心を豊かにしてくれた私たちの"鏡"
お久しぶりです。emilyです(๑˃̵ᴗ˂̵)
最近、光の写真を撮る日が増えてきました。
今日は、長編のお話しです。
家族のことでもあり、故人はこれをここで書くことについてどう思うだろう…と考えていました。
そんな先日、初盆を終えた夜のこと、実家の私の部屋のドアに気配を感じました。
"カサカサ"っと羽が触れたような柔らかな微かな音でしたが、懐かしい香りと肌感覚で故人がありがとうの挨拶に来たんだなとすぐに感じました。
そして、翌日の明け方にも夢の中に出てきて、言葉は交わさなかったものの、もうあちらで楽しんでいるという感覚を伝えてくれました。
というわけで、もう書いてもいいのかな、という気持ちになれたので私の心の一区切りの意味も込めて書くことにしました。
【大叔母のゆきちゃんのお話し】
(幸子って名前だったので、ゆきちゃんと呼んでいました)
ゆきちゃんは祖母の妹で生まれつき、軽度の知的障がいがありました。
なので、祖父が家に住まわせてあげたらどうや…ってことで、父が小さい頃からずっと一緒に住んでいました。
私は小学6年生までは父の仕事の都合で神戸や淡路島に住んでいたので、祖父母の家(今の私の実家)にたまに帰った時にゆきちゃんと遊んでもらったり、おもろい変なおばちゃんやなぁ…くらいにしか思っていませんでした。
小学6年の半ばで、祖父母の家で私たち一家も一緒に住むようになり、ゆきちゃんとも毎日接する生活になりました。
ゆきちゃんは、おしゃべりが大好きで私がピアノの練習をしている時にしょっちゅう話しかけてきて、何度も同じことを聞いてきたり、お菓子が大好きで私の好きなお菓子を食べてしまったり(笑)
思春期の私は、なんで家族にこんな変なおばちゃんがいるんや‼︎
なんで私はこんな家に生まれてきたんや‼︎って怒りを感じる時もありました。
それに、友達が来た時に恥ずかしい思いをしたこともあって、ゆきちゃんに辛く当たってしまうこともありました。
大学で東京に出てからは、実家に帰ることも年に数回しかなくなり、たまに帰るとゆきちゃんに優しくしよう…という気持ちがやっと出てきたのを覚えています。
一人暮らしを始めて、接客のアルバイトを始めて、お客さんからキツく当たられたり、理不尽な態度を取られた時にものすごい怒りと悲しみを経験した時、ゆきちゃんに対して私が辛く当たった時のことが重なったんです。
ゆきちゃんは、祖父母や父にもよく怒られていました。
自分で自由にでかけられるわけでもなく、畑と山仕事の毎日で、日常での楽しみといえば、おしゃべりとお菓子を食べること。
そして6畳一間の自分の部屋でテレビを見ること。
何十年間もそんな生活を続けて、幸せだったんだろうか…と実家に帰ってきた亡骸を見つめながら思っていました。
最後の10年間は老人ホームでお世話になり、亡くなった当日は、両親が駆けつける前にそこのスタッフの方々に看取られながら逝ったそうです。
大叔母ということもあり、老人ホームでの葬儀も提案されたのですが、母が家族なんだからお家に帰らせてあげようよ…と言い連れて帰って来ました。
父と母が結婚する時、ゆきちゃんのことが原因で母の実家からは何年も結婚を反対され、結婚してからも母に負担がのしかかっていたので、父は連れて帰ってくることに葛藤があったようです。
ゆきちゃんが帰ってきた日、枕経をあげに、ご住職さんが来られました。
法名をつけるのに名前から1文字、そしてもう1文字を付け加えるので亡くなられた方を一言で表したらどんな言葉が思い浮かぶか?と尋ねられました。
父は「耐える人」
母は「陽気な人」
弟は「お喋りな人」
私は「よく食べる人」
と答えました。
翌日、お通夜会場で法名の書かれたお札を見て、ハッとしました。
そこには、「鏡」という1文字が付け加えられていました。
父は耐える人と言った理由は、自分のイライラをゆきちゃんにぶつけてしまうことがよくあって、反省の意味も込めて…と言っていました。
けれど、私から見たら父自身が耐える人。
