240704 旋回

7/1になって1時間くらいして、おばあちゃんが死んだ。
6/30はお父さんのお誕生日でなんてタイミングなんだと思った。おばあちゃんにはもう随分長いこと会っていない。決して会いに行かなかったとかではなく、コロナ禍に入る前から閉鎖病棟にいてずっと面会謝絶だったのだ。2年くらい前におじいちゃんが死んで、とても仲の良い夫婦だったのにおばあちゃんはもうその時には既に殆どのことを忘れてしまっていて葬儀にも出席できなかった。わたしはおじいちゃんが死んでしまったことよりも最後のお別れの時におばあちゃんが立ち会えないことが悲しかった。お父さんは子供みたいに泣いていて親を失った人間は何歳になってもこんなふうに泣くのだなと感心した。もしお母さんが死んだら、わたしは泣くより先に後を追いかけてしまうかもしれない。

連絡が来たのは真夜中で、地元が遠いと不便だなと思った。飛行機や新幹線や夜行バスを使って電車を何度も乗り継がなければ自分が育った街に帰れない。わたしは結構な人でなしなので「7/3に大きなワンマンがあるのですが…」と言ったら母も結構な人でなしなので「その日は友引だから大丈夫です。友引にお葬式はやりません。」と答えた。実感が無いまま社長に電話して「ワンマンは出ます」ばかり言っていたと思う。社長はずっと冷静に「何も気にしなくて良いからきちんとお別れしてきなさい」と言ってくれた。まだ頭はぼーっとしていてどうすれば良いか分からなかったので数珠だけ鞄に入れてお布団に入った。真夜中に眠って目覚ましもかけなかったのに早朝に目が覚めた。
そうか、おばあちゃん死んじゃったのか。もう何年も会っていないのに存外はっきり顔を思い出すことは出来たけどその笑顔がいつの笑顔だったのかは分からない。

人は誰でも歳をとるしいつかは死ぬ。わたしはおばあちゃんが事故で歩けなくなってそれがきっかけで認知症になって山の上にある暗い病院に入院しておじいちゃんともちゃんとお別れ出来なくて宝物みたいな日々を忘れて一人で死んでしまったことについてもやもやしている反面、もしもどこかでまたおじいちゃんと会えるならそっちの方が良かったのかもしれないな…こんな場所にいるくらいならばととても傲慢なことを思った。
たった一度だけ訪れたその閉鎖病棟は建物も駐車場も全部背の大きな木々に囲まれてなんとなく陰鬱で
わたしが病気だったせいもあるのかもしれないけど二度と足を踏み入れてはいけない気がするような場所だった。そのくらい死ぬには悲しい場所だった。

ある日突然現れた小生意気な小学生をまるで生まれた時から孫でしたみたいな顔でずっと猫可愛がりしてくれていたおばあちゃんにもっとしてあげられることはなかったかな、と悔いてみたのはいいものの
わたしは今までの悲しい気持ちや苦しい気持ちや許せない気持ちや誰にも言えないことを全部脱ぎ捨てたのと同時に貰った優しさや分不相応の愛情や幸せも一緒に捨ててきたのだから
こればかりは仕方のないことだなと思った。

あいしていた犬が死んだり、時々笑いかけてくれたおじいちゃんが死んだり、華やかに笑う陽気なおばあちゃんが死んだりする度に
わたしが捨ててしまった大切なものたちだ、と思う。そしてこれからもそれはずっとついてまわる。きっとこれからも犬は死ぬし猫も死ぬ。母親の両親も死ぬし父も死ぬし、そして母も死ぬ。大抵わたしはその死に目には立ち会えないだろう。わたしが捨ててしまった、大切だったものたちだ。

