しょっぱい、甘い、おいしい
先日、久しぶりに本屋さんの中のカフェに行きました。
前日までは夏の暑さが残っていたのに、今、窓の外は冷たい雨が降っています。
周囲を見渡すとさすが本の世界に没入している人が多く、雑音ごと水の中に閉じ込められているような内省的な気分になります。
わたしは、喫茶店でトーストを食べるのが好きです。
お店の名物や他のメニューに目移りすることも多いけれど、コーヒーと一緒にちょっとどうぞ、という感じのトーストが心底ありがたいときがあります。
香ばしく焼かれたパンは厚めにカットされており、切り方はお店によって様々。
歯に触れる表面のカリカリと中のふわふわ、鼻先に感じるかすかな湯気が、この上なく豊かで贅沢な時間をもたらしてくれるのです。
おともに必ずと言っていいほど出てくるのは、小さな容器に入ったバターと苺ジャム。
温かいパンの表面に落としたバターがじんわり溶けるのは、いつ見ても幸せな光景で、古くは「トラのバター」をたっぷりかけて食べるチビクロサンボの時代から親しまれていたようです(多分)。
大学に入学する前だったか、直後だったか、映像学科の学生作品の上映会に偶然迷いこんだときのこと。
そのとき見た短編作品のタイトルが確かバター、あるいはButterだと思いますが、今となっては確認しようもありません。
役者さんのたどたどしさと、なぜか女性が古風な振袖を着ていたこと。
何より物語の合間に挿入されるトーストの上でとろけるバターの映像と、テーマ曲となっていたドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が妙に印象に残っていて、今でも忘れられません。
話の筋はほとんど覚えていないのに、映像というのはこのように何年も懐かしい記憶として残っているのだから、おもしろいものだな。
この作品に心当たりのある方、ぜひご一報いただければ幸いです。
さて、このバターの下地の上からじゃくじゃくと、ジャムを伸ばして透明な桃色をつくる瞬間が最高なのですが、そういえばこれがおいしいと思うようになったのはいつからだろうか。
子どもの頃の朝、紙製のカップに入った苺ジャム。。。というかゼリーに近いようなもの、を6枚切りのトーストに乗せてよく食べていました。
同じ環境で育ったきょうだいでもまったく異なるらしい、個人の嗜好というのはある時期から明確に示されていて、わたしはバターとジャムがまだらに混交するのをよしとしないお子様でした。
ジャムはジャム、バターはバターが独立してパンに乗っていないとだめで、どちらかを選んで塗るか、パンの表面を二分割してそれぞれの面を作って食べていました。
お弁当のおかずの味が混ざるのが嫌。
コロッケのソースとキャベツのドレッシングが混ざるのが嫌。
ご飯に納豆をかけるのも、白いご飯を汚すようで嫌だった時期があります(お茶漬けや味噌汁をご飯にかけるのは好きだったくせに)。
今となっては、混ざってしまうお弁当の味には郷愁すら感じるし、いつのまにかその手のこだわりは薄くなりました。コロッケのつけあわせのキャベツには同じソースをかけます。
ほのかなしょっぱさと、優しい甘さ。
一緒になるとむしろおいしく感じるなんて、味覚が繊細になったといえるのか、逆に何かが鈍くなったのか。
おおげさかもしれませんが、許容できることの幅が増え、混ざり合う味のハーモニーを楽しめるようになったのだとすれば、良い変化と言えるのではないでしょうか。
開いた短編は悲しくも美しい静かなお話で、トーストの香りとともに忘れられないものになりそうです。
画材費、展示運営費、また様々な企画に役立てられたらと思っています。ご協力いただける方、ぜひサポートをお願いいたします。