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千の丘の国〜ルワンダに興味を持ったきっかけ〜

少し前に、タンザニアとケニアを訪れた時の事を書きました。

その後、同じ東アフリカのルワンダを2度訪れました。
サムネ写真の通り、山や丘が連なっている国なので、千の丘の国とも呼ばれています。
何故ルワンダだったのか、そしてどうして私はルワンダと言う国に興味を持ったのかなどを書いてみようと思います。


タンザニアとケニアから帰ってきてからのこと

アフリカの為に何かしたい!

何かしたい!と思っても、まだまだ何も知らない私…
どんなことでも良いから、アフリカについてもっと知らなければと思い、アフリカ関連のイベントを調べました。
そしたらこの年は、ルワンダで起きたジェノサイドからちょうど20年の節目の年だったので、ジェノサイド関連のイベントがありました。
とりあえずそこへ行ってみようと、その年の5月に開催された『アフリカ映画祭』へ行く事にしました。

アフリカ映画祭【映画が伝えるルワンダ虐殺】

アフリカ映画祭のタイトルの通り、主に映画の上映でした。
そこでは3日間で合計4本が上映されました。

ラインナップ
1.ルワンダの涙
2.イセター道路封鎖の背後でー
3.故郷
4.4月の残像

そして、その3日間の上映後にはトークイベントが2日間、Q&Aと言って駐日ルワンダ大使を招いて質問コーナーがありました。
トークイベントには、首都大学の教授で先日襲撃された宮台さんも登壇されてました。(私が行ってなかった日でしたが…)


ルワンダ大虐殺とは

全く知らなかったジェノサイド

私はこの映画祭へ行くまで、ルワンダ大虐殺(ジェノサイド)の事を99%知りませんでした。
ホテルルワンダと言う映画のタイトルだけ知っていて(地上波で放送された時か何かで一瞬見たことがあったけど、あまりの悲惨さに3分も見ていられなかった記憶)、だけどその映画が何の映画なのかも知らずでした。

ところが、突然この映画祭で真相を知り、一気に興味が湧きました。

異常な事態に唖然

簡単に言ってしまうと、ルワンダにはツチ・フツさらに少数のトゥワ(ピグミーと言った方がわかりやすいかな?)と言う3つの民族が住んでいました。
ツチとフツは隣同士で普通に生活していたにも関わらず、ある日のある事件がきっかけとなり、フツがツチを殺し始めたのです。
そのきっかけと言うのは、当時ルワンダの大統領であったハビャリマナ大統領とブルンジのンタリャミラ大統領の搭乗していた飛行機が撃墜され、暗殺された事でした。

その事件をきっかけに、フツはツチを殺し始めたのです。
民間人による民間人の虐殺、突然隣人がナタを持って殺しに来ると言う、我々には全く理解が出来ない事態になったのです。

結局、100日間で100万人が殺されたのではないかと言われています。


色々な情報をまとめてみると

色んな情報をすっ飛ばしてまとめるのですが、全ての責任は先進国と呼ばれる国々にある事がわかりました。
ツチが被害者でフツが加害者ではなく、ルワンダが被害者で他国、特に先進国や国連が加害者だったのです。

アフリカ各国にはなかった民族とう括りを持ち込んだのは、植民地として統治していたベルギー。
そんな括りを持ち込まなければ、対立する要因は生まれなかったと言うことは変えられない事実です。

更に、ロメオ・ダレールが書いた『なぜ世界はルワンダを救えなかったのか』と言う本を読むと、はらわたが煮えくりかえりそうになります。
彼は、ジェノサイドが起こっていたまさにその時、国連PKO部隊の司令官(トップ)だった人です。
国連本部からのマンデート(指令)がないと動けないPKO部隊ですが、本部からは『PKO部隊に危害が加えられなければ手を出してはいけない』と…
フツたちはツチが標的なのでPKO部隊に手を出すわけがなく、ルワンダ国民同士が殺し合ってるのをただ見てるだけしか出来なかった人物です。
もちろん、毎日目の前で起こっている事態を逐一報告し、救いたいと動き回っていたにもかかわらず、見てるしか出来なかったと言う顛末がこの本には書かれています。

英語がネイティブな姪っ子に英語版をプレゼントで買いました

ルワンダと言う国に天然資源などがなく、救ったところで得がないと言う思惑があったのか、国連は全く動きませんでした。
そんな現場にいた彼は、任務を終えてからはPTSDになり、何度か自殺未遂をしたそうです。
日本語のタイトル【なぜ世界はルワンダを救えなかったのか】と言うのは大間違いです。
救えなかったのではなく、救わなかったのです。
この本の原題は【Shake hands with the devil】ですので、こちらの方が納得の行くタイトルです。


ジェノサイドから20年が経って…

他にもジェノサイドに関する書籍も読みました。
その中でも【隣人が殺害者に変わる時】という書籍は、3冊に分かれています。
加害者編・生存者たちの証言・和解への道の3冊なのですが、加害者側の異常な心理や生存者の過酷な毎日には、本当に心が揺さぶられました。
そして、最も衝撃的なのは、そんな彼らが今では仲良く暮らしていると言うのです。
隣人に家族を殺されて、その隣人が刑期を終えて戻って来ても仲良く暮らしている…しかも、今ではツチやフツなどの話題は御法度で、ジェノサイド自体の話が出来ない環境だそうです。

そんなの、仲良く暮らしてるように見せてるだけで、心の中には絶対に他人には言えない感情を持っているのは当たり前だと思います。
それでも、そのような素振りを見せずに暮らしているなんて、考えれば考えるほど異常な事だと思うのです。
そんな国にしてしまったのは、我々ルワンダ以外の、特に先進国と呼ばれている国々だと私は思っています。
だから放っておけないと思い始めたのが、ルワンダに興味を持ったきっかけでした。

とあるNGOで子供を支援しようかなと思った時も、検索条件でルワンダの子を選びました。
結局、その子供がきっかけで2回もルワンダに行く事になったのですが、私がジェノサイドから20年の節目の年にタンザニアとケニアへ行かなければ、今でもルワンダの事、ジェノサイドの事は知らないままだったのではないかと思います。

そんな、私とルワンダのきっかけを今日は書いてみました。
ちなみに、ジェノサイドを知るルワンダの人は口々に『ホテル ルワンダは事実とかけ離れてる。4月の残像が最も近い』と言ってました。
この映画は日本での版権をアフリカ映画祭が持っているのですが、今現在活動されておらず、残念ながら見られる機会が全くありません。
ただ、残虐な映画ではなく、心理的に追い詰められる内容の映画だったのが印象的でした。
もし、日本ではなく海外版で探して見たい場合には、原題は【Sometimes in April】です。

久しぶりにかなりの長文になりました。
長々とお読みいただき、ありがとうございます😊

アフリカ映画祭で登壇した駐日ルワンダ大使と通訳をしてくれた彼
通訳の日本語がとても流暢かつ日本人より完璧で惚れました❤️

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