まともな喪服を持ってない、と嘆くと母はそろそろ喪服は持っていないとだめだよ、いつかあの人たち(母の両親)も死ぬんだからと淡々とした口調で言ってきた。

おばあちゃんは演歌が好きな人だった。幼少期は皮肉屋で冷淡でリアリストな人間ばかりに囲まれていたので普通のおばあちゃんってこんなふうに華やかに笑うんだ、と初めて出会った時に思った。当時大阪に住んでいた祖父母の家には沢山のレコードがあって、ご飯を作りながら鼻歌を歌う人だった。疎んじられてもおかしくないのに後妻である母にも連れ子であるわたしにもすごく親切に見えたし、なんというか全てが普通だった。父は一人っ子だったがなぜこのような常識的で親切そうな夫婦からあんなやばいやつが生まれるんだ…と当時は思っていた。すごく失礼ではあるが。今までわたしの中に君臨していた常識が全て覆るような体験をおばあちゃんはさせてくれた。たとえばスーパー銭湯や温泉に連れて行ってくれたり公園に連れて行ってくれたり演歌歌手のディナーショーにも連れて行ってくれた。近所の仲の良い人達にこの子は賢くて良い子なんです、と自慢してくれた。そんなことは生きていて初めての体験だった。それが「愛」だったのかは分からない。血の繋がらない祖父母に大胆に甘えられるほど小さな頃のわたしは厚かましくなかったし、向こうも利口で気味の悪い子供に対してどんなことをしてあげれば喜ぶのか考えあぐねていただろう。だがしかしおばあちゃんも、そしておじいちゃんもわたしに「勉強しろ」とは言わなかった。勉強だけではない。ちゃんとしなさい。朝はちゃんと起きなさい。ご飯を食べなさい。お箸をきちんと持ちなさい。夜はちゃんと寝なさい。礼儀正しくいなさい。勉強しなさい。常に優秀でありなさい。常に優等生でありなさい。そんなことはついぞ一言も言わなかった。恵麻ちゃんは動物は好き?恵麻ちゃんはうどんは好き?恵麻ちゃんは本は好き?恵麻ちゃんは何が好き?そんなことばかり聞いてくる人でそれは常に○○しなさいと○○してはいけませんしか存在しない世界の中で唯一の憩いと言っても過言ではなかったと思う。
つまるところ、わたしはおばあちゃんに信じられないくらいの恩がある。恩がある。たとえそれが愛と呼べるものじゃなかったとしてもちぎれそうだった小さな心臓を怖い夜から守ってくれた恩がある、大きな恩が。

わたしはおばあちゃんが作ってくれるお味噌汁が好きだった。母親はいつもレストランみたいな完璧な料理を出す人だったのでいまいち母の味だとか家庭の味だとかは分からない。お手本のような完璧な、絶対誰もが美味しいですと言うような料理。見た目も華やかで映える。調理師専門学校の先生だったのだから当たり前だ。それはそれで好きだ。というかすごいな、と思うし尊敬もしている。自分が自然と料理が出来るようになったのも間違いなく母親のおかげである。
しかしそれとはまた別でわたしが遊びに行く度におばあちゃんが作ってくれたお味噌汁はきっとあれこそがまさに「母の味」のようなものだったんだろう。雑で、見た目も華やかでは無いかもしれない。けど安心するようなそういう味。どんな風に作っていたのかは分からないけど。ちょっとヘンテコな間取りの家。今はもう取り壊されてなくなってしまったあの大阪の家の台所を思い出す度にきっとわたし、あの家で安心を培っていたんだなと思った。怯えなくてもいい夜を何度も過ごさせてくれてありがとう。わたしにお味噌汁を作ってくれてありがとう。わたしのこと孫にしてくれてありがとう。そんな気持ち。

頭に浮かぶのはいつも笑っているおばあちゃんだ。おばあちゃんが悲しい顔をしていたり怒っているところをわたしは殆ど見たことがない。おじいちゃんと並んで歩く時は必ず腕を組んでいた。わたしと歩く時も腕を組んでくれた。母方の親族は皆パーソナルスペースが広くてわたしというか人に簡単に触れないのでそれは新鮮だった。夫婦って腕を組んだりするんだ。おばあちゃんは孫の腕を組んで歩いたりするんだ。そんなのってまるで家族みたいだ。

