRojiで行われた(共演には、彼女のファースト・アルバムをプロデュースした、あだち麗三郎)。この夜が、あとになって相当に運命的だったとわかる。

ライヴはとてもすがすがしいものだった。この夜は、終演後も音楽で上気したようなムードが残っていて、佐藤公哉くんと古川麦(ばく)くんが一緒に現れて、4人くらいでいきなり演奏を始めた。それが、ぼくにとっては不完全なかたちでの表現(Hyogen)との出会いでもあった。そこに伴瀬朝彦くんも現れて、彼の持ち歌「いっちまえよ」(すさまじくいい曲!)を飛び入りで歌った。

その夜、はじめて話した野田さん、麦くん、あだちくんのバンドでドラムを叩いていた光永渉くんとのロング・インタビューを、やがてぼくはすることになる。この年にアップできたのはスカート澤部くんの回(「スカートは実在した! 澤部渡インタビュー」)のみだったけど、翌年からはこの企画は本格化してゆく。その重要なハブとなったのが、この夜のRojiだったのだ。

6月に行われたこの年のインディーファンクラブは、いよいよ本格的にあたらしいバンドやミュージシャンがメインにキャスティングされるようになり、2年前の初回とはずいぶん様相が変わってきた。注目のあたらしいバンドとしてミツメをSHELTERで見たのも、この年だった。あだちくんやシラフくんは、いくつも現場(バンド)を掛け持ちして、下北の街をめまぐるしく走り回っていた。そういう変化の瞬間を言葉で残したくて、九龍ジョーくんにお願いして『CDジャーナル』誌上で対談してもらった(「あたらしい日本のおんがく」)。のちに九龍くんが著書『メモリースティック』を刊行したときに、この対談をまるまる収録してくれたのはうれしかった。

この「あたらしい」シリーズはその後も磯部涼くんや多屋澄礼さんなどを迎えて、不定期企画として続いた。いろんな漫画家さんやイラストレーターさんに対談用の似顔絵を描いてもらうというぼくのブームは、ここからはじまっている。

7月にはフジロックでは、前年の「ROOKIE A GO-GO」出演アーティストのなかから投票で1位に選ばれたということで、ceroがFIELD OF HEAVENに出演した。出番は3日目の一番手。フードコート近くの林で、ルミさん、トシさん(髙城くんのお父さん)らRojiチームと合流し、HEAVENまで歩いて行った。

この年は2日目の昼に、おなじFIELD OF HEAVENに星野くんも出演した。早めに待機していたら、あとからあとから人が来る。HEAVENにあれほど人が集った光景はあれ以来見たことがない。ライヴも、超満員の観客の期待に応える堂々としたものだった。ただならぬ感じになりつつあるのは人気だけじゃないと実感したのは、まさしくあの日だった。

また、めずらしくリズム&ペンシルの3人が苗場に集っていたのも、この年だった。それぞれ趣味がちょっとづつ違うぼくらのなかでも3人ともが愛する数少ないアーティストのひとつが、キンクス(レイ・デイヴィス)だった。この年、レイが2日目、3日目に出演するということで、彼らも重い腰をあげた。歩いて移動するのが大変だとか、ぶうぶうと不平不満も垂れていたけど、仕事の現場以外で一緒になることはこの時期にはめずらしいことだったし、行けてよかったと思う。

この年は、カクバリズム10周年の年で、秋に東名阪で大きなイベントが計画されていた。今回は最初からパンフ制作を担当する立場でかかわった。関係者全員アンケートと、スペシャル対談として「サイトウ“JxJx”ジュンx星野源」「本秀康x角張渉」の2本が決定。そして、漫画とのかかわりも欠かせないとして、描きおろし作品を描いてもらう漫画家さんを角張くんと相談した。本さんは表紙も対談もやってもらうということだったので、若い漫画家さんから選ぶということになり、ちょうどそのころぼくがはまっていた単行本『森山中教習所』の作者、真造圭伍くんはどうだろうかという話になった。

