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「笑坂&吉野大夫ツアー」(7)
【ツアー21】 分去れから麓迷亭に至る草道の鉄条網
鉄条網はとつぜん張りめぐらされたものではなかった。わたしがこの山麓へくるようになったときからずっとである。しかし鉄条網は最初は策の内側に張られていた。また柵は丸木だった。それが柵は四角いコンクリートに変り、鉄条網はその外側に張り替えられていた。運転手はそれを意識し過ぎて、車を右側の土手にこすりつけた、ということになるのだろう。
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【ツアー22】 泉洞寺
「享保二十年でしたかな」
と、分厚い過去帳をめくりながら、和尚さんはいった。(中略)
「しゅんじょうぜんじょうに、これですな」
「ありましたか?」
と思わずわたしは、身を乗り出した。
「過去帳は泉洞寺にあり、ってなもんさね」
と清水屋老人は愉快そうに笑った。わたしは持参した小さなメモ帳を、浴衣の袖から取り出した。すると和尚さんは、それを取り寄せて、自分でそこに「春貞禅定尼 享保廿卯閏三月 町茂兵衛下女」とボールペンで書かれた。
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「しかし大夫にしては、ちょっと簡単過ぎるような気もするんですが」
とわたしはたずねてみた。
「なんせ、罪人だから」
と清水屋老人が答えた。
「でもな、自殺という説も、何かできいたようなんだけんどね」
と和尚さんはいった。
「自殺ですか?」
「いやね、はっきりしたことは何もわからないわけだけんど」
(中略)
「この、町茂兵衛というのは、町人の茂兵衛さんということですね?」
「ほてい楼の茂兵衛さん」
と清水屋老人が答えた。
「しかし、それははっきりしているわけでしょうかね?」
「何せ、あの墓は、ほてい屋の土地に転がってたんだから、はあ」
「ははあ、なるほど」
泉洞寺の入口の門の横には「おで迎え地蔵尊」と石碑があり、石碑の末尾には、「詩人の立原道造、作家の堀辰雄、後藤明生等も散策し、当寺に関わる作品も数多く残している」とあります。
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【番外10】 「文化磁場油や」と「油やSTAY」
現在、NPO「油やプロジェクト」が活動の拠点とする「文化磁場油や」は、江戸時代は中山道・追分宿の脇本陣であり、昭和になってからは文士の宿(「油屋旅館」)として、多くの文士・知識人が訪れ、執筆した旅館でした。
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「油やSTAY」は、「平成24年に「油やプロジェクト」を開始し、その由緒ある本館2F・和室5部屋を素泊まりの宿として再びお泊まりいただけるよう修復・改装」したものです。
二階の廊下はギャラリースペースで、又、堀辰雄が常宿とした部屋も見学できます。
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旧油屋旅館の建物(築80余年)を活用しながら保存する目的で運営しているため、宿泊施設は最小限、風呂はなく、洗面所・トイレ・シャワールームは共用(男女別)、蒲団敷きはセルフサービス、Wi-Fiは利用可。予約はメールのみでの受付で、利用に当たっての詳細な返信メールが届きます。
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【番外11】 追分宿から軽井沢へ
翌朝、早朝散歩ののち、追分宿の旧道の途中から国道18号線を潜り、別荘地の林を抜け、信濃追分駅に向かいました。
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(概要)
信越本線横川 - 軽井沢間の碓氷峠専用の補助機関車として開発された電気機関車である。このことから「峠のシェルパ」、もしくは形式称号から「ロクサン」の愛称がある。
(沿革)
1962年5月に先行試作車の1が製造され数々の試験を実施、1963年7月15日に横川 - 軽井沢間粘着運転新線が開通し営業運転を開始した。アプト式は9月30日で廃止となり、全面的に粘着運転へ切り替えられる翌10月1日までに13両が高崎第二機関区(現在はJR貨物高崎機関区)に新製配置された。
列車はまだ発車していなかった。何々式とか呼ばれる機関車に取り代えているのだろう。何式だろう? その機関車とレールの模型を男はこの駅のホームの改札口付近で見たことがあった。にもかかわらずその名称を忘れてしまっているのは、男がやはり旅行好きとはいえない人間であることの証拠とも考えられる。
「この駅」とは旧国鉄横川駅、「機関車とレールの模型」は「アプト式」、Wikipediaによれば、「男」が乗った列車には「粘着運転」の「EF63型電気機関車」が2両連結されたということになります。
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又、1997年(平成9年)10月の北陸新幹線(長野新幹線)高崎駅 - 長野駅間の先行(部分)開業時に、並行在来線となった信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間は採算性等を理由に廃止(代替バスへ転換)されたとのこと。
(Wikipedia「横川駅(群馬県)」より)
(続く)
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