そうか、家族が死んでしまったんだなあ

実感が沸かなくて他人事みたいな独り言が沢山口をついて出てくる。

早朝、帰省の準備をして向こうに着いたら電波も悪いしほぼスマホは見られないだろうと思ってタイムラインを見てみた。7/1から始まる事務所3グループのワンマンライブ3daysを楽しみにしているツイートばかり目に留まって嬉しかった。お葬式が無事に終わったらワンマンのことを沢山考えようと思った。

スクロールしていってたまたま見つけたツイート

「ポタージュの海を渡るときは、クルトンに乗ると良いよ」

何故だか分からないけれどそれを見てわたしは初めて泣いた。声を上げて泣いた。グランマもグランパもママの妹も何を考えているか分からない。パパは怖い。ママは、
ママはわたしを愛してくれてるんだろうけどわたしはきっとそれを死ぬまで疑い続ける。おじいちゃんも喋らないからよく分からなかった。

おばあちゃんだけが、おばあちゃんだけが何の疑う余地もなく"家族だから"という普遍的な理由でたったそれだけの理由でわたしのことを可愛がってくれていたのだ。優秀でなくていい。優等でなくていい。無理しなくていい。いつも頑張っていて偉い。ありのままでいい。おばあちゃんだけがそう言ってくれていたのだ。
おばあちゃんはもうわたしのことなんて覚えていなかったと思うけど幻でもなんでもない沢山の日々。おばあちゃんに出来た初めての孫がわたしで良かったと全部を忘れてしまう前に思っていてくれていたらいいな、と願うばかりである。

人は死んだら冷たくなる。おばあちゃんのほっぺたは冬に外を歩いた時みたいに冷たかった。おばあちゃんは燃えて骨になった。燃えたばかりの骨はほろほろと崩れてさくさくの灰になった。お葬式はワンマンライブの前日でほんとはきっとおばあちゃんのことをいっぱい思い出していっぱい考えてめいいっぱい送り出してあげなきゃいけないはずなのに、わたしはずっと次の日のワンマンライブのことを考えていた。そうでもしないとどうにかなりそうだった。脳みそが沸騰してヤカンから不快な音が聞こえてくるような感覚だった。世界がぐるぐる回って爪先と頭のてっぺんが逆さまになったみたいな。飛行機はいつも怖くて音楽を聴いて誤魔化すのに2日間何も音楽を聞かなかった。行きも帰りも。帰りは7/2の夜で飛行機の小さな窓から見える夜景が吐瀉物みたいに見えて、次に瞬きをしたときにはギャルがギラギラにデコったガラケーに見えて、もう一度目を瞑ったらさくさくの灰になるまえのおばあちゃんの、コーラルピンクの口紅が施された冷たい唇が浮かんできて
この飛行機が東京に着陸した瞬間から7/3のライブが終わるその瞬間まで姫事絶対値のこと以外は考えないようにしようと決めた。

ポタージュの海を渡るときは、クルトンに乗るといいよ
ポタージュの海を渡るときは、クルトンに乗るといいよ
ポタージュの海を渡るときは、クルトンに乗るといいよ

何回も心の中で唱えたら家を出てから1回も涙が出なかったくせにぽろぽろっとちょっとだけ涙が出た。飛行機が大きくゆっくりと旋回して轟音を立てて着陸して
その瞬間からわたしの心臓はずっとバクバクしていた。家に着いた時もお風呂に入っている時もお布団に入った時も朝歯磨きをしている時も家を出た時も電車に乗った時も恵比寿に着いた時もレッスン中もリキッドルームさんに入った瞬間もずっと心臓が鳴っていた。いつもより体に重力がかかっているような気がして頭の中はモヤがかかっているような気がして
150日前からカウントダウンしてとても楽しみにしていたワンマンライブだったから緊張もすごくてなんだかずっと吐きそうだしぐるぐるぐるぐるぐるぐるわたしはどこかを旋回しているような気分だった。
楽屋袖でメンバーとぎゅっとして眩しくて明るい照明の中ステージに出た瞬間酷く強烈に鮮烈に苛烈に、わたしは今"生きていて"これからも"生き続けて"そしてそれは意味のあることで誰かのためでもう何度もだめになりそうな夜もこういう日のために乗り越えてきたんだって思えたの。

