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Monica & Chong - live to tell【Chong】


・創作大賞2024
・ファンタジー小説部門




Monica & Chong - live to tell
 
- Monica - 地球の反対側で、聖なる母になりたくて
- Chong - 近くて遠い、眩しく映った島国で




- Chong -
近くて遠い、眩しく映った島国で



珍しくこの俺が酒に飲まれているのか・・・
《館内禁煙》の赤いサインが煌々と灯るその下で、
むさ苦しい男たちが、さも当たり前のように
モクモクと煙草を噴かしている。

グァ~グァ~と大いびきを響かせる者もいれば、
ズルズルズル~と下品な音を立てて
カップラーメンを啜る者もいる。

スクリーン狭しと言わんばかりに広がる
趣味の悪い映像に興味が沸くことは無いので、
後方の映写室と正面のスクリーンを空中で結ぶ光の軌道を、
下からボ~っとして見上げている。

映写機から前方へ一直線に放たれる光の軌道の中で、
煙草の煙と小さな埃たちが舞っている姿とは、
夜空に浮かぶ天の川みたく意外と美しいもんだなぁ~とか、

空気の汚れでしかない埃の群れも
見方次第ということかぁ~
などと他愛も無いことを考えつつ・・・

やがて、見えない敵との心の戦いで体内に蓄積された
ストレス性と思われる疲労のせいでウトウトして来て、
その後は座席で寝たり覚めたりの繰り返し・・・ 

結局は、これがずっと朝まで惰性で続いたらしいが、
ランさんの話だけは何故か鮮明に憶えている。



「どうせ短い人生なんだから、
人の何倍も楽しみたいでしょ? 

貴方に神から与えられた時間を、確実に、
人の二倍楽しむ方法を教えてあげるわ。

それは、貴方一人で、
男と女を両方演じることよ! 

人間、中身を変えるには、
まず外見から変えてみることよね!」


眼から鱗が落ちる、とはこんな感覚だろうか・・・ 
酔いと疲れも手伝ってか、
恐ろしいほど理に適った間違いの無い方法論だ! 
と傷ついた俺の心に、ストーン~と率直に響いて来た
この心地良いインスピレーションが
全ての始まりだった。

あの時、どうしてホモ映画劇場などに足を運んだのか?
それほど心が荒んでいたということか・・・ 

以前の俺だったら、あのような公序良俗に反する場所は、
人間のクズの吹き溜まりとしか見なさなかったが、

この島国で起きた色々な謂れ無き偏見との戦いに
すっかり疲れ切ってしまった俺は、
他に適当なハケ口を見出せなかったのだろう。

この小さな島国にとっては、地続きではないが
最も近い隣国の一つという位置付けになる俺の母国までは、
物理的には飛行機でたったの数時間という僅かな距離だ。

由緒正しき上流家庭に生まれ育った
俺の正式な身分は「一流大学の学生」様で、

国のお偉方の役人や大企業の幹部の大半は、
同じ大学の卒業生たちがさも当たり前のように占めている。

そして他の何事にもまして誇るべきは、
祖父の代から続く名門財閥一族の直系男子という
華麗なる血筋だろう。

繁栄著しいこの島国の旧世代にとっては、
歴史的に暗い因果を含む
半島の隣国から来た留学生とも映るだろうが、
前向きな気持ちを忘れずに頑張るつもりではいる。

理由は色々だが、
まずは立派なご先祖様と家族への感謝の気持ちからだろう。

貧しい家庭に生まれた同世代の若者たちは
大学進学どころではなく、
高校を卒業したら当たり前のように直に働き始めて
家計を助けなくてはならないのだから。

たとえ隣国とは言え「海外留学」など、
まさにエリート階級の優雅な特権だ! 

この一部の恵まれた家庭環境に生まれ育った幸運と誇りを考えれば、
多少の差別など我慢しなくては撥が当たるというものだろう。

最近になって、
詳しい経緯は不明ながら、我が同胞の俳優や女優たち、
また彼らが出演する映画やテレビドラマが
この島国で爆発的な人気を博しており、
何やら得体の知れない能天気なブームが生まれたおかげで、
両国の関係も若い世代の間では和やかムードになりつつある。

表面的には明るい兆しの訪れだ。

とは言え、暗黒の植民地時代に遡って因縁を含む隣国に
単身で乗り込んで来ているのだから、
我が身を取り囲む全ての物事が平穏無事に進むだろう
と考えるのは甘い!

しかしながら「期限付き留学」という
時間的制約の存在は大きい。

この閉鎖的な気質を拭えない島国で
永遠に暮さなければいけない定めなどは一切無くて、
男子国民の義務である兵役のための帰国と同時に
留学も終わりという「期限」があるから先が見える。

どうせ差別も偏見も兵役で帰国する時が来るまでさ~ 
兵役が終わればエリート街道まっしぐらの人生さ~ 

とお気楽に言える高貴な立場にある俺に比べて、
この島国にしっかりと根を下ろしている
我が半島の同胞たちは凄いと思う。

出生によってあらゆるチャンスが制限される社会環境下で
生まれてから今日までずっと過ごして来たのだから、
どれだけの鬱憤やストレスが蓄積されていることだろう・・・ 

それを思えば俺などは、本当に恵まれた星の下に生まれた
世の中に一握りしかいない羨まれるべき幸福者の一人だろう。

だけど、アキコは、
本当に可愛らしくていい娘だったな・・・ 

ご良家のお嬢様という華やかな背景も手伝ってか、
その存在の全てが眩しくキラキラと輝いて見えた。

旧世代の生き残りである御爺や御婆たちから、陰でヒソヒソと
第三国人とやらの蔑称で呼ばれたりすることもあるこの俺が
彼女と結ばれようとしていることは、単なる幸せ以上の、
何か特別な意味合いを持っているような気もした・・・

周囲の賢い大人たちからの
親身なアドバイスに耳を傾けた後、
お上品なお嬢様のお清らかお気持ちに
悪意なき劇的な変化が起きたことにも気付かずに

「こんな素敵な彼女となら国際結婚でもいいか~」

などと能天気でスウィートな想像を
日々膨らませていた。

かなりの近場とはいえ
異国の地で、世間のやや陰湿な荒波を潜り抜けて、
やっと手に入れたかに思えた
ストロベリーな輝きを突然失ったショックは、
やや大き過ぎたようだ。


「貴方じゃなくて、
貴方と同じ半島の人たちがダメなの。

みんな考え方が卑しくて、怒ると凄く怖いって・・・ 
パパが、貴方の国の人たちとは、
絶対に関わるなって言うの・・・ 

貴方の周りが怖いのよ! 
だから、貴方とは、もう会えない・・・ 
ごめんなさい」


この衝撃的な一件が起きてから、
俺は少しずつ道を踏み外しながら今日に至っている。

【君にとって一番の女性とはずっと友人のままでいろ】
【君にとって二番目の女性と結婚しろ】

これは我が一族の男性陣だけに、密かに、
本当に密かに伝わる祖父からの遺言。

直系男子にとっては事実上の家訓のような秘密の二行詩、
と言ったところ。

一族の女性陣、特に、
母や祖母には絶対に内緒の「取扱注意事項」で、
もちろん未来の俺の嫁に対しても「君は二番目の~」だとは
口が裂けても言えないだろう・・・

深い意味など考えたこともないが、必ず踏襲して子孫にも
男同士の会話として秘密裏に伝えていく義務がある。

アキコから振られた時は

「どうせ俺は
二番目以下の女としか結婚なんて出来やしないんだから、
わざわざ堅苦しい家訓として継承しなくても・・・」

と投げやりな心境だった。

別に、ホモ映画が観たくて劇場に入ったわけじゃない。

むしろ俺は極めてノーマルな嗜好の持ち主だ。
不衛生極まりない汚れた空気が充満するような悪環境の中で
悪趣味な映像など観せられても、決して愉快だとは思えない。

ただ、いかにも卑猥な雰囲気を醸し出す
奇抜な色彩の文字と絵からなる看板と、
かなり年季の入った凄みすら感じる建築物としての
劇場の萎びた外観はかなり印象的で・・・
 
無視して通り過ぎる方が賢明なのは分かっていながらも、
あのような場所に集う「人種」とは一体どんなものか? と、
ちょっと大袈裟かもしれないけど、
文化人類学的な興味が湧き出て来る。

この島国では、
俺は部外者で差別される側なんだ・・・ 

限り無く純粋培養に近い形で
計画的に近代化された単一民族国家の内部にも
差別が存在するとすれば、ここは見るからに、

本当は部外者ではないにも関わらず
運命の悪戯なのか、差別的な境遇に耐え忍んでいる
社会の底辺を構成する日陰の人種たちが訪れて来そうな場所だ。

単なる好奇心とは違う、深く重たい興味ながら、
そう簡単に入場券を買って堂々と入るわけにもいかない。

将来は政府の高官か大企業の幹部になる予定の俺にとっては、
あるまじき行為だから。

また、一族が尊敬して止まないご先祖様の霊が、
厳しい眼差しで後ろから俺を睨んでいるような気もするし・・・

心が平穏な状態であれば、
もう一人の冷静な俺がいて、絶対に入れない・・・

が、民族の歴史に由来する
差別や偏見と戦って苦しんで来たことで、
経験したこともない異質のストレスが
積もりに積もっているところへ、

結婚まで意識した眩しい彼女から振れたショックが重なって、
遂に、引鉄が引かれてしまった! 


ふと気が付けば、
萎びた劇場のボロ座席に腰を沈めてウトウトと舟を漕いでいる。

前方のスクリーンには目を被いたくなるような
趣味の悪い映像が写し出されている。

素っ裸になった若い色白の男二人が、ベッドの上で
貪るように激しく抱き合いながら濃厚なキスを重ね・・・ 

この下劣極まりないスクリーンを正視するのを避けるため、
ふと隣の席に眼をやると、

色っぽい目つきで誘うように俺を見つめる女装したオカマが、
音も無く座っているではないか!


・・・ それがランさんとの最初の遭遇だった。

「ここ初めてでしょ? 

初めはみんな、ちょっとした好奇心から
少しだけ覗いてみるだけのつもりなのよ~ 

でもそれが、
いつの間にかやめられなくなっちゃうのよね!」


いきなり見知らぬオカマが現れたかと思えば、
これまたいきなり俺の個人的な嗜好に関して、あたかも
何事かを勝手に決め付けられたような調子で話し掛けられて、
少しムッとしてしまった。

この馴れ馴れしいオカマ野郎は一体何なんだ?
何を一人で勝手に喋ってるんだ! 

この俺が、
国へ帰ればエリート階級に属する人間が、これからも
錆びれたホモ劇場なんかに通い詰めるとでも思っているのか!

同性愛なんて気持ち悪いだけで軽蔑の対象でしかないぞ!
忌々しくも妙な勘違いはしないで欲しいな!

でも、まあ、
ここに集まって来るような下等な奴等にどう思われようと、
俺の輝かしい経歴に何の傷が付くわけでもないし・・・ 
勝手に言わせておけばいいだろう。

しかしながら、
特異な場所の持つ特異な雰囲気というのは不思議なもので、
場の空気に飲み込まれてしまいそうでもある。

この如何わしい空気が充満する劇場では、
初対面の奇妙な相手から馴れ馴れしく話し掛けられて来る
という状況が実に自然の成り行きなのだ・・・ 

そうなると場を持たせるために
何か適当にでも応えなくてはいけないような気分になって来る。

こうして、
生まれて初めてオカマという特殊な人種に向けて発した第一声は


「女装なんて何が楽しくてやってるんだ? 
親が見たら泣くぞ! それに、
ご先祖様に対して恥ずかしくないのか?」


と・・・
まるで学生とは思えないほどガチガチの硬派なオヤジ系。

その後は、再び睡魔に襲われてウトウトして来たので
詳しい状況は良く思い出せないけど、
おそらくこのオカマは俺の舟漕ぎが止むのを隣で
じっと気長に待っていてくれたのだろう。

心地良い眠りから覚めてふと顔を上げた瞬間だった。
例の、心に響く話をしてくれたのは・・・


「女装は楽しいわよ! 
だって、一回限りの人生を二倍に楽しめるんだもの。

一人の人間が、男と女の両方を演じれば、
人生の奥深さも横の幅も二倍に膨らんでいくのよ!」


まさに、焼けクソとはこのことで、
浴びるように飲み続けたアルコールの影響で
かなり意識が朦朧としていた俺は、
人と違った人生を楽しむ「究極の方法論」を
何処かのお偉い大先生から特別に伝授されたような
得した気分に浸ってしまった・・・


「私の名前はランよ。
よろしくね! 

この薔薇色の世界に興味が湧いたら、
また、ここで会いましょう! 

人生、一度くらい羽目を外してみるのも、
結構よろしくてよ~」


そう言い残すと、ランさんは静かに席を立って、
映写室から一直線に放たれる天の川の真下を
ツカツカツカと歩いて行って、
劇場後方の暗がりへスッと消えてしまった。

絶対にのめり込まないぞ! 

万が一、間違って今流行りの奇病でも移されたら大変だし・・・ 
死んでもホモの仲間になんて入ってたまるか! 

