貧しさの美学
お金が無いと心が塞がります。誰でもそうですよね。ただ、貧しさは美しいと思うんです。
私は貧しい家庭で育ちましたから、よく分かりますが、お金を持っている人や、お金に余裕が出た人が急に人が変わるのを沢山見てきました。
貧乏な人が変わる事は無いのです。
そして貧乏は何もない状態ですから、0から作り上げる創造力を養えます。なので、私は工作や絵が得意でした。
貧乏は確かにお金が無い事で、幼い時にいつも同じ服を着ていたり、靴下に万年穴が空いていたり、給食費を払えなくて、自分だけ事務室に手渡しだったり、恥ずかしい思いをしてきました。
でも、なんだか自分が哀れだとは思わなかったんです。そして、なんだか笑えてきたんです。
だから私は貧しい家庭で育った事には感謝しています。
貧しい家庭で育てば、生活水準が0からですので、自分の贅沢だなと思えるレベルがとても低いんです。
そして、私はいくらお金持ちになっても、お金を維持する事は出来ないと思いますから、いつでも生活水準を0に戻す事が出来ます。
私は今、生活水準を絶対に上げないぞ!って決めています。それは稼いでも、儲かってもです。
生活水準を上げたり下げたりすると、必ず生活に伴って、人が変わりますし、人を見る目も変わる事を知っているからです。
私は未だに幸せの定義が変わらないです。
定義その1
壁があり、屋根がある事
定義その2
食べられる事
定義その3
お風呂がある事
定義その4
安全を確保出来る事
以上です。
私の暮らしがどんなものかは、この定義の低さでわかるとは思います。
私は裕福な人よりは小さな事で幸せを感じられると思います。春に花が咲いているだけで、幸せになります。
私の幸せは本当に小さなものですが、これが全て揃う事はなかったのです。最近やっとそれが自分の意志と、努力の成果で叶いました。
自分の持つ幸せの度合いや、定義は相手に叶えて貰ったり、相手にそれを守って貰うのでは無い事を結婚、離婚で理解しました。
自分で稼げないから結婚するとか、自分が甘えたいから結婚するとかは、若い時には外見で何とかごまかせますが、長くは続かないと思います。
何故なら幸せは高い、低い関係なく自分で掴み取るものだからです。
私の最高地点は今ですが、人よりきっと価値は低いと思います。けれど、私にとっては今が1番幸せです。
後、人はある程度の稼ぎや、貯金額によって友人が出来ると言います。貧乏な人は貧乏な人同士、食べ物や服などを分け合って、シェアする事が出来るのです。
人の着たものは嫌だとか、そう言う事は貧乏な人は言っていられないのです。
分け与える、シェア出来る精神は自分が貧しいから貧しい人の気持ちが分かるんです。だから使える物は回して使い、勿体ない精神が働くのです。
海外では勿体無いという言葉が無いようですが、日本に根づく勿体無い精神は物を大事にする気持ちから来ています。
私が貧乏の美学として、最も重要視しているのが、この気持ちです。
新しい携帯が出たから変える、新しいTVがあるから捨てる、新しい服を買ったら捨てる。
私は贅沢な人の気持ちはよく分からないですが、ゴミ収集の社員の人が言うには、まだ使える物ばかり捨てられているようです。
お金はいつまであるかは分かりません。今昔の日本に戻る事が出来たら、その分お金を世の中に回せるはずです。
お金の使い方を間違えると、無駄が増えます。
今一度、立ち止まって考える時だと思います。
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