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当事者、というしがらみ

カミングアウト。
セクシャリティのみならず、障害、病気、出生などを告白したり、表明することには、勇気というか、ある意味では扉を開けることなのかもしれません。
けれど、日常の中では、誰もが大小なく、カミングアウトをしながら生きているんじゃないかな、と思います。(広義でカミングアウトを捉えた場合の話です)
どの扉を開けるか、その違いだけ、の様に私は思っています。
人それぞれ、扉の色も形も数も違う。
けれど、1つではない、それだけは言えると思うんです。

もし、自分の中に生きづらさを感じているとしたら、もしかしたら1つの扉に固執していたり、そこしか見えていないのかもしれないんじゃないかな、と思います。
同列にするな、と思われる方もいるかもしれませんが、セクシャリティも障害も、学歴も出生も日々抱える人間関係も、あくまでも自分が内包したり、享受したりしているアイデンティティのあくまでも一側面で、人はもっと多角的な生き物だと、私は思っています。だからこそ、悩めるし、面白い生き物でもあるというか。
それぞれにそれぞれの比重の差があるのはわかります。

ただ、私が少し懐疑的になるというか、なんかもったいないな、と思うのは、マイノリティだから、といった感覚が持つ謎の強み、みたいなものです。
私は、いわゆるセクシャルマイノリティだと自認はしていますが、あまりそこに生きづらさを感じていません。悩まない、といえば嘘になります。
けれど、セクシャリティは私にとっては、大きいけれど、小さくもある一側面に過ぎない、と言いますか。私は、ですが、自分のセクシャリティだけで計られる人生は、正直しんどいし、望むところではありません。

それと関連して、便宜上使わざるを得ないことがあるのですが、私があまり好きではない言葉の1つに、「当事者です。」という言葉があります。この言葉のある意味での破壊力と説得力は、かなり強いものだと、口にした後の相手の反応から違和感や、ある種のしんどさを感じたことが多々あります。
それは、まるで「当事者」という言葉で全てを物語っている様に聞こえているんだろうな、という印象からなのかもしれません。
視点を変えれば、誰もが、ある一面での「当事者」に過ぎず、それがアイデンティティの全てではない、私はそう思うから、あまり好きではないのかもしれません。
無論、悩み、苦しみの中にいる「当事者」を突き放す意味ではありません。誰もが持つ一側面だからこそ、だれかにとっての「当事者」の部分には、おたがいさま、で、手をすっと差し伸べあえるゆとりみたいなフラットな気持ちや動きが自然にできる、と思っています。

ただ、「当事者」の檻の様なものに固執することは、むしろ自分を苦しめている様に見えることがあります。権利の主張も大切だし、必要なことだとは思うけれど、それとは別の視点で、個、としての一人間に立ち返った時に、一側面が全てを覆うのは、なんというか、もったいない様に私には感じられます。

深刻な事を深刻に話すことも大切だと思います。
ただ、私は、ダークサイドは見せてもいいと思ういますが、それは時としてリスキーにもなるし、なによりそこに留まっていると、希望を見出せないし、楽しくなれないと思ってしまうのです。深刻さに埋没すると、澱むといいますか。
深刻さ、って、ダークサイドだけじゃない、とも思っています。希望の様なものもある、というか。
深刻なことこそ、むしろ平易にというか、陽気に、まさに、重力から解放される様なアプローチが必要だと考えています。

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