そう心に誓ってはいたが、
おそらく場の空気に飲まれてしまったのだろう。

明らかにランさんと会うために
再び足を運んでいる。

見るからに公序良俗に反する匂いに包まれた
萎びたホモ劇場の周囲に、
友人や顔見知りなどが歩いてないかどうか
キョロキョロと念入りに確かめて、素早く館内へ飛び込んだ。

前回とほぼ同じ位置に座って暫くすると、期待通り
ランさんは光の軌道の下で俺を見つけて隣の席に座ってくれた。

「あら、この前会った貴方、
親が泣くんじゃなかったの? 
まあ、それは、親にバレたらの話よね。
要は、バレなきゃいいのよ!」


ここでこうして、
何人もの見知らぬ男性に馴れ馴れしく接して来ただけあって、
相手に上手く近付く「コミュニケーションの間」とやらを
弁えているらしく、

心の武装を素直に解除したくなるようなムードを
憎いほど実に自然に作り出してくれる・・・

感心させられたのは
気持ち悪いほどのお姉言葉に象徴されるような
オカマ特有の中性的でしなやかな物腰だけではない。


「貴方って、この国の人じゃないわね・・・ 

近くて遠いなんてよく言われてる、
最近若者の間で大人気の、
お隣の半島の国から来た人でしょ? 

ちょっと雰囲気が違うもの」


いきなり核心を突かれてしまった・・・ 
この島国とは人種的に同類なので
外見は似たり寄ったりだというのに・・・

父親も祖父もこの島国語には堪能で、
幼い頃から島国語を叩き込まれて育って来た。

そのせいか別れた彼女のアキコでさえ、出会ってから暫くの間は、
まさか俺が外国人だとは見破れなかった。

それなのに、どうしてこうも早く・・・ 
いとも簡単に、見破られてしまうのだろう?
まだ何も話してないのに・・・

「親が泣くなんて、今時、
この国の若者は絶対に言わないわよ。

おまけに、
ご先祖様に対して恥ずかしいだって? 

この国の若者にとって、
ご先祖様なんて、興味も関心も無いことよ。

そんなことを言うのは、
外国人かエイリアンだけよ!」


と、敢えて聞かれなくてもランさんは、
俺を外国人だと直ぐに判断できた理由を的確に説明してくれている。

挨拶程度に口に出してみただけで、
特に深い意味は無い言葉だったのに、
やはり俺の感性とこの島国の同世代の感性には、
歴然とした埋め難い隔たりがあるらしい・・・

ただ不思議と、ランさんに言われても嫌な気分じゃない。
おそらく、ランさんが、と言うよりも、
この場所がそういう場所なのだろう。

ホモ映画劇場など、
周囲から軽蔑され差別され尽くした社会のゴミが集う館で、
世間から隔離された特異な空間なのだから。

一般常識的な感覚が通用しない「圏外」に俺はいるんだ・・・


スクリーンでは小太りの冴えない中年男の汚い舌が、
まるでモデルかアイドルの卵ような美少年の
真っ白な細い身体を激しく舐め回している。

前席に仲良く並んで座っているホモのカップルは
さっきから、やけに身体を密着させて、
何やら妙に盛り上がっているなあ・・・ 

覗き込んで見ると、
二人ともズボンを脱いでいて、下半身は見事に丸出しだ! 

勃起したお互いのペニスを握り合って擦り合って
一緒にエクスタシーに達しようとしている・・・


この末期的な様相を呈する暗がりの中には、
普通人の感覚を周囲と共有できてこそ生まれる差別や偏見など、
入り込む余地すら無いということだろう。

恥や外聞を捨て去ってから久しく時が経過している連中には、
他者との違いなど認識されないから。

ランさんの本職は某有名私立大学の助教授!
で、実は、ちゃんと結婚もしている。

夫婦で暮す自宅とは別の小さなアパートに、
男から女に変装するための「衣装部屋」を借りている。

が、女装という「超」悪趣味のことは
奥様も既に気付いているそう!

話しによると、奥様も昔は同じ大学院の研究生で、
共に高度アカデミックな次元に向かって
日々研究に励んだ大変なインテリ才女らしい。

よく別居も離婚もしないで、
一緒にいられるものだな・・・ 

いくら何でも、自分の旦那がオカマなどという、
あまりにも品の無い事実は、

普通人なら間違い無く「衝撃の事実」であり、
女性として不快極まりないのではないか? 

奥様の複雑な心境は、察して余りあるというものだ。

などと言っておきながら、そう言う俺も、
ランさんからの熱心な指導の下で
女装の腕をメキメキと上げつつあるのだから・・・ 
こっちも複雑だ。


「やっぱり、いい男は作り甲斐があるわね~ 

料理と同じね。
素材がいいと、いいものが出来上がるわね~ 

今度は女性ホルモンを入れて、
少し胸を作ってみたらどう?」


・・・ まるで着せ替え人形で遊んでいるかのように、
ランさんはとても楽しそうに、少し物欲しそうに
眼を輝かせてルンルン気分。

有名大学助教授の顔も併せ持つ
ランさんのオカマとしての性的嗜好は
「カマレズ」と呼ばれるタイプに分類されるのだとか。

オカマの「カマ」とレズビアンの「レズ」を組み合わせて
「カマレズ」という珍妙な言葉が生まれたらしいが、
簡単に言えば、女装したオカマが好きなオカマのこと
なのだそうだ。

「貴方って、顔立ちが良くて化粧栄えがする上に、
スタイルも良くって、本当に女装が良く似合うわね~」


と図らずも誉められることが多いこの俺は、なんと、
ランさんにとっては涎が出るほど美味しそうな
性的行為の対象らしい・・・

もちろん俺は違う!

世の中には色々な新世界があることを、
身をもって教えてくれるランさんには
心から感謝しているけど、俺は極めて正常な嗜好の人間だから・・・ 

将来は国へ帰って
半島のエリート官僚か一流企業の幹部となる身だし・・・ 
嫁だって、それ相応の
由緒正しい家庭から迎えなくてはならない立場だから、

のめり込む気はないぞ! 

それに、もし運悪く、
最近猛威を奮っている新種の性病に感染でもしたら・・・
人生台無しだ! 

いや、それ以上に、
名門一族の恥曝しだ! 


同じ趣味を分かち合うランさんの友人は、
とある闇病院や地下診療所で密かに行われているらしい、
性転換手術の素晴らしさを初心者マークの俺に熱心に語ってくれる。


「もし貴方が、本気でこの薔薇色の世界を極めたくなって来たら、
その立派なペニスは邪魔になるわよ。

もし切り捨てたくなったら、遠慮無く声掛けてみてね! 
いいお医者さん紹介するからさ!」


もちろんそこまでする気はない。
しかしながら、ある程度は羽目を外してみたいと思う。

そう単純に
人生を縦も横も二倍に楽しめるものかどうかは分からないけど、
二人の自分を楽しむ程度までならいいだろう。
全ては兵役で帰国して終るのだから・・・ 

二年間の義務を終えて大企業か官庁に就職した後は、
もう半永久的に羽目を外すことなど出来なくなるわけだし・・・ 

原形への回帰が短期間で可能な程度に
多少の女性ホルモンを注入してみたり、
ド派手なカツラを被って厚化粧をしてみてり、
ミニスカートを履いてみたり・・・ くらいまではいいだろう。

そして暫くの間、
ランさんの衣裳部屋へ「通いの弟子」状態が続いた。

師匠からの熱心な指導の賜物で、
女装の基本はおおよそマスターしたので、
そろそろ俺は俺で自分専用の衣装部屋を借りることにしよう。

カマレズのランさんと二人きりで密室にいるという、
ある意味で危険な状態は避けるべきだろうし、

大学の学生寮には未だ世間擦れしてないこの国の地方出身者や、
他の国から奨学金制度などを利用してやって来た苦学生と思われる
真面目な留学生たちもいる。

まだ純朴な世界しか知らない子供のような彼らの前で、
女装などという馬鹿げた破廉恥行為は、
絶対に禁物だ!


こうして、ランからの独立と周囲への配慮から、
とあるボロアパートの一部屋を自分で借りることになった。

この眩しいほど豊かな島国においては、
恐ろしく時代から取り残された感じが漂う
異様に老朽化したアパート群の一室だけど、
前の住民の置き土産らしきボロテレビ付きだ。 

オンボロでも、走れば車。
映ればテレビだ!

行き付けの食堂で顔馴染になった同胞の知人に当たる
パチンコ店の社長が大家さんという関係になる。

パチンコ屋が儲かっているせいなのか、
同胞の誼なのかは知らないけど、
家賃は格安に負けてくれているし、
部屋の使い道にも一切干渉して来ない。

ボロアパート群の後方には、その近代的な景観や設備環境から
インテリジェンスビルなどと呼ばれる巨大な高層ビルが
幾つも聳え立っているが、この辺りは全くの別世界。

戦後初めて我が同胞でこの島国の国会議員になった先達が、
陰湿な民族差別を苦にして衝撃的な自殺を遂げた
と云われる某ホテルも
あの巨大ビル群の中にあるのだろうか・・・ 

豊かさの象徴である高層ビルの群れをここから眺めると、
まるで巨大な墓石の群れのように見えて来るのは、
周囲の荒んだ空気が背後の景色までも変質させているのか・・・

ホームレスの寝場所と思われる大き目のダンボールや、
ビールや酒の空き缶や残飯らしき生ものが、
辺り一面に散らかって異臭を放っている。

浮浪者が地面に投げ捨てられた短くなったタバコを発見すると
反射的に素早く跳び付く。
そして、さも嬉しそうな卑しい笑みを浮かべて
ポケットにしまい込む。


同じ敷地内に建つ隣のボロアパートには、
まず何日も風呂に入っていないだろうと思われる
薄汚い恰好の老女が二人で住んでいる。

いつも同じ恰好で、表情は生気を欠き、
働いている様子も無い不気味な老女二人組・・・ 

若い頃からレズ性交をやり過ぎて歯止めを掛けることが出来なくて、
遂に脳障害を起こした同性愛カップルの哀れな老後の姿なのか?

繁栄著しい近代国家の社会システムの「枠外」に追いやられた
無力な少数弱者たちの溜まり場では、
陰湿な差別も偏見も無い。

その代わりに、
将来の夢や希望も無い。

どちらが良いか? 
というような問題ではない。

要は、近代社会という枠組の内側と外側を、
自分の意志で行き来することが肝要なのだ。

そして、心身共に自由な今は、限られた時間の中で
「枠外」の景色の一構成員となることを楽しもう。

この島国の小奇麗な街並も電車の駅を中心に形成されている。

幾つもの路線が交わる主要な駅ビルは、
街の商業施設の中核的な役割を担い、
夜の繁華街は駅から離れて行けば行くほど、
如何わしい風俗関係の店が増えて来て、

さらに離れていくと、
如何わしさを通り越して完全に違法な闇商売が横行し始める。

その代表格とも言えるのが、
麻薬ブローカーと外国人ストリートガールたちだろう。


この国でも屈指の乗降客数を誇る巨大な駅ビルから数分歩くと、
この界隈に到着する。

「遊び、行きましょ~ 気持ちいいこと、してあげるわよ~」
「そんなに急いで、何処行くのよ~」


結局は、深夜この界隈で多数派を占める「ストリートガール」ならぬ
少数派の「ストリートオカマ」としてデビューを果たした。
デビューと言っては大袈裟過ぎるが・・・ 

大の男が一生懸命に化粧や女装をして・・・ 
本当に馬鹿げたお下劣な行為だけど、
それなりに上達すると楽しくなって来るし、

その成果を何かに利用してみたくなる衝動は大きくなるばかりで、
抑えることなど出来ようもなかった。

最初は好奇心でオカマクラブに勤めてみたものの・・・ 

最初に当たった店の常連客のスケベで失礼な態度に
ついカッとなってしまって、
口論から大喧嘩に発展して、挙句の果てには
客に手を上げてしまう始末で・・・ 

初日で直に、怒り心頭状態の店長から
「クビ!」を言い渡されてしまった。

クラブなどで誰かに雇われる身となれば、
たまに性に合わない嫌なことをされても言われても、
ぐっと我慢しなくてはならない時があるのは当たり前のこと。

それに比べるとストリートは自由だ! 
もちろん、自由の代償として
無限大の危険が伴うことは承知の上で・・・

ヤクザにショバ代さえちゃんと払えば
仕事のやり方は完璧な自由裁量。

だが、元々、この島国の男たちに対して性的サービスを提供する
闇の肉体労働など鼻っからやる気は無い。

そもそもホモセクシャルの嗜好など一切持ち合わせない
極めてノーマルで高貴な育ちの俺に対して「ペニスを咥えろ!」
と言っても土台無理な話。

時が経ったとは言え、昔、
この島国の軍隊が俺の国で犯した蛮行の数々に対しては、
敬愛するご先祖様が語り尽くせないほどの怒りと憎しみを抱いている。

そのご先祖様の恨みを晴らすのは、
子孫である俺に課せられた真っ当な義務ではないか!

ショバ代を払って暴れまくってやるんだ。
ご先祖様の敵討ちだ!

「お兄さ~ん、遊び、行きましょうよ~」
「たっぷり、いいことしましょ~」

この無防備なサラリーマン風の男なら、簡単に騙せるな・・・ 

いかにも同僚たちと酒を飲み過ぎた後の帰り道らしく、
フラフラと頼り無い千鳥足で目つきも完全に据っている。

何も知らない獲物がスイスイと網に引っ掛かるかのごとく、
セクシーな女装姿の俺から色っぽい声で話し掛けられて、
すっかりその気になっている。

この男の頭の中は、ストリートガールを買って
目の前のラブホテルで一発やることで一杯だ・・・ 

師匠となるランさん仕込みの
厚化粧に茶髪でロングのカツラを被った俺を、
本物の女だと信じ込んで疑う余地など一切無い様子。

いいカモだな・・・ 
これからホテルで腰を抜かすほど驚かせてやるからな! 

もう直ぐ俺の妖艶な態度が急変して、
密室の中で強暴に暴れ出すことも知らずに、のん気なものだ・・・ 

女性ホルモンの働きで
いい形に膨らんだ俺の胸にずっと目が釘付けだし、
ホテルのエレベーターの中で二人きりになると
早くも下半身の興奮を抑えきれないらしく、

俺の尻を女の尻だと思って
ミニスカートの上から執拗に撫で回して来やがる。

部屋に入って金を貰ってドアをロックしたら、
後はもう、野となれ山となれ! 

