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「笑坂&吉野大夫ツアー」(11)

【番外16】 軽井沢ヴィネット

『吉野大夫』で、ドクター大木(加賀乙彦氏)が有名な遊女の墓が出ていたという「大変ポピュラーな案内書のようなもの」(Y23)とは、例えば、こんな雑誌がありました。(写真は1985夏号ですが、「吉野太夫の墓」の地図もあり、バックナンバーを調べれば該当号も分かると思います。)

「軽井沢ヴィネット」1985夏号
記事とイラスト地図には「吉野太夫の墓」の記載もあります。

「軽井沢ヴィネット」1989春号(Vol.33)では、新宿の文壇バー「茉莉花」のママ奥田茉莉さんによる、後藤明生氏に関する貴重なエピソードが掲載されていました。 {「軽井沢ヴィネット」の最新号は、こちら

「その日は、たまたまうちの別荘に、娘の瑞子(現在、画家として活躍されている)と友人で学校図書の役員をしている岡本道子さんが泊まっていたのです。夜半のことでした。皆眠りについた頃、激しいノックの音が突然したんです。雨がザーザー降っていて、風の強いなんとなく気味の悪い夜でして、女ばかりということもあって、ノックの音もなんだか怖くなって、結局、出るのはやめたんです。」
(中略)
「次の日になって、それが後藤明生さんだったってことが分かったんですよ。後藤さんご自分の別荘に誰もいなかったんで、フラフラ出あるいて最後にうちに来たらしいの。ところが、こっちはドアをあけなかったでしょ。結局、後藤さん、浅間神社へいって寝ちゃったんだって(笑)、雨ふっているのにねぇ」

「茉莉花」は終着駅(「軽井沢ヴィネット」1989春号(Vol.33))
「軽井沢ヴィネット」1989春号(Vol.33)

【番外17】 「茉莉花」のママの山小屋

しかし、とにかくこれで、吉野探しのまず第一歩だけは踏み出したわけだ。ある晩わたしは、そのことを行きつけの酒場のママに話した。
(中略)
「面白そうねえ」
とママは言った。彼女も夏は追分に来ていたのである。駅へ行く途中の雑木林の中に、黄色い三角屋根のアトリエふう山小屋を作ったのが、確か五、六年前のことだ。アトリエふうの造りは、画家の卵である一人娘のためだったと思う。もちろん東京の店は夏も開いていたから、週末の二、三日だけ追分にやって来るのである。

(Y74)

国道十八号線から南へ、信濃追分駅に向って一本の道路がある。両側はアカシヤその他の雑木林で、道は両側からのびて絡み合った枝に覆われて、トンネルのようだ。実際、車さえ通らなければ、申し分のない散歩道だと思う。しかし、夜は、懐中電燈なしでは歩けない。

(Y147)
国道十八号線から南へ、信濃追分駅に向う一本の道路

【ツアー27】 追分節

「そう、そう。えーとね、確かこんな歌だったと思うんだな。追分一丁二丁三丁四丁五丁ある宿で、中の三丁がままならぬ」
「面白い歌ねえ」
「もちろん、清水屋さんのには、ちゃんと節がついているんだがね」
「油屋のおじいさんの正調追分節はきいたことあるけど」
「あ、あの盆踊りの晩のやつ」
「そ、そ、そう」
「あれをねえ、どういうもんか、うちの娘が真似しちゃってね」
「ホント?」
「盆踊りに行っておぼえて来てね、真似るわけ」
「面白い子ねえ」

(Y90)

【ツアー28】 蔦屋

「そ、そ、そう、そう。その三丁目のあたりにメシモリ女を抱えた旅籠がかたまってんだな。だから、いまでも中心部は変らんわけよ。登山道の入口を挾んで両側ね。油屋、本陣、寿美屋、カメダ屋、それからアライマケの蔦屋。あの一角だね」
「あ、あの古い木の出格子のある家」
「そ、そう、あれなんか、完全に旅籠だね。あの二階の出格子あたりから、メシモリ女が手招きしてたわけですよ」
「あの家は、本当、よう残っているわ。わたしも写真撮っといたもの」

