ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック 14

2002年、ニルソン「スノー」

ハイファイ・レコード・ストアの商品構成や流儀をだんだん学ぶつもりだったのに、急に「おまえが、これからやれ」状態になったのが2001年の後半。店も山手線をはさんだ明治通り側のビルの3階に引っ越しし、あたらしいスタッフも加わった。いまにして思えば、この引っ越しは、以前の伝統的なやりかたやレコードの傾向に縛られずにやっていくうえでは、むしろいいことだったかもしれない(とはいえ、苦心は続く)。

ひとつヒントにしたのは、高田馬場のレコード屋で働いていたときに、店長が「売れないけど好きだ」と言っていたタイプの音楽を思い出すことだった。なかでも、ソロ主体のハードバップではない、アレンジされたコンボ・ジャズや、見過ごされているスターたちのヴォーカルもの、華やかで洗練されたコーラスものは、ぼくもあの店にいた時代にずいぶん勉強して好きになっていた(たしかに、ぜんぜん売れなかったけど)。シリアスではなくうきうきとした小躍りしたくなる気分の音楽はバカにされているけど、じっさいはみんなちゃんと聴いてないだけ。そして、そういうジャズは、ある種のイージーリスニングとも接点があった。

イージーリスニング。きっと、そこにもなんかある。かつてのハイファイでは、店のなかに一箱分のレコードがあるだけで、そこに時代もアーティストも関係なくとりえず置かれていたし、コメントもエキゾやサバービア系のアイテムを除けば、ほとんど書かれていなかった。

高田馬場ではクラシックのレコードも売っていて、じっさい、商品単価としてはジャズやロックに遠く及ばない商品が多かったけど、来店数やひとりあたりの購入枚数はクラシックがダントツだった。「ある程度の質も必要だけど、お客さんに足を運ばせるのは最終的には量」というセオリーは、そのときから薄々感じていた。ぼく自身も、このジャンルについて知らないことが多かった。「イージー」といえばレコード屋さんで2、300円で転がっているベスト物や編集盤くらいのイメージしかないはず。ここにもきっと鉱脈があると思った。それ以来、買付先では知らないイージーのレコードをかたっぱしから試聴しまくることにした。新宿OTOで小西康陽さんたちが中心になって「新宿JAZZ&JIVE」というクラブイベントが始まったのも、やがては追い風になった。

90年代のハイファイは「モンド」で「AOR」で「ハワイ」で「シンガー・ソングライター」の店だったし、そこから急にターンしてしまうつもりはなかったけど、もっとその隙間にあるようなサウンドや、先鋭的なジャンルや作品の陰で見過ごされてきたレコードを提示する必要もあった。大江田さんも「松永くんがいいと思うレコードを売っていくことが大事」と背中を押してくれた。たぶん、そこがぼくなりの反撃のスタートになるという予感もあった。

もっとも、すべてが急にうまくいったわけじゃない。なんとかかたちになっていったのは、たぶん、2、3年かけてかな。その間の売上を助けてくれたのは、もっと単純なもの。つまり、インターネットの進化だ。ぼくがハイファイに入ったころには、文字だけのファイルをアップするのに毎晩30分以上かかっていたのに、このころにはすでに小さいジャケット写真をネット上の商品に添えることが可能になり、そのすこし後には試聴ファイルもつけられるようになった。写真と音がつくことで、爆発的にレコードのネット市場は広がった。あたらしいハイファイの色を作るための助走期間に、この進化がくれた時間の猶予はなくてはならないものだった。

ライターとして、この年に思い出深いのは、クレイジーケンバンドの「横山剣欠席裁判」を『Quick Japan』で担当したこと。取材を担当してくれたのは当時の編集長だった北尾修一さんで、渋谷公会堂前で待ち合わせした。驚いたのは、ぼくが北尾さんの顔にはっきりと見覚えがあったこと。大学1年のときに、一瞬だけおなじサークルにいたことがあったのだ(北尾さんは覚えていなかったけど)。

いまではめったに予約がとれない横浜長者町『FRIDAY』でのCKBのライヴにも、この頃まではまだそれほどすごい競争率ではなかったこともあり、何度か行けた。当時は3部構成で、最後まで見ると東京方面への終電はなくなる。4人で行ってタクシーで割り勘にして帰ったりしていたように思う。そういう友人たちの中に国書刊行会という出版社に就職した年下の友人がいて、あるとき彼から「小説の翻訳をする気はあるか」と聞かれた。いきなりそういう話になったわけではない。そのころいろんな輸入盤CDのライナーノーツを訳して人にメールで送るのが好きだったので、彼にも送ったことがあり、それを見て声をかけてくれたのだった。彼に送ったのは、ニルソンの『ニルソン・シングス・ニューマン』で、ジャン&ディーンのディーン・トーレンスが書いた文章だった(彼はあのアルバムのジャケット・デザインを手がけている)。

本格的な小説を訳したことはなかったけど、読書家として一目置いている彼の依頼なら断りたくなかった。「だれの?」と聞くと、「テリー・サザーンの『レッド・ダート・マリファナ』です」との答え。テリー・サザーンといえば、アメリカきってのヒップスターであり、謎めいた人物でもある。まったくのぐうぜんだったが、たまたま前の年にアメリカで買った古本のジャズ小説アンソロジーに、サザーンの「ユー・アー・トゥー・ヒップ、ベイビー」という短編が入っていた。不思議な味わいのある内容で、『レッド・ダート・マリファナ』には、その「ユー・アー・トゥー・ヒップ、ベイビー」も入っていた。

とはいえ、「やるやる!」と二つ返事で受けたわけでもない。だって、翻訳ですよ? ぼくは英語の読み書きにはすこし自信があったけど、翻訳についてなにかをきちんと学んだわけじゃない。そもそも、翻訳小説の世界でも「おまえ誰?」だろう。

しかし、「そんなことはなんの関係もない、あなたの訳で読みたいからお願いするのだ」という内容のことを言われ、「やってみます」と承諾した。本格的に取り掛かるのは2003年に入ってからになる。

去年の9月11日に結成されたバンド、beri beriはこの年もマイペースで練習と録音を続けていた。途中からは、あまりにも演奏力に問題があるので、ちゃんと弾けるギターとして彼らの友人が参加。4人組になった。

この年の暮れだったと思う(もしかしたら翌年の頭だったかも)。練習場所にしていた下北沢のレコード店に、見慣れない新譜のCDが置いてあった。赤茶けたジャケットに花札のようなイラストと解読不能の文字。そして、緑色のオビ。

オビには「七七日の旅道具/あけてびっくり小躍りします。目盛りは思う様目一杯右へ。」と書いてある。「?」と気になったけど、これが何かは聞かずにおいた。ハイファイをやめて自分の道を進んでいた彼への、ぼくなりの張り合いというか、嫉妬だった。「おもしろそうなCD置いてんな。メンバーの人が持ってきたのかな? この人たち、ハイファイには持ってきてくれないのかな?」

オビの背には、こう書いてあった。

「SAKEROCK/YUTA」

どっちがバンド名なんだ? それがわかるのは、年が明けてからの話。

2002年の1曲は、ニルソンの「スノー」。クロディーヌ・ロンジェも歌った曲だけど、ニルソンもカヴァーしていたのだ。いちばん好きなさみしい雪の曲。『ニルソン・シングス・ニューマン』制作時のアウトテイクで、ぼくに翻訳仕事が舞い込むきっかけになったCDに、ボーナストラックとして入っていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?