いきなり強引に客をベッドに押し倒して、手を取って
俺の立派なペニスを無理やりグッと掴ませてやる。

ここで初めて、ストリートガールのはずが、
実は「ガール」ではなかったことを悟らされるのだ。

ついさっきまで女を買って一発抜くことしか頭に無かった
哀れな酔っ払いオヤジの身体中の神経系統に極度の衝撃が走る! 

この瞬間の客の青ざめた表情がたまらない・・・ 
とにかく、快感だ!

そして酔いも醒め、ただオロオロと動揺しているだけの相手を、
さらなる追い討ちをかけるかのごとく脅すために、
ドスの効いた太い声で怒鳴りつけてやる。


「テメエー ふざけんじゃねーぞ! 
何だよ、その嫌そうな顔はー 
男のキンタマしゃぶりが好きなんだろ! 
だからこの俺を買ったんだろーがー」


これで大抵の客は腰を抜かして慌ててホテルの部屋から逃げて行くので、
別に金銭目的の商売行為のつもりはないが、
結果的には労せずして儲けることになってしまう。

これはあくまでお遊びなんだ。

我が一族が敬愛するご先祖様の敵討ち、
という大義名分も確かにあるが、
お遊びや悪ふざけで異国の警察に捕まって、
輝かしい将来を棒に振るほど、俺は馬鹿じゃない。 

だから、俺を買いたい奴なら誰でも、というわけにはいかない。

服装や雰囲気で総合的に判断するしかないが、
悪戯を仕掛けても安心なタイプしか相手にしない。

どういうタイプがカモか? 
と聞かれても一概には言えない。

まずは、地味な感じの背広を着ている
真面目そうなサラリーマン風の男だろう。

外見から判断して、
いかにも自己主張の強そうなタイプやアウトロー系は避けておく。

次に、俺よりも背が低くて体重も軽そうで
全体的に弱々しいオヤジ風だろう。

中には身体は小さくても実は空手の達人というような
例外もいるかもしれないけど・・・ 

ホテルの部屋で取っ組み合いの喧嘩になっても、
楽に勝てる相手でなくてはいけない。

最大のポイントは、実は外見ではなくて、
世間体という枠組みの内側にいるか外側にいるかだ。

警察沙汰とは、世間体を恐れる連中が最も嫌うこと・・・ 

ラブホテルで奇抜なオカマと取っ組み合いの喧嘩を演じた
などという破廉恥は、世間の恥曝しに他ならない。

世間体の中にいる奴らは安心だ! 

あってはならない事実を、自ら名乗り出て
国家警察の公的な記録に残すような間抜け野郎はいないから、

俺からどんな悲惨な被害にあっても、
まず泣き寝入りする方を選ぶ。

ところで、
夜な夜なこんな悪戯を繰り返している俺は、
単なる悪者だろうか? 

いや、
これはご先祖様を辱めた
この島国の男たちへの裁きなのだ!

暗黒の植民地時代には我が同胞固有の民族性を完全に否定し、
この島国固有の言語や習慣を無理やり押し付け、

他で戦争が始まれば
植民地の人間をまるで奴隷か家畜のように狩り出して
酷使し尽くした悪行への天罰が、
時空を越えて、今、下っているんだ!

まだ純情な若い娘たちを強制的に慰安婦として働かせた、
野蛮な軍人たちの血を受け継いでいるのが、
今の時代に生きているこの島国の男たち。

そんな血の汚い奴らを
玩具代わりにして遊んでいるだけのことだし、
大袈裟に言えば、世代を超えた因果応報だ。

どうせ期限付きの若気の至り。
徹底的にやってやろうじゃないか!

この界隈は外国人の金髪ストリートガールが多いことでも知られている。
裏にはかなり深刻な事情があるけど、みんなこの界隈で健気に働いている。

ただ最近は世にも恐ろしい奇病が流行っているせいか、
彼女たちはまるで汚い病原菌扱いだ。

金髪ガールたちの多くは、この国から見て
地球のほぼ反対側に位置する国から業者の斡旋で遥々やって来ているが、

今は不法滞在者なので、彼女たちの行動は常に制約に縛られている。

確かに、何時の時代の何処の国においても、この種の行為は
後ろめたいムードに支配されがちだけど、彼女たちは
後ろめたい動機でストリートの仕事を選んだわけではない。

愛する親兄弟を養うために、
自らの全てを犠牲にして身を粉にして金を稼いでいる!

これが悪なのだろうか・・・

法律に照らした行為としては「悪」の塊かもしれないが、
極めて純粋なる「善」が動機となって弱者を前向きに奮い立たせている点は
決して見逃してはいけないだろう。

かと言って、この近代社会において、善悪の判断を全て、
その人間が図らずも置かれたバックグランドや
動機に求めることも出来ない・・・
 
ただ、その自己犠牲の精神だけは尊いものなのではないか、
とは強く思う。

少なくとも、この豊かな島国を我が物顔で跋扈している
無知なお嬢様たちよりは立派じゃないだろうか? 

親の金と自分の時間を浪費しているだけの彼女たちに
「ストリートガールたちの自己犠牲の精神を見習え!」
と語り掛けるのは無謀な試みだろうか。

最近の俺は、この島国の無邪気なお嬢様たちを見ていると
無性に腹が立って来る。

もちろん、
あの可愛い可愛いアキコちゃんから振られたことが
直接の原因だろう。

この界隈もそれなりにグループが形成されていて、
ごく少数派ながら「オカマ地区」もちゃんとある。

外国人ストリートガールたちは、
人種と出身地によって大きくグループ化されていき、
やはり、同じ言語を話す者同士が仲良く群れる傾向にある。

ほとんどの外人娘たちは、
悪徳業者の陰の斡旋で入国してから初めの仕事までは順調に進むが、
世間知らずの彼女たちは豊かな国の誘惑や罠に全く免疫が無い。

自ら崩れ落ちて来た弱い娘もいれば、
誰かに意図的に人生を狂わされた娘もいる・・・ 

悔しい思いや情けない思いを抱えながら、
最後の選択肢を共有する仲間たちと一緒に熱く必死に生きている。

そう言う俺も同じように、
同胞たちと語る時はつい熱くなってしまうけど、

この心休まるひと時がなければ、
今頃は極度のストレスに押し潰されていたことだろう。

とは言え、
俺を含めてエリート留学生である「南の同胞」たちは
まだ恵まれている。

この閉鎖的な空気の漂う小さな島国で民族学校に通う
「北の同胞」たちに比べれば、まだまだ甘い。

彼らは生まれてから今日まで、ずっと、差別の視線を
放水のごとく浴びながらも逞しく生き抜いて来たのだから。

ただ、彼ら「民族派」の数は減少傾向にはある。

民族学校の制服を着て電車やバスに乗るという行為は、
この島国の歴史の証人であるはずの御爺や御婆たちから
第三国人という蔑称で罵られかねない属性をわざわざ曝け出す
危険な行為でもあるのだから。

どうぞ私たちを色眼鏡で見て下さいませ! 
と語り掛けているようなものだ・・・

我が同胞が民族衣装を身に纏って民族学校に通わなくてはならない
という法令や義務は無い。
そもそも正直に民族名を名乗らなくてはいけない
という規則すら無いのだから。

暗黒の植民地時代を第一世代とすれば、
おおよそ俺たちは第四世代くらいに属するのだろう。

最近の我が同胞内における傾向として
「同化派」や「帰化派」が主流となっているのは、
人間がより快適に生きていく為の時代への適応ということで
何の違和感も無い。

何かの縁があってこの島国で生まれた人間が、
島国名を名乗って島国語を話して島国社会の市民権を持って
幸せな生活を営んでいきたいと思うのは自然の理で、
むしろそうしない方がおかしいくらいだ。

かと言って
「民族派」は彼らの自由意思で民族や祖国に拘っているだけ! 
などと簡単に言い放つわけにもいかない。

一族には一族に固有の歴史があるわけだから・・・

半島一族の歴史を担う一員として、
半島名を名乗って半島語を学んで島国社会への同化を避ける
不便な生き方を余儀無くされているシリアスな面もあるのだから、
軽弾みな言動は許されない。

最も考慮すべきは、
彼らが受ける陰険な差別や蔑みは「出口」の見える俺たちとは違って
「無期限」であるという点だ。

民族学校に通う同胞たちと
不法滞在のストリートガールたち。 
どちらがより悲劇的な存在なのだろう? 

両者を同じ土俵で単純に比較できるはずもないか・・・ 

いつもこんな
正しい一つの答えにはまず辿り着かないようなことを
自問自答しながら、今晩のカモを探している。

あの金髪の彼女は、休憩中なのかなぁ~

まあ、客が釣れなくて、
一晩中ずっとストリートに立っているのも、
それだけでも結構疲れるからな・・・ 

でも、
どうして他の金髪ガールたちと一緒にいないのかな? 
ここは少数派のオカマ地区だぞ・・・ 

もしかして、新入りか? 
と言う前に、
彼女の服装は明らかに客引きの商売用ではない! 

それどころか、まるで夜中に火災でも起きて、
慌てて家の外に逃げ出して来た人みたく
部屋着か寝間着の有り合わせみたいで・・・ 

まさに着の身着のままとでも言った方が相応しいほどの、
何らかの緊急事態を連想させるような恰好だ。

さっきからずっと地面にぐったりと座り込んだまま
一向に動き出す気配が無いので、少し様子を見てみようか・・・

これはひどい! 
のん気な休憩中どころの話じゃなかった・・・ 

極度の疲労で衰弱し切って地面に倒れ込んでいたのだ。

『誰カ、助ケテ』と微かに虫の鳴くような小さな声で、
彼女の唇が、無意識にそう発したように聞こえた。

ちょうど街灯の下だったので・・・ 
何という痛々しい生傷だろう・・・ 

彼女の腕や脚や首筋など身体のいたる所に、
ムチか棒で打たれたような傷や、
縄かロープで強く縛られたような痕跡が、
あまりにも痛々しくて・・・
気の毒だが、正視に堪えない。

最近この島国ではニュース番組を見る度に、
極度に屈折した精神が引き起こしたものとしか思えない
猟奇的な犯罪が数多く報道されていることを考えると、

現実にこのような状況に自分が遭遇したとしても、
飛び上がって驚くほどのことでもないのかもしれない。 

おそらく、この金髪娘も、
一種の性的な虐待を受け続けて来たのだろう。

この娘の意に反して起きた強制的に拘束された悪魔的な状態から、
運良く何とか脱出して、必死で逃げて来て、
この界隈に辿り着いたところで疲労が限界に達したのだろう。

このままでは死んでしまうかもしれない!

この島国の勤勉で知られる警察署に匿名で通報して
速やかに保護させるという手っ取り早い手段もあるにはあるが・・・ 

彼女は今、まず不法滞在中だろう。

この界隈の仲間であるストリートガールたちと同じように、
当初の目的や計画が大きく狂って陥った悲惨な姿なのだろう・・・ 

不法滞在中の彼女を、お堅い警察官様の手に委ねるのは、
何となく仲間を裏切るような気分だし、

今この俺が見捨てたら、このまま速やかに息絶えるか、
警察に保護されて自動的に逮捕か・・・

昔の俺だったら、
何の義理も無い他人の生死などどうでも良かったが、
今は、かけがえのない仲間が、
俺に向かって必死に助けを求めて来ているように思えてならない・・・ 

取り敢えずは
俺だけのささやかな城でもある衣裳部屋へ連れて行って、
そこで彼女の体力が回復するのを待ちながら様子を看ていこう。


モニカとの出会いは、
ストリートオカマとしての気紛れな仲間意識と
人助けの精神からもたらされた奇遇だった。

おそらく何かが狂って
図らずも陥ってしまった地獄のような境遇だったに違いない。

千載一遇で巡って来た「脱出」のチャンスに
全精力と体力を投入して「敵」のいる場所から
ただ遠くに離れることだけを本能的に意識しつつ、
着の身着のまま必死で逃げ出して来たのだろう・・・ 

汗と埃で下着も身体もドロドロだ。

まずは水で濡らして軽く絞ったタオルで
目立つ処から汚れを拭き取ろう。

次に乾いたタオルで全身を綺麗に拭いてあげてから、
下着も清潔なものに取り替えてやらないと、
このままでは汗臭くて健やかには眠れないだろう・・・ 

幸いなことに、男から女に変身するための衣裳部屋には、
色や柄はやや奇抜かもしれないけど、
一時的に彼女が着替えるために利用できそうな
シャツやジャージやスカートなどの衣服や
買うだけ買っておいて未使用の下着はたくさんある。

こりゃあ酷い!
部屋の明かりに照らされた彼女の白肌に浮き出た
生傷や血痕の数々の凄まじいこと・・・ 

太腿からその周辺を見ただけで
おそらく性器は何度も激しく犯されて
夥しい出血を繰り返して来たことが容易に想像できる。
とにかく、壮絶としか言いようがない・・・

どんな変質者に囲われて虐待されて来たのか知らないけど、
あまりにも酷すぎる。

異常な性的嗜好を持つ冷血な狂人に、
拘束され玩具扱いされて来たとしか考えられない。

運良く逃げ出すことが出来なかったら・・・ 
はたして今頃どうなっていたことか・・・ 

おそらく変質者の性的玩具として寿命を終えただろう。

そして彼女の死体は、不法投棄の対象となる危険ゴミのように、
何処かの山奥か樹海にでも人知れず埋められたことだろう。

異国の地で死んだ彼女を捜す者は誰もいない。
彼女が殺されたという事実は
永遠に闇に葬り去られたかもしれない。

運悪く不法滞在の身となった外国人など、本来は、
この島国の狭い国土に存在すること自体が許されない存在なのだから、
死のうが消えようが誰も関知しない・・・ 

変質者はこのような特殊事情を利用しようとしたのだろうか? 