スカート澤部くんやイルリメ鴨田くんも参加して話題を呼んでいた自主制作漫画雑誌『ジオラマ』に真造くんはレギュラーで描いていた。たしか、澤部くんを経由して連絡先を聞いた記憶がある。きっとカクバリズムの音楽にもそれなりの思いがあるのではないかということで交渉をしたら、わりとすぐにOKの返事がきた。「ceroが好きです」というコメントが添えられていた記憶がある。吉祥寺で打ち合わせをして、ほどなく描きたい構想を教えてくれた。下書きの段階でいくつか提案もして、最終的にあの作品(「トレーは六つに」)になって。

パンフは(例のごとく)ギリギリでの入稿で、ぼくが大阪の会場だった難波HATCHに着いた当日の朝にようやく納品されたほどだった。大阪の物販で野菜を売っていたBIOMANとは、この日はじめて会話らしきものを交わした記憶がある。SAKEROCKは2012年のモードだった9人編成。ceroは大阪・名古屋と東京の間にセカンド・アルバム『My Lost City』が発売されたというタイミングだった。

カクバリズム10周年イベントがにぎやかに終わり、11月には、代官山の晴れたら空に豆まいてに「箱庭良法」というイベント・ライヴを見に行った。髙城くんのソロ、石橋英子さん、麓健一さん。このとき、髙城くんのカヴァーでyumboの「鬼火」を聴いた。yumboは仙台を拠点にしたバンドで、「鬼火」という曲ににじむ思いは、震災とは切り離せないものだった。ぼくはyumboをインディーファンクラブで見逃していたので、やっぱりどうしても見ておきたいなと思った。年明けのceroの全国ツアーで、仙台ではyumboと対バンだと知り、それはどうしても見たいと思って、ひそかにその旅程を立てていた。

おなじ月には、日大芸術学部で行われた「ブチロックフェスティバル」で馨くんのソロ・プロジェクトとしてのHei Tanakaの初ライヴも見た。いまとは形態の違うトリオ編成だったが、この初ライヴはおそろしいほど闇雲な楽しさが暴発していて、めちゃくちゃワクワクするものだった。

YouTubeで森は生きているというバンドの音源を見て(聴いて)びっくりしたのも、この年の暮れだった。その直後に、新代田FEVERで行われたとんちれこーど主催のイベント『とんちまつり』が行われ、そこでぼくは岡田拓郎くんと竹川悟史くんに会っている。あのときなんでふたりはあの場にいたんだっけ? とにかく、そこで森は生きているのファーストCD-Rをもらった。あのCD-Rも、すこしして得能直也くん(当時、ceroのエンジニア/PAを務めていた)がリマスタリングしたヴァージョンに切り替わったはず。それとも、そのときもらったやつが得能くんヴァージョンだったかな。そして、年明けのライヴ(吉祥寺曼荼羅)に行くと約束をしたはず。

坂本慎太郎さんのシングル「まともがわからない」の取材をしたのも年末。「記事の公開は新年一発目になります」と編集さんに言われた。

年も押し迫ったころ、星野くんが倒れたという報せを受けた。

聞いた瞬間、体が固まって、頭のなかがジーンとしびれたようになった。トムに起きたことが重なって感じられて、よけいに気持ちが動揺した。ただ、ほどなく状況がわかってきて、処置が迅速で最悪の自体はまぬがれたし、時間はかかるけど問題なく復帰できるだろうとも聞いた(この時期のことは星野くん自身が文章にきちんと書き残している)。すこし落ち着くまで待って、入院先までお見舞いに行ったのは年が明けてからになった。

2012年の年末は11年みたいな自分にとってのエポックとなるような大忘年会はなかったと記憶してる。あたらしい人たちとの出会いはどんどん続いていて、年明けの約束も多かった。視線は次の年、次に起きることに向いていた。

