なぜ1日は24時間しかないのか?

この疑問を抱いたことのない人などこの世にいないのではないだろうか。絶えず時間に追われている現代人にとって、時間というのは貴重なものだ。喉から手が出るほどほしいものだ。だからこういう願いが生まれる。光陰矢の如し、時は金なりと昔から時間の大切さは説かれてきたが、先人たちの教えの通りに時間を常に有効活用できる者など稀である。その他大勢、時間の浪費家たちは、しばしば空を見上げてこう嘆く。ああ、もっと1日が長ければいいのに。

この祈りに満ちた嘆きは、しばしば冗談として扱われる。
それは1日が24時間だろうが48時間だろうが、我々に与えられた時間が増えることはないからである。それは区切り方の問題でしかなく、1日が48時間になれば1年が182.5日になるだけの話なのだ。
一見「時間が増える」のに実際は変わらない。このギャップがある種の面白さを提供し、このテーマは使い古された冗談としての位置付けにすっぽり収まる。

だが、待ってほしい。
なぜあなたは1日を24時間から延ばしたいと思ったのだろうか?
レポートの期限があと3日しかないから? 彼女の誕生日が明日であることに今日気付いたから? 原稿の締め切りが来週に迫っているというのにまだプロットの段階だから?
いずれも真剣な願いであることは否定しないが、極めて短期的な苦難であり、特殊な状況下での切望である。
より普遍的に時間がないことを嘆くのは、当たり前だが「忙しい」ときである。しかもそれが長期にわたって続く時、やりたいことがそのせいでできなかったり心の余裕がないときに、こうした願いはよく湧き上がる傾向にある。

さて、ではなぜ我々は忙しいのだろうか。それは極論、「ルーチンワーク」が忙しいことに帰結する。
これは完全な推測だが、学生や社会人や専業主婦その他、日々行うべき「なにか」を持っている人が忙しい人である。自由気ままに諸国を放浪してる人が「忙しい」とはちょっと考えられない。
要するに、このルーチンワークが悪い。これが1日の中の大部分を占めているからこそ、我々に生活の余裕はなく、我々は時間を求めるのである。

ルーチンワークと1日の関係をもう少し考えてみよう。
例えば一般的な会社員である私の話をすると、朝7時に起き、7:30に家を出て自転車で通勤する。8:30ごろに会社に着き、8:45から業務を始める。定時である17:30に仕事が終わることは滅多になく、趣味である小説執筆のために19:00くらいに帰ろうかなと思うものの、想定外の業務が毎日発生して21:30まで仕事をする。家に帰るのは22:30を回り、少しダラダラして、夕食を食べて風呂に入って歯を磨けばあら不思議、夜1時を回って寝る時間なのである。一体小説を書く時間がどこにあるというのか。ああ、なぜ1日は24時間なんだろう。
私の場合、言うまでもなくルーチンワークは仕事の時間である。コロナ禍にも関わらず毎日出社が必要なため、往復の2時間を含めると大体15時間くらい仕事に取られていることになる。残り9時間のうち、6時間寝なければ仕事にならないためあと3時間をやりくりして生きていくことになる。
つまり、ぴったりすぎるのだ。まるでわたしの1日は仕事をするために存在するかのように時間配分がされている。
仕事をしてお金をもらっている以上、当たり前といえば当たり前なのだが、ここで言いたいのは「1日という区切りが」「仕事というルーチンワークを回していくために」存在しているかのようである、ということである。

逆じゃないのか、という反論は当然生じる。(そして、結論としては恐らくこちらが正しい)。15時間の労働サイクルのために1日=24時間と言う図式があるのではなく、1日=24時間をギリギリまで仕事に使う結果それだけの労働が生まれてしまうのではないか。
これは全くもっともらしいが、立ち止まって考えるべきこともある。
大体12時間も労働すると、頭が鈍ってきて働かなくなる。集中力は欠け、仕事の効率も下がる。そろそろ帰って回復するべきだ、となる。
もし1日が48時間だった場合、比率をそのままで考えれば30時間働き、12時間の睡眠を取ることになる。
当然人間の体はそういう風にできていない。1日の長さに労働時間を合わせたという説が正しくとも、1日が24時間であることが我々の生活リズムに「ちょうどよい」から成り立つものなのである。(「ちょうどよい」から逆にギリギリまで仕事が入り込んでしまうとも言える)

そもそも1日=24時間はどこから来たのかといえば、地球の自転周期である。
地球は太陽の周りを公転しながら自転していて、これにより朝と夜が繰り返される。
つまり、我々の生活リズムと何ら関係のない宇宙の都合で1日=24時間は決定されている。惑星の自転周期は複数の要因で決まるが、その一つには惑星形成時の角運動量がある。地球ができた時、その材料となったモノがどれくらい激しく回っていたか、というよくわからないパラメータが1日=24時間の根源にある。

ここだ。ここがスタートでありゴールだ。
ここまでの流れは、実を言うと私が帰宅途中に自転車を漕ぎながら考えたことをそのままトレースしたものである。
「1日はなんで24時間しかないんだ」という嘆きから、「ルーチンワークが1日=24時間にフィットしすぎているから時間がないのだ」という気づきにつながり、天体運動と人間の生活リズムという奇妙なマッチングにたどり着いた。

概日リズム、という生物学のことばがある。一般的には、「体内時計」とも言われるものだ。
人間を含めて地球上の生物は1日=24時間の周期の元で進化してきた。その結果、睡眠-覚醒の周期や、ホルモンバランスのリズムなどが大体24時間と一致するようになった。
覚醒時に傷ついたニューロンの修復が6時間の睡眠で完了する、というのが概日リズムによる影響なのかと信じがたい側面もあるが、現在の学説ではこの仮説が一般的であり、「時間生物学」という時間と生物の中のリズムを研究する学問があるくらいだ。

結論をまとめよう。
ここまでの考察はすべて逆に辿ることができる。
まず遠い過去、太古の宇宙で天体運動により1日=24時間が確定した。そこで生命が生まれ、繁栄していく中で1日=24時間に合わせた身体を作っていった。その結果が我々であり、大体18時間の起床時間と6時間の睡眠のサイクルを繰り返して生きている。
起床時間を最大限仕事に充てるべく我々は馬車馬のように働いており、そのため今日の仕事が終わっても眠ったらすぐに明日の仕事が始まるのだ。ありふれた社畜人生である。

もし1日が48時間であればどうなるか。
この考察を始めた時は、人間の生活リズムは24時間だが、仕事はそれよりも昼夜の影響を受けるために、起きる→仕事→寝る→起きる→自由時間→寝る、のサイクルが浸透するのではないかと考えていた。

だが、そうはならない。1日が48時間であったなら、48時間が概日リズムになるように生物は進化し、30時間の連続労働が可能な身体をきっと獲得するのである。世知辛え〜〜〜〜

おわり。

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