たとえ彼女を殺したとしても、この島国では誰も関知しないという
非情で冷徹な悪魔の目論見を前提として、
したたかに完全犯罪を計画していたのだったら、
許せない奴だな!

乗りかかった船なのか情が移ったのか知らないが、
これも何かの縁だろう・・・ 

輝かしい繁栄の陰に潜む歪んだ
狂気の犠牲となった子羊でもある彼女は、
俺が暫く面倒を見てやろう! 

同郷の好しみならぬ
マイノリティーの好しみということだ。

カラフルな女装道具でごった返している我が衣裳部屋で、
衰弱し切った彼女を看病しながらウトウトと転寝もしながら
朝を迎えた・・・ 

と言っても、もう昼前か。

死んだように眠ったまま目を覚ます気配も無いし、
今日は学生寮に一旦戻って、
その後は大学で必須科目の講義に出なくてはいけないから、
暫くは一人で寝てもらおう。

とにかく、急いで奇抜な女装姿から
普通の男子学生の恰好へと変身しなくては、間に合わないぞ・・・ 

と少しばかり時間に押されて焦っているところへ・・・
思わぬ「珍客現る」の巻だ!


「いつも主人がお世話になります!」

衣装部屋のドアを開けると、
いきなり知らない女性が俺の前に一礼して来る。

グレーのスーツに黒のローヒール。
髪型はストレートで長さはちょうど肩まで。

このボロアパート付近を一人で訪れるには不似合いなほど
超まともな恰好だ。


「突然押しかけてしまって、申し訳ありません。
実は、主人のことで、折り入って
ご相談したいことがありまして、
ご迷惑を承知で伺わせて頂きました・・・」


こう礼儀正しく挨拶されたのでは、
全く知らない人でもそう粗末には扱えない。

しかしながら多くの社会問題を引き起こしている
過激な新興宗教の勧誘員にありがちな地味で真面目そうな
見知らぬ女性に対しては警戒も必要だ・・・ 

などと思いながら少し立ち話をしてみると、何と、
この女性のご主人とは、あのランさんだと分かった。

ランさんの奥様が一体この俺に何の用だろう?


「何とかして、
主人の女装趣味をやめさせたいのですが、
力を貸して頂けませんか? 

実は、今は主人にとって、
とても大切な時期なんです。

次の教授会の決定で、
助教授から教授に昇格できるかどうかの
瀬戸際なんです! 

ここで、もし、
女装などという外道な趣味が
大学側にバレるようなことがあれば、
彼は助教授のままで
一生が終わってしまうかもしれないんです。

勝手なお願いなのは
十分に承知しておりますが・・・」


いきなりそう切り出されても・・・ 
どう反応するべきか困ってしまう。 

本当に勝手なお願いだなぁ~ 
そもそも、どうして俺に、
こんな極めてプライベートな問題を頼みに来るのだろう?


「主人は、貴方のことが
好きで好きでたまらないんですよ。
女装した貴方と、
カマレズの関係を結びたいんです。

ですから、
その大好きな貴方から嫌われたら、
きっと良い刺激になると思うんです。

人間って、
好きな人から嫌われると、
そのショックで
何かが変わると思いませんか? 

女装なんて二度とやらない! 
と思えるくらいのショックを
与えてやって欲しいんです。

何とか、
お願い出来ませんでしょうか?」


人としてランさんのことは好きだが、
恋愛や性欲の対象には到底なり得ない。

いずれ避けて通れなくなる日が来るであろうことは
薄々と感じてはいたけど、
まさか奥様から、唐突に
このような申し出が来ようとは想像もしなかった。


「奥様からのご相談の内容は、
大体分かりました。

バタバタしててすいませんが、
今日はこれから
大学で必須科目の受講予定がありますので、

急ぎで失礼します。
また後日・・・」


取り敢えずは必要以上に忙しそうな素振りを見せて、
その場を足早に立ち去ろう。

時間に押されていることは事実だから・・・

精神モードの切り換えというのは重要だ。

これを体内にセットされた最新式のモード変換システムに
機動的にスイッチを入れるかのごとく上手く行うことが、
二人の自分を楽しむためのポイントだから。

男からオカマへのモード切り換え。
その逆方向への切り換え。

エリート留学生からストリートオカマへの切り換え。
その逆方向。

両極端な外面の変貌に合せて、
学生寮から大学に行く時は本来のエリート留学生に戻り、

女装してストリートに立つ時は
夢も希望も無い社会のゴミを心底演じるのだ。

全く次元の異なる二つの存在を俺一人で演じることは
確かに自分を豊かにしてくれる。

気紛れながらも、
ランさんの言葉に従って行動したことは正しかった。

それにしても、あの奥様も大した奥様だな・・・

いかにもお堅い書物に囲まれた
大学院の研究室で恋に落ちたカップルらしく、
インテリ同士の男女は、
常人には難解な会話を交わしながら特殊な愛を育んだのだろう。

お互いのどこに引かれて結婚したのか知らないけど、
正常とは言い難い・・・ 

まず、カマレズなんていう言葉を
どうして奥様が知っているのか? 

辞書にも百科事典にも載っていない、
オカマの世界でのみ通用する専門用語じゃないか! 

でもこれは、ランさんが、奥様に
全てを正直に打ち明けていることを証明している。

仲睦まじき夫婦の間に嘘や秘密が無いこと自体は大変結構だが、
ご主人に女装などという最低最悪な趣味があることが発覚したら、
普通はどうだろう? 

世間に対して恥ずかしいだけでなく、
家の中でも相手にすることにホトホト疲れて切ってしまい、

やがては呆れ果てた挙句に
別居か離婚を考えない方がおかしいのではないか?

それがこの奥様と来たら・・・ 
離婚を考えるどころか、

女装した男同士での
薔薇色のセックスを日夜夢見るご主人様の
出世の心配までしてあげているとは・・・ 

もう何がなんだか分からなくなって来る。

人間の脳というのは右側と左側で働きが異なるらしいが、
ランさんの奥様は左脳で恋をしている女性なのだろう。

みずみずしい感性や情緒を育む右脳ではなくて、
全てが左脳の世界なのだ・・・ 

論理的思考や数量計算を司ると言われる
左脳しか機能していない半人前の女性のように映る。

他者と自分との微妙な感覚のズレを認識するのは
右脳の持つ繊細な機能だから、

彼女が世間一般との感覚のズレに気付くことはとても難しいだろう。

どうせなら、これからも、
永久に奥様の右脳が人並に働かないことを祈る・・・ 

その方が幸せな人生を送れると思うから。

夕方まで続いた大学の必須科目の講義が終わり、
夜、再びモニカの様子を看るために
衣裳部屋のドアの前まで戻って来た。

部屋の中からボロテレビの音量が微かに零れ出て聞こえて来る・・・ 
彼女が眠りから醒めて起きていることは直ぐに分かった。


「どう、
身体の具合は?」

ドアを開けて衣裳部屋に入るや否や、
いきなり彼女に威勢良く声をかけてみる。

ここは、威勢良く、がポイントだ・・・

蒲団から出て部屋の壁にぐったりと寄りかかって、
テレビをボーっと眺めていた彼女が驚くことは分かっていたけど、
威勢が良くないと逆に怪しまれてしまうから・・・ 

何処の誰が見ても「この部屋の主は、この俺だ!」と
一瞬で分かるような明確な態度でなくてはいけないのだ。

なぜなら、彼女は全く何も知らないから・・・

衰弱して倒れ込んでいて眠っている間に
衣装部屋に運ばれて来たのだから、
彼女にとっては今の状態が、
夢なのか現実なのか分からないほど
不思議な展開に思えるはず。

家主として自分の衣装部屋に戻って来た俺が、
暗くて怪しい人物だったのでは、彼女を不安にさせるだろう。

彼女が不安に陥らないためには、
まず明るく元気に振舞うことだ。

その空元気が効を奏してなのか、
彼女も人見知りすることなど一切無く、
島国語を使って気軽に俺に話し掛けて来てくれた。


彼女はちょうど地球の裏側くらいに位置する貧しい国から
俺よりも何年も前に、悪徳業者の斡旋で
ハングリーな出稼ぎ労働者の一人としてこの島国へ入国している・・・ 

特に俺の方から聞いたわけではないが、
いつの間にかモニカの「身の上話」が始まっている。

開放的な国民性なのか肝が据っているのか、
過度に衝撃的で筆舌に尽し難いような性的虐待の生々しい事実も、

彼女は淡々と身振り手振りを交えて普通に話してくれる。

歳若くして結婚。
一児の母となる。
が、人生で最も幸福な時間は束の間の夢だった。

目の中に入れても痛くないほど可愛い一人息子カルロス。

天から授かったカルロスの父親で最愛の夫でもある伴侶を
突然の交通事故で失い、仕方なく幼い一人息子を連れて、
母親と弟と妹たちが暮らす実家へ戻ることに・・・

美人で働き者の母親は地方の大地主の妾。

正妻ではない日陰の存在である上に、
子供が大勢いるので生活は決して楽ではない。

そこへ出戻り娘となるモニカとカルロスの二人が加われば、
苦しい家計は益々圧迫されてしまう。

にも関わらず、失意のどん底にある彼女が、
再び現実に立ち向かうまでには少しばかり多目に時間が必要だった。

彼女の憧れは聖母エビータ。
多くの貧しい人々から親しみを込めてエバとも呼ばれている。

既に歴史上の重要人物でもあり、未来永劫に
女傑伝説として語り継がれるであろう
波乱万丈な人生を送った聖母様だ。

貧しい地方の妾の娘から
一国の大統領婦人にまで成り上がった強い女性・・・ 

旬の男を利用しては使い捨てにしながら
自分の社会的地位を上げていく逞しさには賛否両論あるところだろうが、
ずば抜けた才覚と勇気と女性の魅力なくしては成し得ないこと。


『エバニ、ナリタカッタ・・・』


モニカは言う。
幼い頃から敬愛して止まないエビータのように自分がなれれば、
愛する家族の環境も前向きなものに変わるだろうと考えて、

縁もゆかりも無い遠い異国への出発を決意! 

この場面を想像してみると、
いみじくも聖女エビータが田舎町を飛び出して
一人都会で成功する決意をした状況と見事に重なってしまう・・・
 

遥か地球の反対側で
眩しく輝く豊かな島国への渡航を斡旋する業者が
犯罪組織とも繋がる悪い奴らなのは承知の上で、

夢と野心を抱いて人生初の大博打に打って出たのだ。

この島国でモニカが斡旋された最初の仕事は
高級ショークラブのダンサー兼ホステス。

いわゆる金髪ヌードショーが売り物の有名なナイトクラブに
業者から斡旋されたのだ。

金髪マニアの金持ちなスケベ親父や
一夜限りの観光客などがターゲットの店だから、
ダンスやトークが素人並でも問題は無い。

若い外人女性の金髪や白い肌を間近に見るだけで興奮するマニア達に
華麗な踊りや機知に富む会話など必要ない・・・ 

髪の毛や肌や瞳の色という、
身体の特定部分において「お好みのパーツ」さえ備わっていれば、
それだけで大満足なのだ。

そのような屈折した好色マニア相手の店外デートは
かなり危険な行為だけど、

金銭的な見返りを考えれば危険を冒すだけの価値は十分にある。

ピカピカの高級車に乗せられて到着した
高級レストランでの優雅な食事や有名デパートでのショッピング・・・ 

貧しさとの戦いが日常だったモニカにとっては、
まるで夢のように心が浮き立つほど
キラキラと輝く黄金の時間だったことだろう。

店外デートの最終目的地は
高級ホテルか豪華マンションと決まっている。

そこでは閉ざされた密室で二人きりとなり・・・

何事もなく全てが上手くいった時は、
まるで危険な大博打に勝ったようなもの。

お人好しのスケベ親父から、
信じられないくらい多額のチップを貰えるのだから・・・ 

そして、何の根拠も無いというのに、
この次も万事上手くいくものと勝手に思い込んでしまって、
結局は、失敗して全てを失うまで博打を続けてしまうものらしい。

この島国で過ごした年月は、
異文化だったものを日常へと変えていくに十分だった。

慣れから来た気の緩みから、不本意にも
モニカが異国で味わった監禁状態は壮絶を超えるものだった。


『アノ男、許セナイ!』


無惨にも夢と希望を粉々に打ち砕いてくれた「アノ男」は、
彼女にとっては憎んでも憎みきれるものではないが、
最初はいかにも紳士的な雰囲気の常連客に思えたらしい。

それが、実は、紳士の仮面を被ったとんでもない
猟奇的とも言える犯罪行為を繰り返していた変質者だったのだ!

