本当の友達なんてあるのか?

世界は偽りの友情もどきでできている。そう思えてならない。"本当の友達"なんているのだろうか?子供なら本当の友達を作れるかもしれないが、大人にそうそういるのだろうか?僕にも子供のころには本当の友達がいた。チャンスがあればいつも一緒になっていた。友達の姿を見かけるとそれだけで楽しさとワクワクが止まらなかった。友達が誰かと喧嘩してたら理屈抜きで味方するし、一緒に下校を共にする時間は本当に幸せだった。それが今はなんだ?世界が、僕の目から見える世界が本当に合理的になってしまった。政府が景気刺激策を打てば消費が促進されるように、周囲の人間に優しさをふりまけば優しさが返ってくるようになった。時々プレゼントをあげたら返ってくるようになった。ギブすれば返ってくるし、ギブしなければ何も受け取れなくなった。文字の会話であれ、声の会話であれ、ボディランゲージであれ、頭を使うようになった。頭がフル回転している。嫌われないために。好かれるために。ベストを尽くすために。楽しんでもらうために。良好な関係を築くために。僕は何のために生きている?何のために友達を作ろうとしている?なんでこんなことに頭使ってるの?友達って"維持するためのもの"なの?関係を維持するために苦労するものなの?僕は疲れた。そもそも僕はなんで友達がどうとか考えてるんだ?友達がいることが人生の全てなのか?1人でも人生を楽しくする方法はあるんじゃないのか?なんでこんなに寂しい?なんでこんなに虚しい?なんでこんな記事書いてるんだ?僕は子供の頃よりは頭が良くなった。子供のころからずっとそうなるよう願っていたからかもしれない。でも頭が良くなった結果がこれだ。友達と気持ちを交わすだけでも、頭を回転させて、理屈をこねなければならない。失礼がないように、気の利いた理屈をこねなければならない。それは本当に僕の気持ちなのか?僕は本当に目の前にいる奴と仲良くなりたいと思っているのか?そこまでして?本当はこんな記事ですら、ある程度理屈をこねている自分がいる事実が悔しくてならない。読みやすくするために、納得がいく構成にするために、最低限の推敲は必要なのかもしれない。それでも、note(ブログ)という自分の空間ですら理屈という名の宗教に支配されるようになったのなら、僕の本当の気持ちはどこに顔を出せばいいのだろうか?もちろん、感情が人間の全てではないと思う。ある程度の理性、理屈の発想は必要だと思う。でも、どこまでが感情で、どこからが理性なのか?どれくらい感情を、どれくらい理性を優先すべきなのか?どれくらいの配分なら本当の自分と言えるのか?時折このようなことを考えて、泥沼にはまり込む。考えるだけ無駄だから、そんな暇あるなら仕事を頑張れと言われるかもしれない。本当につまらない考え方だと思うが、僕はそういう意見や感情を間の当たりにすると萎縮してしまう。どこまで行っても嫌われるのが怖いのだと思う。世間体を気にしていないように振舞っておきながら、誰よりも気にしている。こんなお粗末な自分で、本当の友達なんてものがこの先できるのだろうか?

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