お絵かき界隈全体に感じる違和感について書き散らす

※当記事は、お絵かきに関して全くの素人、それも下から数えた方が早いようなど素人による、なんの根拠にも基づかない思考の垂れ流しとなります。そんな文章に興味がある人に読んでもらえたら嬉しいなと思っています。

お絵かきは楽しいものだ。本来はそうだったはずである。例え僕が小学生だったころ、お絵かきが嫌いだったという事実を加味しても、それが変わることはない。そもそも僕がお絵かきが嫌いだった理由は、比較されるのが嫌だったからだ。授業で描いた作品は、後日必ず学校の廊下に一人ずつ並べられて飾られる。そうなることが分かっていたから、嫌いだったお絵描きに心を込めようなんて思わなかった。ただ、後日クラスメイトに馬鹿にされないような、当たりざわりのない絵におさめようと虚しく悲しい努力をしていた。もう当時のことはよく覚えていないが、おそらく小学生の僕は、こんな文化、仕組みを考えた人をさぞ恨んでいたに違いない。例え学校側、というかこの生徒の作品を廊下に飾る仕組みを一番最初に考えた人に、「生徒の作品同士を比較させよう」という意図がなかったとしてもだ。

学校教育を批判したいのではない。もちろん、僕は学校教育なんて大嫌いな人間だが、それは今回の記事の主題ではない。そもそも、大人になった今でも、絵(イラスト)を比較させる文化はますます身近になってきている。インターネットによってだ。イラストをネットにアップロードすれば、どのサイトであれ、基本的に「いいね数」という定量化された結果で返ってくる。まるで、いいねがたくさんついた作品が素晴らしくて、少なかった作品は素晴らしくないといわんばかりだ。100歩譲って、イラストを見た皆からのいいね数が本人のモチベーション向上につながるとして、他人の上げたイラストのいいね数が見れるというのは全くもって意味不明である。他人のイラストのいいね数が自分のイラスト画面のすぐ横から見れてしまうようであれば、比較しない方が難しいというものだ。「人間は比較をすればするほど不幸になる」とはよく言われているものだが、このフレーズだけではもっと重要な本質を説明しきれないと思う。そもそも比較したくなってしまうのは、元々は「イラスト界隈、受け手側、ひいては社会全体のイラストに対する見方が、いいね数という概念をそれほど問題視していない」という所に原因があるのであって、ついつい比較してしまう本人1人の問題とは言い切れないのではないだろうか。

いいね数への盲信と似たような概念として、イラストの上手さという概念もある。言葉通り、イラストは技術的に上手いもの・評価されるものこそが優れているという考え方である。最近は、イラストの勉強法としてYouTubeが非常に人気である。僕もたまに見ている。ずっと見ていると、だんだん頭がおかしくなってきそうになるので、たまにしか見ないが。頭がおかしくなりそうになるのは、単純に彼らの主張によって僕の中の考えが荒らされまくってしまうと感じるからだ。確かに、優等生的な考え、技術的に最速で上達できる考えをプロ等の視点から発信しているという意味では、素晴らしいのかもしれない。僕自身も、自分の考えに固執しすぎるのは危険だというのもわかっている。とはいえ、「最速で上達」とか「こんなイラストはダメ」なんてフレーズを見るたびに、「イラスト=大量生産の工業製品」なのではないかと思えてきてしまう。もちろん究極的に見れば、イラストは工業製品なのかもしれないが、そんな考えでイラストを描いていて、本当に楽しいのかなと思う。そんな冷めた目でイラストを見るのであれば、もはや自分の手で描く必要はないのではないだろうか。このような考えを突き詰めれば、最終的にはAIイラストで十分、となってしまうのではないだろうか。

もちろん、イラストは下手よりは上手い方が良いのは間違いないのだと思う。ただ、上手くなることが全てというような価値観ばかりに触れている時期は、往々にしてモチベーションを失っている自分がいる。分かりやすい例えが思いついた。ゲームソフトを攻略本を見て最速でクリアして中古で売るようなものだ。経済的にはもっとも賢いのかもしれないが、楽しさはおざなりにされてしまっている。

「イラストは完成品の出来栄えが全て」なんてよく聞く話も、最近は疑わしく思うようになってきている。その考えも究極的に突き詰めれば、描く過程のないAIイラストで十分となってしまうような気がする。作者にしかわからない制作秘話、努力して作り上げた達成感、そういったものはおざなりにされてしまっている。この話はどこかからの受け売りなのだが、こんな例え話もある。「ビートルズっぽい曲をAIで作ったら」という話である。ビートルズの曲というのは、曲の完成度についても素晴らしいとは思うが、それだけでなく、当時のビートルズのメンバーの背景・事情、当時のイギリスの社会情勢や文化と照らし合わせて考察するからこそ真の価値が生まれるものであって、AIがガワだけ似せて作ったところで、それが歴史的価値を生むことはおそらくないだろう。

まだまだ言いたいことはあったような気がするが、これ以上書いても読みづらくなってしまうと思うので、この辺にしておこうかと思う。別にこの記事をもって世間やお絵かき界隈にモノ申そうという気持ちは全くない。他人は基本的に変わらない、変えられないものだと思っているからだ。お絵かき界隈の人に不快な思いをさせていたら申し訳ないと思う。ただ、こうして文章にすることで、自分の中のモヤモヤを具体化するのが、生産的で楽しいと感じている自分がいる。

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