華やかな店外デートの回数を重ねる見返りとして、
拘束される時間は一晩から二晩へと長くなっていく。

プレイの内容もノーマルなものから
徐々にマニアックなものへと変貌していくけど、
見返りとして得られる報酬はあまりにも魅力的・・・ 

次第に
男が変態プレイを楽しむために借りた部屋に頻繁に通うようになり、
いつも麻薬注射を腕に打たれた後でペットとしての調教が始まり・・・ 

やがて、ついに、監禁されてしまったのだ。

せっかく捕まえた白い肌とブロンドの髪を備えた玩具が逃げないように、
両腕と両足に手錠と足枷が頑丈にはめられている。

両腕を後ろに回されて手錠をかけられて、
極度の苦痛がある段階を通り越すと、手錠と足枷が
まるで肉体の一部でもあるかのような感覚にまで陥って来るらしい。

床には飲み水の入った小さなバケツが置かれ、
食事は毎日出されるものの、

変態男が王様気分で放り投げるパンや菓子を
犬や猫のように口で拾って食べる日々。

そして拷問のような変態プレイ・・・ 

両手両足をベッドの四方のパイブに固定した状態で、
彼女の性器にローソクを差し込んで火を灯す。

時間が経つに連れてローソクはジリジリと短くなり、
かなりの高熱が彼女のデリケートな部分に向かって
一直線に容赦無く迫って来るが、

いつもギリギリのところで火はフッと吹き消される。

もう少しで大火傷を負うほどの激痛を性器の周辺に受けるモニカは
たまらず叫び声を上げてしまう。

その泣き叫ぶ彼女の傍らで
男のオナニーは悲鳴の激化と共に頂点に達する。


異常に歪んでいる・・・ 
僅かな人間性の欠片も感じられない。

自らの屈折し切った性的快楽を実現する玩具として
精力の続く限り弄んで、もしも彼女が死んだら、
ゴミ屑のようにポイッと捨てるつもりだったのか? 

それとも五体をバラバラにして、
人里離れた山や林にでも分散して捨てる計画だったのか?

この島国の人間の中に、
親身になって彼女を真剣に探す者がいないことは
十分に計算の上だろう・・・ 

モニカのような完璧な弱者が相手であれば、
完全犯罪の成功は不可能ではないから。

「アノ男」の左脳がどこまで計算していたかは知らないけど、
これだけ冷酷で残忍な変質者の発想に際限は無いだろう。

プレイ中にうっかり殺してしまった外人女性も、
既に何人かいるのでは? 

そして、殺した後は、
あたかも危険ゴミを念入りに証拠隠滅して
不法に投棄するかのような感覚で
秘密裏に始末したのではないだろうか? 

そんな気がしてならない・・・ 

まあ、とにかく、モニカは無事に、
取り敢えずは五体満足と言える状態で、
何とか逃げ出すことが出来て本当に良かった。

『カルロス、ママ、弟ヤ妹、
ミンナ待ッテルカラ、
ココデ死ヌコト、デキナイヨ!』 

モニカは監禁生活の間じゅう故郷で暮らす家族のことを想い続けて
必死で生き延びる方法を模索していた。

かけがえのない愛する者たちが
「妾の家庭」という陰が付き纏う存在として一生終わるか、
独り立ちした立派な家庭に変わっていくのか、
全ては自分の頑張り次第だと強く言い聞かせながら、

どんな暴行や虐待を受けても
自分で自分を奮い立たせて最後の望みを捨てなかった。
本当に良く頑張ったと思う。

それに引き換え、
この島国のお嬢様たちの能天気なお気楽さと来たら・・・ 

この地球という星は自分を中心に回っている、
とでも思っているのだろうか? 

物事を浅くしか考えないことと、
楽しく考えることを取り違えているのか?

聖母エビータに憧れて、その一心だけで
無謀にも貧しい国からやって来た無学な妾の娘の方が、

豊かな島国で高度な教育環境に恵まれて育っている
ご良家のお嬢様よりもはるかに立派だ。

お嬢様たちが逆立ちしても届かないような
芯の強さと美しさを兼ね備えているように思える。

これまでアキコに対して抱いて来た強い思いとは、
一体何だったのか? 

彼女に振られた時、
どうしてあんなに悔しくて情けない思いをしたのだろうか?

確かに、ずっと手に入れたかったものを
一瞬掴んだような気にはなっていたけど、

実は俺にとって彼女は、
大切な存在でも何でもなかったんじゃないだろうか? 

異国の生活で見えざる陰湿な敵との戦いが始まってから
疲れ切った心の隙間に、間違った憧れが住み着いてしまって、
それが大きく成長していた、ということなのか・・・ 

とにかくアキコとは、俺にとって、
間違った何かだったのだ。

それにしても・・・ 
厄介なことになって来たな・・・

アキコという
本来は不要であるにも関わらず大きな割合を占めていた何かを
己の心の中から排除できたのは良かったものの、
別の厄介な感情が生まれて来つつある。

その新たなややこしい感情の対象がモニカであることは言うまでも無い。

間違って信じて来た不要物をすっきりと排除できた反動で生まれた
一時のカウンター的な感情かもしれないけど、
彼女に対する好意は日に日に大きく膨らんで来ている。

一言で「好意」と言おうにも意味合いというものがある。

ただ単に、新しい仲間の一人として、
人として、いい奴だから好きなのか? 

それとも俺という
単なる「一人の男」から見た「一人の女」
として好きなのか?

かなり複雑ながら、正しい答えは後者の方らしい・・・ 
どうして複雑なのか? 

それはきっと、物事が予定外の展開を見せているからだろう。

普通なら喜ばしいことであっても、
尊敬すべきご先祖様から脈々と受け継いで来ているはずの
品性の高潔さという観点からは、素直に喜べない非常に厄介な事態だ。

なぜなら、
モニカにとって俺は「命の恩人」だから・・・ 

この「恩人」という優位な立場が
二人の純粋な関係に影響することが嫌だ! 

もともと気紛れで助けたようなもので、
悩める少数弱者として共感できる「いい仲間」が
また一人増えればそれで良かったわけで、
彼女に恩義を売るつもりなど一切無い。

だから一生懸命ながらも無感情に、
彼女が身に纏っていた
洋服とは言えないような有り合わせの衣類を脱がせて、
酷く汚れた身体をタオルで拭いてあげて、
図らずも女性にとって一番恥ずかしい部分も見てしまっている。

彼女は極度の疲労で昏睡状態だったし、
あくまで人助けの善意から発した行為であって、
まさか後々になって、
恋心の対象となり得る相手だとは想像もしなかった・・・ 

だからこそ看護婦さんみたく事務的に速やかに、
寝ている間に汚れた衣類を脱がせて汗や埃を拭き取ってあげて、
清潔な新しいシャツと下着に交換してあげたり出来たのだ。

もちろんモニカの方も、
身に付けている下着が変わっていることくらい
直ぐに気付くだろうし、

誰かが
身体を綺麗に拭いて寝かせてくれたことくらい分かるはず・・・ 

衣裳部屋の「家主」以外の誰が
それを成し得るのか!

だからと言って文句を言えるような筋合いでもないだろう。

あのまま路上に放置していたら、
哀れな身元不明の不良外人として
野垂れ死にしていたかもしれないのだから。

誰でも自分を助けてくれた恩人に対しては、
文句や不満など言い出し難いもの・・・ 

それがとても嫌だ!

衰弱した金髪ガールが
何となく気の毒に思えて助けてやっただけのことが、
今、これまでには経験したこともない
胸の奥からの締付けと熱さと戸惑いを感じている。

馬鹿げた話かもしれないけど真面目に考えた末に、
俺は「演技」をすることに決めた。

性格演技とか人格演技などと言われる特殊な演技だ。
その言動にまで奇抜なメークを施した道化師に成り切るのだ。 

モニカの前では、本来の俺を隠して
全く別の楽しいキャラクターを演じよう! 

人の話には聞く耳を持たないで、やたら元気に、
やたら一方的に喋り捲る「変な奴」を基本路線として、
時にはただ煩いだけの「精力絶倫野郎」にも映るよう振舞おう。

世の中の大半を占める普通の人々のように、
上手く双方が噛み合うコミュニケーションが出来ない、
でも、楽しく付き合える「変なオカマ君」を演じるのだ。

でも、違うのは「表面」だけにしたい。
彼女に対して嘘をつくようなことは絶対にしないつもりだ・・・ 

話を伝える媒体となるキャラクターは
意識的に奇抜なものを作っても、
俺が思うところの真実や意思を、
遠回りながらも誠実に伝えることは可能だと思う。

本来の俺と同じ意見や思想や志向や主義や主張を、
俺が演じる別のコミカルな人格が語るだけのことだ。

雄大な大陸の中の一国家であるモニカの母国と、
この小さな島国国家は、地理的に見ると
地球という星のほぼ反対側同士に位置する。

一方は持たざる国で一方は豊かな国と、
社会環境面においても対極した部分が少なからずあるせいか、

彼女が生まれながらに備えている自然体で開放的な気質が、
この島国に数多く生息する無邪気なお嬢様たちと違うのは
当然なのかもしれない。

貧富の格差の激しい持たざる国の中でも日陰の住民である
「妾の娘」として生まれ育った彼女。

夫と死に別れ、
実家に一人息子カルロスを預けて来た「母親」である彼女。

愛する家族のために「出稼ぎ労働者」の道を選んだ彼女。 

いろんな顔を持つモニカがその時々に積み重ねて来た苦労を考えると、
アキコなど単なる軽薄な存在でしかない。

無知に起因する無邪気など軽薄以外の何ものでもない! 

ついでに言えば、
この島国の人々が抱く俺たち同胞に対する偏見も無知が原因だ。

正確には無知ではなく、
誤った情報を集団で共有している状態なのだが・・・ 

共有していると言うよりも、
共有させられている、と言った方が正しいだろう。

皆が偏見を持つことに対しては、
自分も同じ偏見を持っていないと無知だと思われてしまうし、

皆が差別するものは自分も差別しないと、
今度は逆に自分が差別されてしまう。

生まれながらに閉鎖的な環境に慣らされている人々は、
周囲と歩調が合っていないことを極度に恐れ嫌う習性を持つ。

単なる好意から恋心の対象へと変わりつつあるモニカとは、
この島国の一般大衆の目線で見れば、
ある一人の貧乏で無学な元ヌードダンサー兼ホステスの不良金髪女。

でも薄っぺらな無邪気さや陰湿な偏見の類は
一切持ち合わせていない!

彼女は俺たちだけでなく
北の同胞に対しても何の拒否反応も違和感も示さない。

それは単に、彼女が受けた
教育水準の問題である可能性は否定できないけど、

間違った情報を盲目的に信じ込まされている哀れな人々よりも
遥かに健全だ!

新世代を中心に我が半島スターのブームは続いている。

これもブームに乗り遅れたくないという
島国特有の集団心理が根底で強く働いていることは確かで、

文化交流という面では前向きな要素もあるだろうが、
基本的には意味不明の軽薄な現象だ。

要するに、好意も悪意も、無知と集団心理の賜物か・・・

図らずも心引かれる女性に対して、
男としての気持を打ち明けることが許されない
ジレンマが生まれてしまったけど、

既に演技を始めてしまっているので、
そう簡単には止められない。

彼女の眼に映る俺のキャラクターは、
本来の俺とはかけ離れているのだから。

結構辛いものだなぁ・・・ 

でも俺は彼女にとって、
命の恩人でもあり家主でもあるわけだから、
少しでも恩着せがましく映るような行為は
俺の品性が許さない。

相手に対して優位な立場を利用しているかのようにとれる行為は、
たとえ少しでも、絶対に嫌だ!

どうせ対等な立場にはなり得ないのなら、
むしろ「コミュニケーション不能」の方がまだマシだ。

いつも一方的に喋り捲る「変なオカマ野郎」を演じ続ければ、
通常の会話は無理だと判断するだろうし、
そんな俺に対してなら、繊細な気遣いなど不要だろう・・・ 

もう、このまま続けるしかない。
世の女性陣にとって「恋愛感情の対象外」と映る
コミカルな人格をずっと演じ続けよう。

厚化粧した道化師のように・・・

この島国の歴史教科書問題は放っておけない。

あの悪名高き植民地支配の暗黒時代に、
この島国の軍隊が俺の国で働いた卑劣な蛮行の数々を、
なんと、歴史の表舞台から消し去ろうとしているのだから、
許せるはずがない。

こんな半島の低俗な民族性など失ってしまえ! 

と謂わんばかりに言語も文化も習慣も奪われ、
筆舌に尽くし難い屈辱的な虐待を受けた
ご先祖様の立場は一体どうなる?

次なる侵略戦争に備えて
植民地として支配下にある人間を奴隷みたく狩り出して、
未だ純粋な若い娘たちを無理やり慰安婦として働かせた罪はどうなる! 

狂った他国の軍人から処女膜を破られた娘たちの、
その後の人生模様を考えたことがあるのか? 

それらの罪を償うどころか、大罪を犯した事実を
後世に伝えるべき公的な記録から抹消しようとしているではないか・・・

そして我が半島の植民地支配だけでは飽き足らず、
さらに内陸部に位置する他国へと侵略を進めていき、

あろうことか奴らは、そこに何千年と住み続ける誇り高き民族の
首や手や足を刀で切り落としたという話ではないか! 

一説には、新調した刀の切れ具合を試すために生身の人間を切った、
とも言われている。

刀の切れ具合を試すことが目的なら
野菜や草木でも用は足りるだろうに・・・ 

いくら戦時下とは言え、
何も、生きている人間の身体を切って試すことはないじゃないか!
狂い過ぎだ!

この国の若者たちはもっと狂っている。
彼らは、正しい歴史を学びたいとは思わないのか? 

本来であれば間違った史実を押し付けられる彼ら自身が発火点となって
怒りの輪を拡大させるべきところなのに・・・ 

大人しいだけが能じゃないだろ! 
たまには怒ってみろよ!