母は陽気な人と言った理由は、ゆきちゃんは怒られてもすぐにケロッとして、陽気な人だったと。
これも、私から見たら母自身が陽気な人。
弟も私も上記に同じでした。
ゆきちゃんは、私たち自身を写してくれる鏡だったのかな…と感じました。
ご住職さんは、鏡にした理由をこう話されました。
「人というのは、自身のこと(きたない部分)を見るのが1番辛くしんどい生き物です。
昨日、ご主人(私の父のこと)は幸子さんを耐える人とおっしゃった。その理由は、ご自身のイライラ、いわゆる見たくない部分を幸子さんにぶつけたと。
でも、幸子さんがいなければ、そのイライラ自体を見ることもなかったわけです。
幸子さんはそれを見せてくれる鏡の役割をしてくれたんです。
そして、ご主人はその過去の自分を反省していらっしゃる。魂の修行ですね。」
心に風が吹くような、そんな気持ちになりました。
これを聞いた翌日の告別式。
お経を聞きながら、頭の中でゆきちゃんが鏡となって見せてくれていたことって他に何があったかな…と思いを馳せていました。
障がいを持つ人との生活の中で、湧いてくる自分自身の闇の感情。
その一方で、ゆきちゃんはどんな気持ちで生きているんだろうと思いはかる経験もできた。
ゆきちゃんのことで奔走している両親の姿を見て、人情深い両親でよかったな…と思えたこと。
他にもいっぱいある。
とにかく、私たち家族の心を豊かにしてくれたことは確かだと。
今まで、厄介なおばちゃんだと、こちらがお世話をしてあげていると烏滸がましい気持ちを持っていた自分を恥じました。
言葉では言い表せないけど、色んな「ある」を感じた時に、ゆきちゃんのスピリットはわざとハンディキャップを持って生まれることを志願して、私たちの魂の成長のために、私たちの前に現れてくれたんだと腑に落ちました。
そしてその時、この時期だから家族葬にすると伝えても見送るよと言って集まってくれた数十人の親族に対しても、「あぁ、こんな優しい親族の一員で私は幸せだな、ありがたいな、幸せだな…」と愛おしさのような感情が湧いてきました。
ゆきちゃんは、最後に親族の優しさを写す鏡となってくれたのです。
ゆきちゃんが亡くなる直接に読んでいた本
「喜びから、人生を生きる」に書かれていた言葉
"私たちは無限に広がるタペストリーの壮大で色とりどりなイメージを織りなす一本の糸…"というくだりがふと頭に浮かびました。
ゆきちゃんがいる、なんでこんな家に生まれたんだ…と思ったこともあったけど、誰一人として欠けていたら今、こう感じることはなかった、すべては完璧だったんだ、と思いました。
告別式の日は、雲ひとつない晴天で、ゆきちゃんが85年の色んな重荷を解いて天へと還って行く日にはぴったりなくらいのお天気でした。
まるで、神様からおつかれさま、おめでとうと言われているみたいに。
そして翌日、老人ホームに式が終わった事の報告とお礼を兼ねて行った時のこと。
そこで過ごした10年間のゆきちゃんの写真アルバムを頂いて帰ってきました。
開いてみると、家ではあまり見たことのないクシャクシャの笑顔がいっぱいで…
スタッフの人にハグされて照れてる笑顔、クリスマスイベントでケーキのクリームを口いっぱいにつけて笑う姿などがありました。
最後の10年間はまちがいなく、幸せな日々を送っていたんだな、よかった…と安心しました。
ずっと家で介護をしていたら、こうはなっていなかったでしょう。
両親も、幸せそうでよかったと言っていました。
悲しみもあるけれど、それよりも、ありがとうとおつかれさま、という気持ちで見送ることができました。
ゆきちゃんは今頃、あちらの世界では両親や姉妹で楽しい毎日を送っていることでしょう。
ちょっと普通の家庭ではない家に生まれた自分を否定していた時期が長かったけれども、どれもこれも、私自身が体験したくて選んできたんだと思うと、全てがありがたいと思えることができるようになりました。
最後まで読んでいただきありがとうございました🌈
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