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海をみながら| 瞑想のこと 書けるだけ② Observing ocean| As mush as I could write about meditation ②


“話は戻り、昼下がりに海沿いを走った。景色のよいその周囲をぐるっと一周した。気持ちの良い場所であるにもかかわらず、うっすらとネガティビティがでてくる。それはどんな種類のものだったか?その思考をたどれるか分からないけど次のエントリーで書いてみることにする。

(続き)

このような気持ちのよい景色の場所なのにふと、ここにいたいわけではないという観念が生じる。次に、どこにも存在したいなんていう場所はないと思うに至る。そう思ってなんだか拠り所のなさ、あるいは絶望感のような普段では気づかないくらいの繊細な苦しみを心に感じる。

このことを瞑想の友人に話すと、このような回答を得た。「その絶望感は無知がどこかにあるからじゃないですか?」つまりは無常、無我、苦に対する無知がある、ということだ。

ブッダの教えの実践では、これら無常・無我・苦の重要性を再三説かれる。無常とは物事は常に移り変わっており、一瞬たりとも同じ状態に留まっていないということ。無我とは、個人(自分)と呼べるものは存在しないとうこと。そしてこの世は苦しかないということ。これらを瞑想により体験的に理解を深めることで無知が滅せられていく。

上の例では、そもそも好んだ場所が常に同じ状態であることはありえないうえ、常に同じ認識を持つ自己(と呼ぶようなもの)も存在しない。さらに、人生は苦なのだから(後に詳しく記載)、「自分にとって完璧な場所があるかもしれない」というような期待を持つことなどできるはずがない。そしてそもそも期待がなければ絶望感が生まれることはできない、ということだ。

以上は、言葉で書かれた知的な理解(智慧)で、瞑想を通してそれらを身体的に理解することが最も大事な理解(智慧)であると、体験的理解の重要性も繰り返し説かれる。

ちなみに「人生は苦なのだから(苦はパーリ語でdukkaという)」と書いたけれど、悲観的なニュアンスを含まない。通常日本語で「苦」というと、痛みやつらさなどの不快な感覚という意味だが、dukkaは不快なもののみを指すのではなく、心地よい感覚も指す。つまり不快な感覚と同様に心地良い感覚もまた条件づけなのだ。それらを反応せずに観察することで条件づけを解くことができ、心の浄化がなされる。

つまり身体に出てくる感覚を観察することで、過去に結んでしまった条件付け(サンカーラでもカルマでも呼び方はなんでも)を解く。万人がそうかはわからないけど、人生において精神性の向上が目的なのであれば、すべき有益なことは自身が抱える問題や条件付けを直視し滅していくことである。人生においてどのような選択をしても(今回の素朴な例でいうと、たとえその好んだ場所に住むことになったとしても)結局は自身の抱える問題に直視し取り組むしかない。

そのような人生の中でベターと思われる選択(対処法となるようなもの)がある程度、自身の問題を覆い隠したり、あるいはペース調整の役割を果たしてくれたとしても、取り組むべきことは変わらない。それは各々の取り組み(仕事や活動、もちろん瞑想など)を通して出てくる課題、つまり心の問題や条件付けと向き合い滅していくこと、どうやらそれしかないようだ。とはいえ、個人的には対処療法は自覚的であれば有効だと思うので多かれ少なかれ併用させながら、という感じがいいように思うけれど。

自身の問題や条件付けに取り組むには、それら対処療法の助けを借りがら、根本治療をしなければならない。つまり心の浄化をせねばならない。本当にそれらに取り組むには、どうでもいい雑念、娯楽、その他を横に追いやって、その問題を直視する力を育まなければならない。それから、その問題に対して反応・反発することをやめなければいけない。そして観察する。そうすることでしか、自身の持つ問題・条件づけを乗り越えていく術はない。

逆に言うと、このような術がある、ということだ。それがブッダの説いたヴィパッサナー瞑想なのだ。これがちょっとやそっとではないほどの朗報だということを解ってもらえたらいいのだけれど。ちなみに精神的な問題だけではなく、身体的な問題もこの方法で取り組むことができる、という認識をわたしはしている。不思議でもスピリチュアルでも何でもない。

「観察する」というこの瞑想法があまりにシンプルすぎて周りの人に説明しても理解してもらえないかもしれないと考えていたけど、今回は自分に出てきたネガティビティという感覚から掘り起こして言葉にしてみました。

四つ目の記事にしては、ちょっと込み入った内容になりました。
長文をお読みくださりありがとうございました。

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