と、大体いつも
このような歴史的暗部のテーマを中心に
南の同胞たちと議論が白熱してしまう。

わざわざ狭苦しい衣裳部屋に集まって来て貰って、
さながら学生運動かディベートの練習みたいな様相だけど、

真の目的はモニカを安心させることにある。

もし家主のオカマさんが、
友達の一人もいない孤独な暗い変人だったら、
この衣裳部屋に居候すること自体がすごく不安になるだろうから・・・ 

そうでなくても
変人と思われても仕方ないキャラクターを演じているのだから、

たくさんの真面目な頼もしい仲間を見せて
彼女を安心させてあげるのが狙いだ。

口先を尖らせて、真剣な眼差しで、
額がぶつからんばかりに熱く議論する
俺たち同胞の姿には「民族派」と「同化派」を越えた誠実さが
滲み出ているはずだから。

ちなみに、この衣装部屋に集まってくれる半島の同胞も
本来はエリート留学生と言える立場で、
みんな俺と同じ「期限付き留学」という発想の持ち主だ。

ストリートオカマなどよりも遥かに奇抜で危険な行為に及ぶ者もいる。

期限が来るまで
繁栄著しい隣国に構築された近代社会システムの
「枠外」の景色の一員となることで、

社会の裏側に棲息するアウトローたちの活気から
精一杯何かを得ようと企んでいる骨のある仲間たちだ。

ところで、
男子国民の義務である兵役という強制システムは・・・

実を言えば、面倒臭い話だ! 

兵役を終えてないと学校を出ても就職で不利になるので仕方なく・・・ 
というのが大多数の感覚だろう。

わざと病気になったり怪我をしてみたりして
「兵役免除」を希望する者も少なくない。

軍隊での虐めに近い体罰行為が原因で、
自殺者が何人も出て来ているという衝撃的な事実もある。

事前に回避したいと思う気持ちは十分に理解できる。

しかしながら、
モニカのいる前では兵役を嫌がっている素振りは
一切見せないように口裏を合わせてもらっている。

弱々しい情け無い連中だと思われないように・・・ 

女一人で、縁も所縁も無い地球の裏側で
地面を這いつくばうように生きているモニカを安心させるため、

この部屋に集って来る同胞たちには、
彼女が何かの非常事態に直面した時などに頼り甲斐のある
「逞しい仲間たち」という理想像を演じてもらっている。

モニカが以前のように華やかな
高級外人ショークラブのダンサー兼ホステスの世界に復帰することは、
まず不可能だろう。

かと言って、
彼女を、俺がずっと養うということにも問題ありだ・・・ 

彼女自身にとっても、俺と彼女の関係に於いても、
モニカは非合法でも何でもいいから働かなくてはいけない。

・・・ 色々と悩んで思案した揚句、結局は、
ストリートガールしかないという結論に至ってしまったので、
俺がカモを探して立つストリートへ彼女を案内することにした。

違法な仕事に伴うリスクは無限大。
でも他に、真っ当な選択肢など有り得ない。

事を始めるに当たっては、チンピラにショバ代を払うだけ。
次にしなくてはいけないのは、
気心の知れた運命共同体となるべく仲間を紹介してやること。

ストリートの仕事は身体一つで成り立っているようで、
絶対に一人では出来ない仕事だから。

安易なイメージとは違って、一匹狼など有り得ないのだ。

ラブホテルは危険な密室状態・・・ 

密室で何が起きても、
弱い立場にあるのは不法滞在のストリートガールの方だから、
ホテルの外には必ず「見張り役」として
仲間数人に待機してもらわなくてはいけない。

意地の悪い客とのトラブルは仲間数人で対応しないとまず勝てないし、
とにかく、その存在自体が違法という弱い立場をカバー出来るのは
「数と勢い」しかないのだから。

夜のストリートで不法に働く仲間たち。
民族の歴史を共有する我が同胞たち。

どちらも俺にとってはかけがえのない大切な存在。

そして、
たくさんの素晴らしい仲間がいることを見せつけることによって
モニカを安心させたい。

変なオカマ野郎に助けられて、
仕方無く言われるがままにしている、ということのないように・・・ 

もし俺の世話になるのが嫌だったら、
遠慮は要らない。

この素晴らしい仲間たちに何でも相談してくれ。
自由に助けを求めてくれ!

それにしても・・・ 
自分が心から愛し尊敬の念すら抱いている大切な女性を、
夜のストリートで客引させるような男が何処にいるだろうか・・・

これは、
おそらく俺が「健全な関係」というものに拘っている結果として、
有るまじきことだとは分かっていても、
最終的にはこうなってしまうので致し方ないのか・・・

とにかく、まず、それが友情であれ恋愛であれ、
健全なものは自立した対等な関係性の中でのみ育まれるものだ
というスタート地点に拘りたい。

そう考えると、どうしても、
俺は心身共に道化師を演じて、
彼女はストリートで働くということになってしまう・・・

そうすることによってしか、
衣装部屋の「家主」様である俺に
何も持たざる「居候の身」である彼女が従属してしまう
という不健全な関係性を避ける方法は見当たらない・・・

   

ストリートオカマを始めてからも、
俺の留学生活は基本的には学業優先なので、

普段は多くの純粋無垢な学生たちが暮らす
学生寮の一人部屋で寝起きしている。

事ある度に女性ホルモンの働きでふくよかに膨らんだ
胸を隠さないといけないのは面倒だけど・・・ 

そして朝早くから授業の無い日の前日の晩や、
時間と体力に余裕のある時には、
この界隈のストリートに立ってカモを探す。

一方でモニカは、

人通りが閑散となる週末や
女性特有のサイクルによる旗日などを除いては
毎晩ストリートに立つ・・・ 

が、最近は体調が優れない様子で、
蒲団に蹲って辛そうに寝込んでいる日などもあって、少し心配だ。 

衣裳部屋から彼女と一緒に「出勤」する日も時々ある。

豊かな島国の普段のありふれた街の景色の中には、
未だにちょっとした好奇心の対象となる出来事も多いらしい。

もう入国してからかれこれ長い年月が経つとは言え、
このブロンド娘の眼に映っているのは「地球の裏側」の外国風景なのだ・・・

巨大な駅ビル周辺を中心に形成される繁華街は
絶妙な人間観察の場となる。

その駅ビルの西出口を出て直ぐの広くて立派な公園が
通称ウエストパーク。

園内の中央にある噴水が、いかにも都会のオアシスという
憩いの場に相応しい雰囲気を放っている。

そして時報の度に賑やかな「水のアート」を演じてくれる。

西出口から東出口への近道となる天井の低い地下道を、
時間に追われているサラリーマンらしき人たちが
忙しそうに一直線に通り過ぎていく。

一方で、いかにも暇そうにダラダラと歩いている学生風の若者もいる。

早足な人も、マイペースな人も、
厳格な規律や統制などの類はあまり好まなくて、

皆が個々人の目的のみに向かって、
無表情にバラバラに行動している。

自由で豊かな国ならではの平和な光景だけど・・・ 
基本的には良いことだと思う。

これは我が同胞たちが、長年に渡って必死に追いつこうとして来た
繁栄の近未来モデルでもあるし、

突出した繁栄の陰には多くの歪みが生じることくらい、
俺は認識しているつもりだから。

『ハイヴ? コレ何?』
『ハイヴデ死ネ、ト書イテアッタヨ!』


どうやらモニカは、都会のオアシスであるはずの
ウエストパーク内に設置されている公衆トイレの壁を
所狭しと占拠しているお下劣な落書きの中に
「ハイヴ」という文字を見つけたらしい。

公衆トイレの落書きは世界万国に共通する現象らしいが、
壁いっぱいに広がる壮絶な文字の暴力には圧倒されてしまう。

《金髪ギャルはハイヴの源だ~》
《金髪娘のパンティには病原菌がウジャウジャしてるぞ~》
《金髪女はハイヴ菌と一緒に死にやがれ~》

これは今、世界的に流行っている恐ろしい奇病の名前。
未だに治療法が開発されていないため不治の病ということになる。

現在の悪魔が中世の時代に猛威を奮った黒死病を蘇らせた
とも言われるほど、感染患者の最期は悲惨なものらしい。

黒死病とはペストの別名。
空気中で猛威を奮い身体中を醜い黒い斑点で覆われた
多数の死者を一気に出したことで歴史上も悪名高い疫病だ。

これに対して「現在の黒死病」とも呼ばれるハイヴに
空気感染の恐れは無い。

菌に接触さえしなければ移らない。

この密かに猛威を奮うハイヴ菌に感染してから、
自覚症状が無いため認識できない潜伏期間を経て発病すると、
急激に体重が減少し始め、体内の免疫力が低下し、
身体に斑点のような悪性腫瘍が現われて来る。

精液、膣分泌液、血液が主な感染源とされるが、
最も多い感染経路が「性行為を通じて」なので、

過激な性交渉を嗜好する人種たちは非情に危ないと見られてしまう。

そのせいか最近では、ホモだの同性愛だのと聞けば、
即、ハイヴの病原菌扱いだ。

恐ろしい奇病が現われたものだ・・・

我が半島の北側と南側は、基本的に未だ冷戦中だ。

南の同胞で軍事情報に通じる
かなりマニアックな高校時代の友人が言うには、

あの歴史上悪名高い泥沼化した戦争に
無理やり決着を付けるために開発された強力な細菌兵器が、
軍の管理から何かの手違いで漏れてしまって、
それが人体に浸入してハイヴ菌が生まれたのだそうな・・・ 

その恐怖の細菌を漏らした無責任極まりない軍というのは、
言うまでも無く、あの世界最強を誇る軍隊だ。

兵隊さんのちょっとした不注意から
ペスト菌並に恐ろしい細菌が外部に漏れたとは・・・ 

もしそれが事実だとしたら、人類の悲劇の始まりとしては、
あまりにもお粗末で無責任な感じは否めない。

その友人は何かと最強国家の戦略に批判的な人物なので、
敵意と悪意を持って自説を流布させているのかもしれないけど、

地球上で最も貧しい国々が集まる
熱帯大陸がハイヴ発生の起源と一般的に言われているのは、
大国の濡れ衣を着せられているのだそう。

地球上で最強の国家が、
ハイヴ発生の元凶と呼ばれる不名誉を避けるために、
弱小国家の居並ぶ貧困大陸に恐怖の細菌をこっそりばら撒いたという、
何とも奇想天外な論客だ・・・

仮にこの珍説が事実であったとしても、
相手が世界最強の軍隊ともなると、
誰も矛先を向けることは出来ないだろう。

そもそも根拠が無いからなのか、もしかすると報復が怖いからなのか、
このハイヴ発生説を公に唱える者は一人もいない。

その代わりに諸悪の根源のごとく扱われているのが、
元から肩身の狭い存在であるホモたちだ。

世界最強の軍隊が仕掛けた情報操作の犠牲者。
生贄の子羊。

という説が正しいか否かは別だけど、
少なくともホモ行為が生み出した病原菌ではないはずだ。

あくまでアナルセックスは主要な「感染ルート」に過ぎない。
発生源は別のところにあるはずなのだが・・・

まあ、この辺りが、か弱き同性愛者たちの悲劇だろう。
何とも哀れな話だが、ホモたちに現実を動かす力は無い。

初めから社会の底辺を彷徨って来た者ならば
更に落ちる余地は無いだろう、とでも思われているのか・・・

社会のゴミには「強者の尻拭い」という
暗黙の役割分担があるらしいが、

親愛なるストリートの仲間たちも、
そういう汚れ役を
知らず知らずのうちに担わされているのだろうか? 

健気に一生懸命に前を向いて生きているモニカも
そうなのだろうか?

アキコとは一体、何様なのか?

確かに一時期は憧れのマドンナだったし、一旦は、
そのストロベリーな憧れを手に入れたかのようにも思えたけど、
あっけない幕切れだった。

横並びに乱れが生じることを嫌う
周囲の大人たちからの入れ知恵により・・・

そして戦いに疲れた俺は、
社会の底辺とも呼べる場所に安らぎを見出し、女装まで覚えてしまって、
ストリートオカマを演じることで新たな世界が広がった。

国に帰れば名門財閥一族の直系男子という
超エリート階級であることを忘れかけていなくもないが・・・ 

最近の俺が、忌々しい差別や偏見との
陰湿な見えざる戦いから解放されつつあるのは、
夜のストリートで働く仲間との出会いが俺を変えてくれたんだと思う。

彼女たちは、
俺なんかより遥かに過酷な境遇にありながらも
逞しく生き抜いて来ているし、

悲劇的に悔しくて情けない思いを胸に秘めながらも
常に笑顔を絶やさないでいる。

モニカに出会えて俺の中の何かが前向きに目覚めた。

それに引き換え、この島国の無邪気なお嬢様たちは、
一体何がそんなに楽しくて、
いつも群を成してはケラケラと笑っているのだろうか? 

新しい世界を観察して来て、
やっと本物が見えて来るようになった今の俺にとっては、
耐え難いほど軽薄な存在だ。

お嬢様の「様」には痛烈な皮肉が込められているのだ! 

アキコは俺の中では、
今や無邪気なお嬢様の象徴となってしまったけど・・・ 

よくもまあ、
こんなスウィートなだけの間違った憧れを長々と、
しかも大事に大事に抱き続けて来たものだ。

やはりランさんは、俺のことが簡単には諦められないらしい。

断っても断っても暫く時間が経つと、
また何事も無かったかのように誘って来る。

本当に懲りない、困った人だ・・・

最近流行りの赤紫色のルージュを買ったからとか、
俺のためにキャミソールを新調してくれているからとか、
色々と理由を付けては衣裳部屋まで遊びに来いと言う。

はっきり言って馬鹿馬鹿しい・・・ 

ホモだのカマレズだのといった
本格的かつ深遠な薔薇色に煌く異常な濃厚世界など、
極めてノーマルな嗜好の俺にとって、
所詮は無縁だ。

でも、ランさんと出会ったこと自体は収穫だったと思う。

おかげで自分の知らなかった、また、知ることもなかった
特異な新しい世界を覗き込むことが出来たし、
そもそもあの時、ホモ映画劇場でランさんに出会わなければ、

陰湿で根深い差別や偏見から無意識のうちに解放され、
本物を冷静に見極めようとする姿勢を備えた
今の俺は無かったのだから・・・ 

困った人だけど「今の俺」の生みの親の一人には違いない。 

奇抜なストリートオカマになって憂さ晴らしをするなど
悪趣味の極みだし、モニカの眼にもきっと、
精力絶倫な困ったオカマ野郎だと映っていることだろう。

でもそれは、俺なりに
彼女の置かれた状況に心底寄り添い配慮している結果だから、
仕方が無い・・・ 

少し照れ臭い気もするが、
俺なりの、最高の愛情表現だと思っている。

とにかく今の俺は彼女のことで頭が一杯。
他のことはどうでもいいくらいだ。

男として純粋に、モニカという女性が好きなのだ!

