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わたしの棚卸し〜恋愛にまつわる幸せ編〜

今回は恋愛観というか、誰かを信頼したり信じること、について、なんとなく。

私は基本的に私自身に好意を持つ人全般を、最も信じられない人、の分類、として生きてきた節がありました。その根底にあるのは、言うまでもなく自己肯定の低さ、にあった様に感じます。更に、それが故に、人を好きになることに対して能動的になれない、というか、諦念に近い感情を持っていた様に思います。恋愛、という真剣勝負のフィールドの蚊帳の外から俯瞰で世界を眺めている様な感じ、とでも申しましょうか。。。

実際に、いわゆる恋愛関係と呼ばれるものまで発展したとしても、どこか冷静というか、真っ直ぐに相手と対峙しなかった、というか、言い方は悪いのですが、恋愛経験を重ねる為に恋愛という名の体験をしていた、様な恋愛とは呼んではいけない様な恋愛観の下に、日々を過ごしてきました。そして、私はそんな自分が本当に嫌で嫌でたまらなかったし、恋愛は自分にとってリアリズムがないものでもあり、かつ、世の中は何故に恋愛至上主義の様なシステムでできているんだろう?、とも思っていました。

が、しかし!人というのは出会いを通して、天地がひっくり返るようなことが起きることを実感しているのが、今の彼女との邂逅並びに、現在に至る日々なのです。世の中には運命の出会いというものがある、という、まるで絵空事のようなことにさえも、リアリズムを感じているのが、今現在の私の姿です。いままでのどんな人との出会いとも違う価値観、趣味嗜好の引き合うような共通感覚のみならず、言うなれば皮膚感覚でのフィット感や、一個人としての尊敬と魅力を感じずにはいられないのが今の彼女です。だれかを好きになること、の勇気や自分の小ささなどを棚に上げて、私は彼女に告白をしたこと、そして、この恋が実り、今現在の2人の日々が在ることに、恋愛というものが持つ、人を愛する気持ちを前提とした、人を信頼したり、信じたり、様々な気持ちを共有することの喜び(負の感情の共有も含め)をフルスロットルで感じています。

人、というのは、自分の想像を超える変化、というものが突然に起き得る生き物である。そんな風に今は感じています。その変化の原動力に在るものは、引力にも似た出会いのみならず、だれかを信じ、信頼し、自分を開示することを恐れたり、卑下したりしないこと、なのかもしれません。本当にありきたりな表現になっている自分にも驚く位に、出会いは人を変え、見えなかった自分の真の姿を相手を通して見たり、または、まっすぐに人と向き合うことの真の意味を教えてくれるのだな、と思っています。そして、なによりも感謝と尊重の気持ち、愛情で見つめ合っていきたいし、その意志は互いに固いものとなっている、と、私は信じています。恋愛を問わず、人と真摯に対峙することは、自分のみならず、相手をも変える力を持っている、そんな側面もある様にも感じています。

そして、今は、かつてよりも自分の存在に対して否定的な気持ちが以前よりも小さくなっていることも実感しています。それは、私にとっては、驚く程に大きく、かつ、自分を揺るがす変化、でもあります。1つの出会いをきっかけに変わった、カレイドスコープの世界を、有限である人生の中で生きていられることを私は存分に満喫します。

「絶望の「望」を信じる」そう呟いた彼女との道を共に歩み続けたい。そう強く強く思っています。

まわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン、だと信じていた自分に拍手が送られる日も来るんだな、と思いつつ。


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