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1994年 都内の高級住宅街にて

雄大な山々や湖を描いた絵が飾られ、上品な香りが漂うリビングルーム。しかしその一角のテーブルには、部屋の優雅な雰囲気と対照的に、殺伐としたオーラを放ち、苛立ちを募らせる女性が座っていた。

「うるさいわね!」
夫人はそう吐き捨てるように呟き、窓の方へ目をやった。

オークセンマン! オークセンマン! オークセンマン! オークセンマン! オークセンマン! オークセンマン! オークセンマン! オークセンマン!......

窓の外から絶え間なく聞こえて来る異音に夫人は顔を歪める。

「全く、迷惑な隣人を持ったものね」

夫人は勢いよく窓を開けると、窓辺の植木鉢を手に取り、隣家のベランダに投げ入れた。陶器の砕ける音が響く。
異音は消え、辺りは静まり返った。

その時、隣家のベランダのドアがガラリと開き、中から男の顔がのぞいた。30代だろうか。

男は陶器の破片を踏みしめながらベランダに歩み出て、夫人の顔を見据えるとやや高めの声で言った。

「やってくれるじゃねえか おばさんよ!」

「おばさんだなんて失礼ねえ、人生まだまだこれからじゃないの」

「"夫人"の命は"不尽"だってのか?」

「あーた、私を誰だと思ってるの?この私に向かってそんなつまらない冗談を口にするなんて、失礼がすぎるわよ」

「知らねえなあ!近所で夫人、夫人と呼ばれていることだけは知ってるが、あだ名か何かなのか?」

「あーた本当に失礼ねえ。元インドネシア大統領の妻に向かって、その口の聞き方はないんじゃないかしら。あーたこそ何なのよ」

「インドネシア?あいにく知る由もなかったなあ。今の世の中では、俺の方が有名だぜ。なんてったって、20万枚を売り上げたあの名曲、2億4千万の瞳を世に送り出したんだからなあ!」
男はジャケットをヒラリとはためかせ、決めポーズを披露した。

しかし夫人は微塵も表情を動かさない。
「2億4千万の瞳?なんなのその曲。気味が悪いわねえ。目がびっしりじゃないの。

「ああ。日本の人口は1億2千万。その全ての目の数を足し合わせた数なんだ。」

「日本の全員が自分に夢中だと言いたいわけ?思い上がるのもいい加減にしなさいよあーた。」

「この曲の歌詞はそんな意味じゃないぜ!1億2千万人の多様な人々がひしめき合うこの日本という国で、素敵な出会いを見つけることのロマンを歌った曲なんだよ...
まあそんなこと言われても想像つかねえよなあ!やっぱり実際に聞いてみないとな!
𝑯𝒆𝒓𝒆 𝒘𝒆 𝒈𝒐! 」

どこからともなく音楽がかかり、ベランダの男は懐からマイクを取り出した。

「それじゃあ楽しんでくれ!」

見つめ合う視線のレイザー・ビームで
夜空に描く色とりどりの恋模様
この星の片隅2億の瞳が
素敵な事件を探してるのさ

気づけば、夫人の頬には大粒の涙がつたっていた。
まるで生きる喜びそのものを歌ったような曲だと夫人は感じた。心が洗われたような気がしていた。
しかし気のせいではなかったのだ。この時、男の歌に宿っていたエネルギーが、夫人の全身に一気になだれ込んでいたのだった。

まだ誰も、気づいていなかった。
この時夫人が、永遠の命を手に入れたことを......

夫人の命は、不尽となったのだ。

つづく

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