だから、ホモだのカマレズだのといった
外道な人種と関わってはいられないし、

出来ることなら、大切にしたい女性の前では
是が非でも隠しておきたい忌わしき交友関係だ。

そろそろ分かって欲しいな・・・ 

人としては大好きだけど・・・
カマレズとやらのランさんとこれ以上深く関わるのは御免だ。

これ以上しつこく言い寄って来られても、迷惑だ!

【君にとって一番の女性とはずっと友人のままでいろ】
【君にとって二番目の女性と結婚しろ】

これは尊敬する祖父から父親を経由して俺にまで引き継がれた言葉で、
一族の直系男子だけが、身内とは言え女には絶対に内緒で、
代々の男子から男子へ口固く伝承しなくてはならないことになっている。

そもそも我が一族が半島でも有数の名門財閥だとかエリート家庭
などと呼ばれるに相応しい高貴なる地位にあるのは、
祖父の代に、ほとんど祖父個人の才覚によって飛躍的に築かれた
盤石な事業や資産の基盤があってのことに過ぎない。

偉大な祖父の類稀な商才によって残された遺産の
大きな恩恵にあやかっているのが、そのジュニアである父親や、
普通ならば世間知らずの、超ウルトラボンボンお坊ちゃま!
で終わったはずの、この俺、ということ。

ちなみに我が祖父は「同化派」と「民族派」の立場を
臨機応変に使い分けて成功した半島でも良く知られる大実業家だ。

第二世代として、
海を隔てた隣国となるこの小さな島国で生まれ育ち、

この島国では島国名を称し、流暢な島国語を話し、
島国の社会システムにごく普通に自然に同化し見事に成功を治めた。

ところが故郷の半島に錦を飾ってからは、
鮮やかに「豹変」する。

今度は当然のごとく一族の象徴である半島名を称し、
幼い時分から徹底的に親から仕込まれた完璧な半島語を話し、
事あるごとに半島民族に固有の民族性を誇り高く語り、

特に暗黒の植民地支配の時代、
この島国の横暴な軍人から強制的に
民族性を排除させられたことには猛烈な憤りを見せ、

いつの間にか半島と隣の島国の両方で成功していた・・・ 

まあ、悪く言えば
二枚舌的なのかもしれないけど、

強硬な「民族派」が大多数を占める
第一世代の影響が強い硬直的だった時代においては
革新的な発想を持った人物と称せられるだろう。

お前も大人になって経験を積めばいずれ分かることだ・・・ 
という感じに父から言い包められてしまって
深い意味は聞かされてないが、

一族の中興の祖である祖父から発信されて
俺の子孫にまで教え伝えるべく、
男子だけの永遠のリレーとなる家訓に
間違いなどあろうはずはない。

この秘密の二行詩は、
賢者の教えや普遍の真理を内に含むからこそ、
これからも続く後世にまで語り伝えられるに決まっている。

大人の経験とやらを積む途上にある俺の拙い考えでは、
一番の女性とは、男性にとってのセックスシンボルのことで、

一族にとっても重要な問題である結婚相手を
容姿や下半身の欲求だけで選ぶのではなく、知性や家柄なども含めて
全体的なバランスを重視して二番目くらいの女性と結婚しろ
という戒めではないかと思ったりもしている。

簡単に言ってしまえば、
容姿だけでなくもっと中身を見ろという程度のことかもしれない・・・

では、男としての俺の心を完全に支配しつつある
ブロンド外人女性の容姿とは如何なものだろうか・・・ 

おそらく客観的に見てもモニカは、
なかなかのルックスの持ち主ではないかと思う。

夜の繁華街をさ迷いながら
《キュートな金髪ギャルと楽しい一時を!》
の宣伝に乗せられてノコノコと金髪ショークラブに入って、
たまたま当たったホステスが彼女であれば、
世の大抵の男は心の中でラッキーと叫ぶだろう。

お人形さんみたくブルーの瞳が魅力を放つ彫りの深い小顔に
天然ウェーブのブロンドヘアー。

手足がスラッと長く、
出るところは出て、引き締まるべきは締まって、
まさに世の男性陣が《キューティーな金髪ギャル!》に求める
妄想の全てが凝縮されている。

ただ、最近は
慣れない環境でお疲れ気味なのか体重もかなり減って来たらしく、
身体に以前ほどのメリハリと艶は無くなった・・・ 
と、本人はかなり深刻に謙遜している。

女性の端麗なルックスを語るなら、あのアキコだって
雑誌のモデルが務まるくらい理想のお嬢様スタイルがお似合いで、
おそらくこの国の若い男性陣の大半から積極的に好まれるタイプだ。

二人の容姿は甲乙付け難いが
あまりにも両極端な「育ち」を考慮すれば、

モニカは友人のままでいるべき一番の女性像に近く、
アキコは二番目の女性像に近いはずだけど・・・ 

まだまだ偉大なる祖父が残した家訓が、
普遍の真理たる所以が、分かってない! 

セックスシンボルだの家柄だの表面的な次元から
さらに奥深いところにあるはずの真理が未だ掴めていない・・・ 
ように思える。

そもそもモニカが放つ、眼に見えざる部分の魅力とは、
彼女自身の経験や意識が複雑に積み重ねられた
内面世界の現われに違いないから・・・ 

だけども俺はこの祖父から引き継がれた言葉を信じている。

と言うよりも、信じて行動することが俺にとっては
義務であり使命であると考えなくてはならない立場だ。 

モニカが俺にとって一番の女性ならば、
恋愛などせずにずっと友人でいる。

そして将来は国に帰って
二番目の女性を見つけて堅実な結婚をする・・・     

「金髪女性監禁レイプ事件の犯人が遂に逮捕されました!」
「犯人から監禁された外人女性の数人の消息は未だ不明のままですが・・・」


衣裳部屋でテレビのニュース番組を聞きながら、
二人で、夜の仕事に備えてバタバタしていると、何と、

モニカを監禁し拘束し虐待を繰り返した変態男が、
別件で逮捕された報道だ!

彼女にとって、この男は
死神や悪魔と同じだ・・・


『コノ男、絶対ニ許セナイ!』


身体の中心から溢れんばかりの怒りと恨みで
肩を震わせながら、彼女は言う。


『デキルコトナラ、殺シテヤリタイヨ!』


遥か地球の反対側にある持たざる国で、
一念奮起してここまでやって来て、
その苦労の全てをぶち壊しにされたモニカが抱く、
この変態男への恨みは計り知れない。

でも、やはり、
犠牲者は彼女一人だけじゃなかったんだな・・・

不法滞在という相手の弱い立場を最大限に利用すれば、
完璧な隠蔽工作も不可能ではないという卑劣極まりない犯罪計画。

たとえ彼女を連れ去って長い間監禁しても、
どうせ誰も助けには来ないし、万が一殺しでもした時は、
機械工のパーツ解体作業みたく死体をバラして、
どこかの寒村の山奥にでも捨てればいい・・・ 

不法滞在がバレるため
被害者の仲間から警察への通報はあり得ない・・・ 
という冷徹で大胆な策略。

しかし今回は性欲ボケに陥ったのか、
獲物にすべくアプローチした金髪娘が不法滞在者か否かの
「事前確認」を怠ったらしい。

勢い余って監禁した金髪娘が、実は、
しっかりしたご良家に生まれ育った大切な子女だったので、

ご家族からこの島国の警察に捜索願が出されて
事件発覚に繋がったわけだ。

おそらく、
この変態男の監禁レイプ計画はこれまでずっと成功の連続で、
さすがに気の緩みが生じた結果、
単純で初歩的なミスを犯してしまったのだろう。

しかしながら、
最期まで救出されることなく無惨に殺された金髪娘も、
中には、きっといたに違いない・・・

『ショバ代? 何コレ?』
『ナゼ、私ノ身体ニ触ッテイク?』

せっせと現金を数えてはセカンドバッグに仕舞い込む
チンピラ連中へ向けての作り笑顔から一転し、
怒りの中に不思議が入り混じったような渋い表情で
モニカが聞いて来る。

確かに「ショバ代」というのは、
法律的な権利義務関係でもなければ、
正式な契約でもない習慣的なのもので、
その場を取り仕切る組織に支払う場所代のようなものだけど、

慣習とは言え、決して避けては通れない
という現実もある。

ただ、もう少しスマートに、出来れば普通の集金みたいに、
相手に対して最低限の感謝の気持ちを示しつつ徴収できないものか
という気はするが・・・ 

ヤクザの中でも下っ端の、態度だけは横柄な
チンピラ君が担当する仕事だから、どうしようもないのか・・・

パンチパーマに上下揃いのスウェットやジャージを着て、
サンダル履きで主婦用の自転車に跨って来るのが
「ショバ代徴収担当」の典型的なダサい風貌だ。

ストリートガールたちにとってショバ代の支払いとは、
まず経済的に大きな負担である上に、

無限大の危険と裏腹な状況下で文字通り生身を削って稼いだ
「血銭」をいとも簡単に巻き上げられるわけだから、
精神的な負担もかなりのもの。

では、何のために
そこまで身体を張って
極度の危険を冒しているのかと言えば、

愛する一人息子のカルロスや大好きなママや弟や妹たちのため。

その心の血が染み込んだ血銭の一部を、
あんな品性の欠片も無いチンピラに持って行かれるのだから・・・ 

しかもチンピラたちはモニカの身体に馴れ馴れしくも触っていく。

ちゃんとショバ代を払っているのに、
なぜ胸や尻を触られなくてはいけないのか? 

胸や尻とは、彼女たちにとっては
最後の最後に残された商売道具ではないか! 

筋の通った理由も無く簡単に触られて許されるはずがない。

・・・ だけど彼女たちは笑って返すしかない。
作り笑顔の下で込み上げて来る怒りを押し殺しながら。

下手に抵抗すれば
ショバ代の額を理不尽に吊り上げられるかもしれないし、

見るからに根性の腐ったチンピラ軍団から、
どんな卑劣な嫌がらせをされるか分からないし・・・

また「この人、痴漢です!」と声を張り上げて
交番に駆け込むことも出来ない。

万が一そんな真似をすれば、逆に彼女たちが、
滞在期間や入国目的などなど、閉鎖的な島国根性丸出しの警官から
根堀り葉堀り尋問される羽目に陥るのだから・・・

彼女たちに救済機関は無い。
仲間同士で助け合う以外に生きていく道は無い。

「度々お邪魔して
申し訳ありません! 

あの~ 先日の~ 
例のお話なのですが~ 

大変ご迷惑かとは思うのですが~ 
何とか、
お願い出来ないでしょうか?」


衣裳部屋のドアを開けると、
いきなり、またランさんの奥様のご登場だ。
いつもながら律儀に一礼しては恭しく話し掛けて来る。

白のブラウスの上にグレー系のスーツを着て、
肌色のストッキングに茶色のパンプス。

相変わらず女子学生の就職活動みたく
コンサバな恰好が良くお似合いな奥様だけど、

また、あの話か・・・


「主人は未だに、
貴方と一夜を過ごす日を夢見ています。

このままいけば教授に昇格できることは、
ほぼ間違いないのですが・・・ 

大学というところの人事評価は
典型的な減点法なんです。

何か一つでも変な噂を流されたら、
全てが水の泡になってしまうのです」


どこか病気だな・・・
それ専用の部屋まで借りて女装して
女になりきって喜んでいる男など、夫として認められるのか? 

ごく普通の女性ならば、
とっくの昔に愛想を尽かして
奇麗さっぱりと離婚しているだろうに・・・ 

この奥様は「大学教授婦人」になりたくて
ランさんと結婚したのかもしれないけど、

その人生の大目的が、ご主人の有り得ない悪趣味で
叶えられなくなろうとしているわけか・・・ 

もし、ご主人が有名大学の教授になれなかったら、
これまで積み重ねて来た様々な苦労が水泡に帰すことになるのかな?

だから、ここまで焦って傍若無人な行為に及んでいるのだろう。
左脳だけで恋した女性の哀れな末路か・・・

ここは、普通の人なら、
まず避けて近寄らない薄気味悪いボロアパート群で、
周りには空腹で頭が変になった浮浪者どもが
汚い恰好でウロウロしているというのに・・・ 

こんな物騒な場所に約束も無く女一人で乗り込んで来るとは、
よほど深く思い詰めているか、よほどの勇気と根性の持ち主か、
よほどの無神経かの何れかだろう。

歪みと呼ばれる現象の大半が、
右脳と左脳のアンバランスな働きに起因するとすれば、

この元大学院研究生であられる奥様の傍若無人な直向さも、
一種の歪みなのだろう・・・ 

ただ、ここまでされると、
そう簡単に断るわけにもいかない。

理由や背景はともかく、
その一生懸命さには素直に同情してしまう。

ひょんなことからオカマを始めたことが、
思わぬ体験や出会いへと繋がった。

一歩も規定の枠外にはみ出すことなく、
生まれながら目の前に敷かれた半島社会における
エリート街道を邁進するよりはるかに有意義だし、

人生を二倍楽しむどころか、
それ以上の貴重な収穫があったと思っている。

化粧はセクシーメイクでバッチリ。
ブラウン系のカツラを被って黒のミニスカートに真っ赤の網タイツ。
女性ホルモンで豊かになった胸を強調するための下着とタンクトップ。

意図的に精神モードを切り換えるため、
変装用具を駆使して外見を奇抜に装ってみたおかげで、
夜のストリートへと導かれ大切な仲間たちと巡り会うことが出来た。

上手くは言えないが、
彼女たちは人間として大切なことを俺に教えてくれている。

偉大なる祖父の功績のおかげで
一握りの恵まれたエリート階級の世界で生まれ育ったせいか、

人が人として扱われるという当たり前のことを
「努力」で手に入れることの難しさを思い知らされる。

幼い頃から今日まで心棒して来た
学歴やら社会的地位やらとは、一体、何なのか? 