だけど、どうしても忘れたくないこともいくつかあった。そのひとつは、ぼくが死ぬまで忘れたくないこと。

1月にトムが亡くなったあと、お見舞いに行くつもりで立てた旅程は、家主がいなくなった彼の家を訪ねる旅になってしまった。彼が遺した2匹の猫は、それぞれ別の家であたらしく暮らすことになったという。地下のレコード棚を見せてもらったら、彼が高校時代に作った宅録ソロ・アルバム(オープンリール)で、ぼくが日本発売に協力した『Unknown Brain(ブレイン・ロック)』の続編に当たるシリーズが出てきた。セカンド・アルバムは『One Straw Job』、サード・アルバムは『Pass The Mashmallows』で、ジャケットもできていた。あのリールはそのまま保存されたはずなので、いつの日かデジタライズして聴くことができたらいいんだけど。それから、ビーチ・ボーイズの『Smile』がいつか出ることを夢見て、トムが想像で描いた『Smile』の裏ジャケも出てきた。彼が遺したひとつひとつが、ひとりの人間がキュレートしたアメリカ音楽史博物館の貴重なアーカイヴに分け入るような発見だった。

生きてる間にもっと探索しておけばよかったのに、と思うだろうけど、トムが元気なときは、彼が話すこと、触れる音楽自体が最良の教科書だったから、それ以上のことは望む余地もなかった。それだけでいつだってぼくの音楽脳はすっかりしあわせになれていたのだ。

ニューヨークに戻って、NRBQでライヴするテリー・アダムスに再開したとき、「あれ? 意外と元気だな」と感じていた。まだ十代だったトムをバンドに引き込んだ本人であるテリーは、当然、誰よりも大きな心の痛手をかかえているだろうに。

だが、ぼくの疑問に対して、テリーは音楽で返してくれた。その夜のライヴで、彼は突然ピアノである曲を弾きはじめた。それはペイシェンス&プルーデンスという少女姉妹デュオの「ア・スマイル・アンド・ア・リボン」という曲だった。映画『ゴースト・ワールド』で傷ついたイーニド(ソーラ・バーチ)が部屋でひとりでシングル盤を聴いていたあの曲だといえば思い出してくれる人もいるかも。

トムはペイシェンス&プルーデンスが大好きで、お姉さんのペイシェンスから届いたファンレターへの返事を大事に飾っていた。そのことをすくなくともテリーは知っていたよね。

そういえば、NRBQが1999年に来日したとき、吉祥寺のSTAR PINE'S CAFEのたしか2日目に、トムがバカラックの「ディス・ガイ(This Guy's In Love With You)」を弾き語りしたことがあった。トムの歌はライヴのなかではコメディ・パートのように受け止められることもあったし、このときもちょっとした笑い声や「かわいい」みたいな声があがっていたと思う。だけど、どういうわけか、2階の右に突き出した席で見ていたぼくは、あの歌を聴いて大泣きしてしまった。あの毛むくじゃらで太っちょの音楽にまみれすぎたトムが、まるで音楽の神に自分を捧げるように目をつぶって歌っててねえ。トムは「ギャグだよ、ギャグ」と、あとで照れ臭そうに釈明していたけど、ぼくはそう思わなかった。そして、あのときの「ディス・ガイ」と、テリーが歌った「ア・スマイル・アンド・ア・リボン」には、おなじ匂いがした。

彼は「トムに捧ぐ」なんてことは最後まで言わなかったけど、音楽がすべてを物語っていた。いや、そんな「すべてを物語る」なんて、大風呂敷なことでもないな。もっとささやかに、たいせつに、ある意味とても個人的に、テリーはトムが好きだった「ア・スマイル・アンド・ア・リボン」っていう曲を、自分の手でくるんで、リボンをつけて、生涯の友人に送り届けたんだと思う。本当に稀に、音楽はそういうふうに鳴ることがある。

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この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


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