真っ暗な海を渡るときは、わたしたちのライブを思い出して。わたしも思い出す。たとえば20230704のZepp新宿を。たとえば20240703の恵比寿LIQUIDROOMを。それだけじゃない普段のライブを。
お別れが当たり前の世界かもしれないけどやっぱりお別れってすごく悲しくて寂しくてどうやったって時間は元に戻らないし、お別れしたくないからわたしはやっぱりまだまだいっぱい生きて続けようと思っているの。

もしきみが年老いてわたしのことを忘れてしまってその肉体が朽ち果ててさくさくの骨になってしまったとしても
わたしがおばあちゃんの笑顔とかお味噌汁とかをずっと覚えているようにきみのこともずっと覚えている。
もしいつかわたしが年老いてライブも1曲くらいしか歌えなくなってダンスも覚束なくなって来てくれる人の名前も覚えられなくなってその体が燃え尽きてしまったとしてもきみがわたしの笑顔や視線や言葉や握った手の感触や体温を覚えておいてほしい。

20分。25分。30分。
1時間。1時間半。2時間。
わたしがライブをしている時間、きみがライブを見てくれている時間は長い人生の中ではほんの僅かであろう。人生を24時間に短縮したら流れ星が流れる瞬間よりも短いかもしれない。
だけどその瞬間がこれからもめちゃくちゃに輝くように、その眩しさで次の日も次の次の日もどんな道でも歩いて行けるように、そしてそれがずっと続くように
ライブがない時間も泥濘のような毎日もきちんと生きていこう。ただ小さく息をして時間をやり過ごすのではなく前を向いて歩を進めて明日や明後日、その先の未来に向かって生きていこう。

改めてそう思いました。

今まで知人や親族が亡くなってもあまり自分の死生観が変わることはなかったんだけど今回初めて「死ぬこと」よりも「生きていくこと」を沢山考えた気がする。ほんの少しかもしれないけどわたしの死生観が変わった気がする。きっかけはおばあちゃんが死んでしまったことだったかもしれないけど、自分が死ぬイメージよりも生きていくイメージを多く持つようになったのは姫事絶対値の活動とそしてきみの存在が間違いなく生きる活力そのものだったからなんだと思う。まだこの先の未来なんて全然想像もつかないけれどこの7年をかけてわたしはなんとなく生きるってどういうことなのかを沢山考えるようになったのだ。いつだってライブハウスに行ってきみと会ったら、あのステージに立ったら否応無しにお前は今生きているんだぞと思わさせられる。喉が渇いたら水を飲むように、お腹が空いたらご飯を食べるように
ライブがしたいから生きていて、生きたいからライブをしているよ。

だからきみも、またライブハウスで姫事を見たいから明日も生きようと思ってくれたら嬉しい。そして長生きしてくれたら嬉しい。流れ星が流れるより短いような瞬間を見つけてくれてありがとう。

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身内に不幸があったため急遽地元に帰省しておりました。ワンマン直前だったのにSNSの更新もできず最後告知も思うように出来なくて、そして何よりも心配をかけてしまってすみません。
わたしはいたって元気で、そしてなによりワンマンライブは本当に楽しくて最高でした。
きっと、いや絶対に黑黒とチキブロのワンマンも楽しかったんだと思います。見られなかったのは本当に残念で悔しいぜって感じだったんですがきっと黑黒とチキブロもまだまだこれからきみに楽しいを与える存在で在り続けるだろうし静岡や三重のリベンジだってありますから
わたしもその楽しみを待っていようと思います。
改めて全国ツアー、並びにファイナルである恵比寿LIQUIDROOMワンマンライブ「Matters」にお越しくださり誠にありがとうございました。

次また最高になるためにお互い健康でいようぜ❕

最後まで読んでくれてありがとう♡ サポートもありがとう🌱 いつかライブハウスで会えますように🍀