(Y91)
蔦屋(古い木の出格子のある家)
蔦屋の燈篭

追分宿には、本陣1、脇本陣2、問屋1が置かれ、宿場町として他のそれとは比べ物にならないほど整備されていたといいます。そのことをよく表わしているのが「追分節」。♪追分1町2町3町4町5町ある宿で♪と歌われ、町が区割りされていたことが分かります。また追分節は宿の最盛期に200人から270人もいたとされる飯盛り女たちの情を歌い上げているともいわれ、軽井沢の追分は、日本各地で歌い継がれている追分節の発祥の地。この宿、街道から全国に広がっていったのです。

cocodoco 軽井沢

【番外18】 枡形の茶屋

わが山小屋から草道を下ると、「分去れ」と呼ばれる旧中仙道と旧北国街道の分岐点で、細長い三角地帯に古い石塔や、マリア観音ではないかといわれている子抱き地蔵などが、旧宿場時代の名残をとどめているが、そのすぐ近くに枡形の茶屋という古い建物が残っている。
枡形とは文字通り〼形に作られた通路で、旧宿場時代、出入りの旅人や荷物などをチェックした場所らしい。いまは、その脇の茶屋だった家だけが残っており、二階の白壁の左脇に大きく〼印が浮き彫りになっているが、昔はこの浮き彫りが家の両脇にあったらしい。
それがキティ台風で右側をやられたため、その部分を壁ごと切り取ったのだそうだ。そして今度は、残る左側の〼印の右下の角の部分が剥げ落ちてしまった。

(「不思議な風の道」京都新聞1982.9.12、『復習の時代』p.254)
枡形の茶屋つがるや(2010.8.24)
枡形の茶屋の〼印が浮き彫り(2010.8.24)

【番外19】 看板

清水屋は、いまではブロック塀のついたふつうの平屋であるが、入口には厚い木の看板がぶらさがっている。清水屋の文字は、もうかなり剥げ加減である。その文字の上の印は、分銅だという。この話はすでに何度か聞かされていた。分銅は両替屋の印だという。裏の物置には、両替屋当時の銅貨を量った桝のようなものも残っているそうである。
そういった看板や桝を欲しがる者が多いという話もきいた。ついこないだも、看板を是非といって来たものがあるそうである。
「どこのセンセイかと思ったら、今度はあ、骨董屋をはじめた者だと」
と土屋老人はいった。もちろん彼は売らなかった。幾らなら売るかといわれたので、じゃあ買いたい値段をいってみろ、と答えると帰ってしまった。

(Y46)

【番外20】 骨董屋

暫くしてわたしは、その骨董屋から画家に間違えられた。(中略)そして、あなたはとたずねると、自分はこの下のバス停横の骨董屋だと答えた。ははあ、とわたしは思い出した。三角屋根の、一見アトリエふうの家が出来たのはわたしも知っていたのである。

(Y46)
三角屋根の骨董屋

「信濃追分」骨董通り(外部リンク)

【番外21】 丸国商店

またわたしが旧道へ降りていくのは、生きてゆくために必要なものを買い求めるためであった。(中略)それは味噌、醤油の場合もあり、酒、ビールの場合もあった。大根、キャベツの場合もあり、牛や鯨の缶詰、即席ラーメンである場合もあった。

(W18)

わたしの家の庭から坂下の婆さんの畑の脇を通り、茂みと花豆老人の家のブロック塀との間の狭い坂を下り、左から右に傾いて見える婆さんの家の裏を通り抜けると、追分の旧道で、真正面が食料品店マルクニだった。

(W37)
丸国商店( 2010.8.24撮影)
(現在は閉店中?)
旧道の丸国商店方面への細道

【ツアー29】吉野伝説

私が追分の「吉野伝説」をきいたのは、作品集『笑坂』(一九七七年、筑摩書房刊、現在は中公文庫)に収められている、追分に取材した短編を書いていた頃だと思う。何でも享保年間に吉野大夫というメシモリ女が、隠れキリシタンのかどで捕えられ斬首された、というものであるが、メシモリ女は廓の遊女ではない。(中略)
そこで私の「吉野伝説」探索もはじまったのであるが、その実体はついに不明に終わった。(中略)
しかし、同時にそのことが私の『吉野大夫』の方法を決定したともいえる。つまり、実体は不明であるが、噂だけはある、ということ。そして私の興味は、吉野大夫なるメシモリ女が実在したか否か、という噂の真偽ではなくて、伝説=噂そのものの不思議さに向かったのである。(略)かくして、私の『吉野大夫』は、追分宿の「吉野伝説」に巻き込まれた男が、噂の迷宮を書物から人物へ、人物から書物へと遍歴し、さまよい続ける小説となったのである。

「自作再見『吉野大夫』」(「朝日新聞」1989.10.15、『小説の快楽』p.312)

「笑坂&吉野大夫ツアー」関連マップ

Yahoo!地図に「笑坂&吉野大夫ツアー」関連スポットを記載してみました。

「笑坂&吉野大夫ツアー」関連スポット【信濃追分】
「笑坂&吉野大夫ツアー」関連スポット【広域】

と、ここまで書いて来て、一泊二日の短くて長かった春のツアーのまとめは全て終わりにしようと思ったのですが、小諸関連の話題がまだ残っていたことと、これらの「小説」の感想がほとんど書かれていなかったこと等により、次回に続くといたします。
(続く)


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