セカイ系についての覚書

資本主義・国民国家・市民社会において人間は市民化=商品化すると同時に人間と人間の関係をも社会的関係として商品化されてきた。近代において人間は誰もが自由で卓越した「個人」になれると考えられたが、実際には法の下の平等という名目において凡庸な「何者でもない、誰か」が大量に生み出されただけだった。身分の交換可能性の法的な「保証」によって近代人はつねに卓越化への飽くなき資本主義的自己陶冶に埋没していくことになる。同時に、資本主義の発展と共に都市化が進行する中で、これら凡庸な諸個人=労働力商品たちは、かつて伝統的共同体で備給されえた(もしくは絶対的に備給されえなかった)性的承認とそれに基づく「卓越性」を自分と同じ「自由」で「平等」な諸個人との関係=自由恋愛に求めるようになる。この時見出された「愛」なる感情はすぐさま異性愛的性規範=生殖のイデオロギーとして国民国家の生権力に簒奪され、資本主義において消費されゆく商品にまで貶められた。

1956年のスターリン批判による唯物史観という「正統」への疑義に端を発する1968年世界革命が、これら近代の諸前提を土台から掘り崩していく。教養主義に対するサブカルチャーの台頭、家父長制イデオロギーに対する「性の解放」とマイノリティへの視座の獲得、産業構造の変容による「市民社会の衰退」とそれによる「平等」幻想の崩壊がその帰結であるし、他にも様々な社会的変質を認められよう。

本邦において68年革命の余波の決定的な全面化は、91年ソ連崩壊とバブル崩壊を経た90年代以降において現れる。その一つがマルクス=レーニン主義の失効による政治的ニヒリズムの台頭であり、そして就職氷河期の到来による労働力のジャンク化と、概ねバブル期までに獲得された汎国民的自由恋愛幻想からの大量脱落であった。この時かかる危機に直面した若者たちの間で「セカイ系」と呼ばれる文学・思想運動が生起する。セカイ系とは、「君と僕」のロマンティックな関係性が、市民社会という「中間項」を抜きにそのまま世界と抽象的に直結する思考形態である。セカイ系の運動を担った作家の多くはひきこもりやフリーター、フリーランス労働者といった「ルンプロ(予備軍)」であり、市民社会=公共性が縮減された新自由主義の時代における「ジャンク」な労働力商品としての若者による、プチブルなき後のプチブル急進主義であったと総括できる。セカイ系とは、学生数の急増によって就職不安と群衆化の中の「実存的危機」に晒されて生起した1968年のプチブル急進主義の今日的形態と言ってよい。

雇用問題と自由恋愛幻想からの脱落という二重の「セカイ系的」危機は、現在では膨大な「メンヘラ」を生むと同時に「インセル」として「政治化」され顕在化してきている。この意味で、思想運動としてのセカイ系が退潮した現在でもセカイ系的な時代は未だ続いているのである。

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