中学生の頃の夢を見たくない

何回中学生の頃の夢を見るのだろうか。僕の人生にとって、中学時代が一つのターニングポイントであったことは否定できないが、正直に言ってもう見たくない・・・。この手の中学生の頃の夢は、最初(つまり中学不登校〜通信高校生の頃)は楽しかったあの頃の気持ちが蘇ってきて、起きた後は幸せな気持ちで満たされていた(本当に後ろ向きな幸せだが)。しかしあれから何年、いや10年を超える時を経て擦り続けられた"幸せな夢"は腐食を続け、見るだけでうんざりする夢に変わり果てた。起きた時に胃がムカムカしていたり、歯軋りをしてしまっている。僕は基本的には前向きな人間で、過去に縛られるよりも今や未来のことを考えたい。そのはずなのだが、夢に関しては後ろ向き、つまり過去の内容が非常に多い。だから、見たくない・・・。いや、見たくないのではない。僕が自ら望んで見ているような気がする。何のために?おそらく、中学生の頃の友達が最後の本当に心から許せる友達関係だったからだ。大人になった今も、細々と続けている友達(もしくは知り合い以上友達未満?)の関係はわずかにある。しかし僕はいつも友達に配慮し遠慮している。心の底から言いたいことを言う関係ではなく、何重かに理性のフィルターを介した上でコミュニケーションを取っている。友達とは言えるのかもしれない。親しき仲にも礼儀ありと言うし、配慮があって良好な友達関係と言えるだろう。でも正直な気持ちとしては虚しい。僕は虚しい。何でこんなに虚しいのかわからない。本当の僕はどこへ行った?中学生の頃の自分と今の自分の性格はまるで違う。時とともに自分が変わっただけ?嘘だ。僕の本質はそんなに変わっておらず、ただ理性のフィルターが何重にも増え続けているだけだ。薬を飲んで副作用か出たらそれを抑えるためにさらに薬を飲むのと同じだ。人間関係に問題が出るたびに、「今度からはあの場面で気をつけよう」と言った"反省"を僕はする。反省という名のフィルターだ。しかし本当の原因はそこではない。僕が人に嫌われるのは、僕がフィルターを何重にも張りすぎて、誰からも僕の姿が見えなくなってしまったからにすぎない。僕が反省してるのは"嫌われるきっかけ"だけだ。そもそも僕が誰なのか、どんな人なのか誰にもわからない、薄気味悪い人間な時点で、きっかけだけを塞ごうがどうにもならない。僕は苦しい。人間関係なんて僕にはいらない。1人で生きていきたい。でもそれは時々寂しい。いや、いつも寂しい。人間は、他人は不確実で不安定な存在だ。いつもいるとは限らない。いつまでもいるとは限らない。だから嫌い。怖い。いつまでも一緒にいてくれる人なら、僕は心を許せるかもしれない。しかし、いつも隣に人がいたら「1人にさせてくれ」と思ってしまうかもしれない。むしろ不確実で不安定なのは、僕の方だ。隣にいてほしいのか、いてほしくないのか、はっきりしない。これでは相手はどうすれば良いのかわからない。それでも、僕は寂しい。誰がこの寂しさを癒せるというのだろう。いない。誰も。どこにも。どうしようもない不治の病なのかもしれない。いっそ、どうにかしようとすることを諦めた方が楽になるのかもしれない。僕が苦しいのは、僕が苦しいからだ。寂しい。寂しい。僕自身も素の自分の姿を思い出せなくなってしまった。素の自分とは?そんなものがあるなんて迷信では?自分探し(笑)では?迷信で結構。自分探しで結構。だって、今の自分で苦しいのは本当なのだから。僕はいつまでもいつまでも待っている。中学生の頃の友達が、「よっ!」という言葉と共に、後ろから肩を叩いてくれるのを。

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