【番外22】 旧小諸城址の懐古園
【番外23】 揚羽屋
【番外24】 揚羽屋のカツ丼
カッ丼の写真は2008年5月のものですが、揚羽屋は2016年4月に一旦閉店し、2021年にニューアルオープンした際にオーナーが変っているので、美味しかったソースカツ丼の味が継承されているかは不明です。
『わが旅わが信州』
『わが旅わが信州』は季刊「信州の旅」創刊号から第三十二号までに掲載された作品の中から、百三十六篇を選んで収録したもので、後藤明生氏の作品も三篇収録されていました。また、平岡篤頼氏の「追分会のこと」には、明生氏が深夜の神社で寝込んだエピソードが再登場しています。
「追分会のこと」
「民謡・信濃追分」
『わが旅わが信州』には、小説『吉野大夫』に登場する今川憲次氏の「吉野太夫と追分宿」(Y159)は残念ながら載っていませんでしたが、「民謡・信濃追分」という文章があり、追分馬子唄のこと(松前の殿様が遊女にこの唄を習い江差追分の母体となった)など、興味深いエピソードが載っていました。
「『わたし』のゆらぎ―後藤明生『吉野大夫』における時間と語り―」
小説『吉野大夫』に関しては、その錯綜した時間について様々な解釈がなされているようで、例えば、鈴木孝典「『わたし』のゆらぎ―後藤明生『吉野大夫』における時間と語り―」では小説に登場する各事象を時系列に再配置し分析を行っています。
又、分析に当たっては小説内の出来事のみを対象としていますが、『吉野大夫』連載の約一年前に書かれた「アカシヤの木の下で」というエッセイによれば、吉野大夫に関する調査は、連載の少なくとも二年前には、すでに完了していたことが分かります。
小説『吉野大夫』の成立過程を時系列で追いかけてみると
1978.8「アカシヤの木の下で」(サンケイ新聞1978.8.12)
→昨年(1977)泉洞寺を訪ね、吉野太夫の過去帳を見せていただいた。そして岩井伝重氏の『食売女』『江戸時代東信濃宿村の歴史』などを教えられて読んだ。
1979.9「吉野大夫」一章(「文体」VOL.9)
1979.12「吉野大夫」二章(「文体」VOL.10)
1980.3「吉野大夫」三章(「文体」VOL.11)
1980.4「入院雑記」(「本」)
→1980.1.30-2.25 十二指腸潰瘍で山川胃腸外科に入院
1980.6「吉野大夫」完(のちの五章、六章、七章「文体」VOL.12)
1980.7「吉野大夫注」(のちの四章「文学界」)
→「拝復、先日は遠い所からまことに結構なお見舞いを有難う。手紙に続いて、翌日スコッチが到着しました。」(「入院雑記」と「吉野大夫」一章、二章、三章?を読んだ知人からの手紙への返信というスタイルで書かれている。)
1980.5.20「信濃追分の吉野大夫」( サンケイ新聞 )
→季刊「文体」に連載した『吉野大夫』がやっと終った。
1981.2 単行本『吉野大夫』(平凡社)
→「吉野大夫注」を四章、「吉野大夫」完を五章、六章、七章と再構成
そして、「アカシヤの木の下で」(1978.8.12)の約二年後には、
と、フィクション版の吉野大夫の執筆についても言及されています。
又、小説の書出しは、季刊文芸誌「文体」掲載時には
と、「小説のつもりで書く」ことが努力目標になっていますが、これが単行本になると
と、「小説」として書くことが宣言されています。
また、鈴木孝典氏の論考によれば小説『吉野大夫』には「と思う」という記述が合計二一〇箇所確認でき、「記憶の不透明性・再現不可能性を明示している」との事でしたが、この「と思う」には「事実」のアイマイさと「記憶」のアイマイさとの二つの意味合いがあると思われます。すなわち、1978.8.12に「アカシヤの木の下で」が書かれた一年前に「吉野太夫に関する調査はすでに完了していた」「ただし、まだ一行も書いていない。」とあること(また、例えば、冒頭のソースカツ丼のエピソードは『眠り男の目 追分だより』の1975.12.1に既に書かれていたことなど)から推測すると、「と思う」という記述は「吉野大夫」という遊女の実在を「噂の構造」の中に拡散霧消していくために意図的に用いられていたとも考えられます。
又、「吉野大夫」の各章は「わたし」を主語とする口語体、「吉野大夫注」のみが「僕」を主語とする書簡体で書かれているとのことですが、後者は前者の解説(種あかし)となっており、しかものちに四章として『吉野大夫』に取り込まれたことで、この「小説」の厚みがグッと増しています。
「吉野大夫注」が書かれた経緯については、例えば、中村博保氏の
があり、その往復書簡の続きだったとも考えられます。(この書簡は、秋成研究者で後藤明生氏の友人でもある中村博保氏が『雨月物語』の現代語訳を終えた後藤明生氏のエッセイ「修辞的と文体的」(文學界 1979.5)を読んだ感想として書かれたものです。)そして、「僕」(後藤明生氏)は、
となります。
先ほど、「吉野大夫」の各章は「わたし」を主語とする口語体、「吉野大夫注」のみが「僕」を主語とする書簡体で書かれていると述べましたが、これらはむしろ小説を書くプロセス(「吉野大夫」に関する探索や会話自体)を小説化したメタフィクションと言うべきかも知れません。従って、各章に散りばめられたエピソードを時系列で追っても整合性は無いということになると思います。
後藤明生氏の小説は「アミダクジ式」と言われますが、『吉野大夫』は様々なエピソードをむしろ「数珠つなぎ式」に結び付けた小説で、それらを結びつけていたのは作者の「自意識」ということになるかも知れません。
あとがき
『笑坂』『吉野大夫』を読み返し、その舞台裏を自分の目で確かめてみたいと思い、居ても立ってもいられない気持ちになって、一泊二日の旅に出たのが四月下旬。追分宿の真ん中、「信濃追分文化磁場油や」に「油やSTAY」という素泊りプランがあることを知り、即、申し込みました。
中公文庫版の『笑坂』『吉野大夫』で、場所を特定出来そうな場面に付箋を貼り、googleやYahoo!のマップに書き込みを行うと、かなり多くの地点が明確になりました。
その地図を「文化磁場油や」のスタッフの皆さんにお見せしたら、「吉野大夫の墓」や「明生橋」に関する貴重な情報や資料を頂くことが出来ました。又、お貸し頂いた電動アシスト自転車とヘルメットは現地調査の有力な助けとなりました。
大変お世話になり、ありがとうございました。
(終わり)