そんなことを真剣に
疑いを持って考え直せるようになれたということは、
今まさに、俺の右脳の働きが活性化され
感性が研ぎ澄まされて来つつあるということだろう。

モニカは学歴も無ければ地位も無く、
社会の底辺から枠外をさ迷うアウトロー系の不良外人・・・ 

だけど、縁もゆかりも無い地球の反対側に浮かぶ異国の地で、
まるで自己犠牲の塊のごとく逞しく健気に生き抜いている。

それ自体が凄いことだと思う! 

長年ショークラブで接客業を続けた前向きな成果として、
言語体型の全く異なるこの島国の言葉を、
おそらく読み書きまでは難しい様子ながら、
日常会話には不自由しない程度にマスターしている。

そのことだってかなり凄いことだ! 

上流家庭の子女が高い学費を払って学校に通って身に付ける
以上の技能を備えているのだから! 

世界有数の「持てる国」の言語をある程度操る能力は、
会話だけとは言え、彼女の母国である「持たざる国」に帰れば
一般社会の企業活動などでもかなり重宝されるはず。

しかしながら、
一旦ドロップアウトしてしまった人種に対して現実社会が厳しいのは、
たとえ国に帰ってからも同じなのかもしれない・・・ 

まあ、一般社会で企業活動の一翼を担うことなど、
そもそも当の彼女にとっては最早、
発想の及ぶ範疇ではないだろうが。

社会の底辺を這い蹲りながら頭よりも身体を使って身に付けた、
まさに血肉と化した「生の実技」よりも、
社会の上層部で机上のテキストをお行儀良く学んだ
「経歴」の方が評価されるということか・・・ 

おかしな話のような、
決しておかしくはないような話だけど、

今の俺は、それが現実と
言い放ってしまえる心境では有り得ない。

むしろ、このようなことを立ち止まって考えてみる
きっかけを与えてくれたものに
最高の感謝の念を感じずにはいられない。

しょうもない温室育ちの左脳人間だった俺を、
時には繊細に右脳を働かせる人間に生まれ変わらせてくれた
かけがえの無い存在に対して大きな愛情を抱かずにはいられない。

死んだ細胞みたくずっと眠っていた右脳を
心地良く目覚めさせてくれて、
左脳の支配から解放してくれた女性こそ、
俺にとっては永遠に輝く聖なる母ということだろう。

今の俺にとって一番大切なのはモニカ。

何となく以前より痩せて来ている感じで、意外と体調不良の日も多く、
今日もかなりの高熱で寝込んでいるので心配だけど、
並大抵の根性ではないので大丈夫だろう。

出会って以来、何とか恋心の対象にしないよう
努めて心がけて来たものの、
やはり感情とは自然に生まれるもので、
機械みたく操作できるものでは有り得ない。

大地主の綺麗な妾であるママの娘としての彼女、
可愛い弟や妹たちの優しい姉としての彼女、
死に別れた夫との間に愛の結晶として生まれた
カルロスの母親としての彼女、
聖母エビータに憧れて諦めずに頑張る出稼ぎ労働者としての彼女・・・

いろんなモニカがいる。

その全てに健気で良質な想像力が掻き立てられ、
ひと時も彼女から気持ちが離れたことは無い。

今や最高次元と思われる尊敬の念すら抱いている。

アキコが放った眩しい輝きと、
モニカの放つ美しい輝きは同じ目安では量れない。

眼で感じただけの空虚な輝きと、
心でも感じる中身の詰まった輝きは、
同じ基準では語れないものだ・・・ 

ただ、生まれ変わった俺は、この島国でも半島でも、
無邪気で軽薄な輝きに憧れることだけはないだろう。

また、モニカと、男と女の関係になることもない・・・

彼女の眼に映る「演技モード」の俺は、
円滑な相互コミュニケーションが可能な
通常の人格を備えていないのだから、
普通の友達同士のような会話すらしないのだ。

優位な立場を利用して、
女を自分のものにするかのような行為は絶対に嫌だから、
彼女の前ではずっと
本来とは違うファンキーな性格を演じ続けるのだ。

それが彼女に対する最大の愛情表現だと信じているが、
男としては最大級の後悔をすることになるだろう。

一度くらいは・・・ 
若い男女が小さな部屋の中に一緒にいるのだから・・・ 

この下半身が何度そう考えたか分からないが、
上半身のささやかな品性が一線を超えることを許さない。

祖父の言う通り「一番の女性」とはずっと友人のままでいるのだ! 
いずれにしても兵役で帰国するまでだ!

気持ちが熱くなると「期限付き」であることを忘れて来るが、
期限が来れば新たな環境へ適合させるべく
精神モードを速やかに切り換えていく当初の予定に変更は無い。

思い返せば、モニカと俺のフィジカルな接触回数は、
過去たったの二回だけ!

一回目は野垂れ死に寸前だった彼女を衣裳部屋で介抱してあげた時。

それは間違い無く人道的な救命行為であり、
マイノリティーに属する者同士の使命感に燃えていたので、
異性に対する感情が沸き起こるような状況では有り得なかった。

二回目は、予期せぬ出来事だった・・・ 

ヤモリかトカゲかカエルかは忘れたが、
爬虫類系の腐った死骸が、
ちょうどストリートの街灯に煌々と照らされていた時。

いきなり俺に抱き付いて来たかと思えば、
暫くは、まるで幽霊でも怖がる子供のように
俺の胸に顔を埋めて離れなかった・・・ 

あれだけ常道を逸した
壮絶な苦難を潜り抜けて生き抜いて来た、
逞しさばかりが目立つモニカが見せてくれた、

爬虫類が怖~い!
という意外な一面だった・・・

まあ、好きな女性から寄り添われて悪い気はしないし・・・ 
女の子みたいな可愛らしい横顔を見せてくれてホッとした!
 
というのが男としての本音だろう。

透き通るような白い肌にぴったりの、
黒のビキニパンツを履いた美少年。

日焼けした逞しい身体に、
純金のネックレスと真っ赤なフンドシが映える中年男。

ベッドの上で二人の男性が、
執拗に舌を絡ませながら濃厚なキスを始め、
やがて中年男が、背後から美少年を抱き締めて、
左手で乳首を擦り右手で股間を撫で回すと、

スクリーンいっぱいに映し出されたビキニパンツの下に、
勃起したペニスの形がくっきりと、もっこりと・・・

相変わらず悪趣味な映像だ。

今日はランさんに会うために、
久し振りに萎びたホモ映画劇場を訪れている。

あれだけ律儀に頼まれたのだから、
少しは生真面目な奥様の顔も立てなくてはいけないだろう。

ただ、人としては大好きなのが
心情的には厄介なところだ・・・ 

かと言って、薔薇色の性的交渉を求められて、
これ以上しつこく言い寄って来られても困ってしまう。


それにしても退廃的で末期的な空気が漂っているな・・・ 

でも考えてみれば、
ここのボロ座席が全ての出発点でもあったわけだから、
非常に複雑だ・・・ 

あの時、失恋のショックで酔っぱらってここに来ていなければ、

眼から鱗が落ちるような方法論をランさんから教わることもなく、
女装など覚えることもなく、
ボロアパートに衣裳部屋を借りることもなく、
奇抜なストリートオカマ野郎となって
ご先祖様の敵討ちに興じることもなく、

結果として、
モニカと出会うこともなかったわけだ。

後方から一直線に放たれる光の軌道の中で
無数の埃たちが美しく舞っている。

ここが新しい世界への扉を開いてくれた空間か・・・

さっきから随分と待っているのに、
ランさんはなかなか現われないなぁ~ 

この曜日とこの時間なら固いと思ったが・・・ 

喫煙室で常連のホモたちと
世間話にでも花を咲かせているのかな? 

まあ、劇場の前方に煌々と灯る《館内禁煙》の赤いサインは、
法令上の建前みたいなものだから、

実態は「喫煙室」と言うよりも「お喋りルーム」とでも呼んだ方が
的確に場の状況を表しているかもしれない。

とにかく、少し覗いてみよう!

残念ながらランさんの姿は見当たらないけど、
妙に特徴的なお姉様言葉で、お喋り好きな
常連のカマレズやホモたちの大きくて甲高い声が、
奇妙にも良く響く・・・



「あいつはハイヴ感染者になってから、
完全に気が狂ってしまったわ。
どうせ死ぬんだから、
一人でも多くの金髪女を道連れにしてやるんだって・・・」 

「昔は美少年漁りが好きで、
暫くはこの劇場にも頻繁に通っていたけど、
美少年に飽きた後は、
外人の金髪娘一筋に趣向変えしちゃったからね」

「どうやら金髪女から
ハイヴを移されたんだと思い込んでるらしいのよ。
それからというもの、
金髪の娘を目の敵にするようになってさ・・・ 
ショークラブで口説いた外人の金髪娘を
次々と監禁しては、
性的虐待を繰り返す日々よ」

「逃げ出すことが出来なかった娘は、
死ぬまで弄ばれるの・・・ 
激しくやり過ぎて殺してしまった娘の死体は、
山や林に捨てたらしいわよ。
ノコギリで手足をバラバラに切断して、
誰にも気付かれないように、分散させてね・・・」

「捜索願すら出されないような、
弱い立場の娘ばかり狙って来たんだけどさ~ 
今回の娘は出稼ぎにやって来た貧乏人じゃなくて、
ちゃんとしたご良家の子女だったから、
事件発覚に至ったわけよ! 
きっと、
ノコギリで身体を切り刻まれた娘たちの崇りだよ!」

「もし、無事に脱出できた娘がいたとしても、
ハイヴには感染してるよね!」

「あんな変質者から
無理やり移されたハイヴ菌で死ぬなんて、
本当に酷い話よね~ 
死んでも死に切れないわよ」

「しかも、
あいつにハイヴを移した真犯人は、実は、
この劇場で漁った美少年なのよ! 
その美少年も、
自分がハイヴ感染者だと知ってから
自暴自棄に陥ってしまって、
投げやりに遊んでたのよ・・・ 
とんでもない話だけど、
本当に、投げやりな連鎖感染よね~」

「それも知らずにさあ、
外人の金髪娘から奇病を移されたんだと
勝手に勘違いしてるんだから、
殺された健気な外人娘たちが、
あまりにもうかばれないわよ・・・」



喫煙室では、お互い気心の知れたホモやオカマたちが、
テーブルに週刊誌を広げて熱心にペチャクチャと語り合っている。
どうやら例の「金髪女性監禁レイプ事件」の記事らしい・・・ 

つまり、あれっ! 

今ここで話題になっている
ハイヴ感染者の変質者とは、

前に衣装部屋のボロテレビで一緒に見た、
あのモニカを監禁して虐待した・・・ 
あの変態男じゃないか!

ウソだろ・・・

今こっそり聞いた話が本当だったら、
モニカも既にハイヴ感染者なのか! 

しかも、あの変態男は、
彼女がこの世で最も憎んでいる鬼畜のような奴! 

彼女の人生を滅茶苦茶にした、
狂気の張本人から移されたとは・・・ 
いくら何でも残酷過ぎやしないか・・・ 

豊かさの陰に潜む究極の歪みとも言える、
あの変態男の気紛れな狂気に捧げる、
哀れな生贄の子羊にされてしまったのか・・・     

こんな話があっていいものか・・・ 
許せない!

地球の裏側から遥々やって来て、愛する者たちのために
尊い自己犠牲を払い続けるモニカと巡り会えたことは、
俺の人生において最大の財産だというのに・・・ 

どうして狂った悪魔の生贄として、
健やかな聖なる母が差し出されなくてはいけないのか?

そんな安っぽい命じゃないからな! 
使い捨て玩具と同じにされてたまるか!

劇的に動揺している俺の心中とは裏腹に
大学のキャンパスは相変わらず平和なものだ。

平和ボケした学生たちとの無意味な交流にはとっくの昔に飽きているが、
そろそろ兵役で帰国するための身辺整理を始めなくてはならない。

モニカのことをどうすれば良いか分からないまま、
俺の周辺は徐々に慌しくなって来た。

学生寮の退室手続きは簡単だけど、
衣装部屋の賃貸契約はどうするべきだろうか? 

聞くところによると、
あのボロアパートの大家は話の分かる人物らしい。

大家たち世代が属するのは
「民族派」と「同化派」が半々くらいで混在する
第三世代くらいだろうか? 

俺の直感と本能では、この大家こそ「筋金入りの民族派!」
という印象をストレートに受けるが・・・ 

一族の歴史が刻まれた由緒ある半島名を堂々と名乗らずに、
やや不似合いにも島国名を名乗って
大人しく同化する姿勢を見せているのは、
やはり仕事上の都合や世間体なのか・・・ 

本業であるパチンコ店の方がかなり順調なので、
副業のアパート経営は適当に片手間でやっている、と言うよりも、
本心では早くボロアパート群を丸ごと壊したいというのが
常人の発想だろう。

その跡地を高値で開発業者に売却する道を模索するか
自分でコイン式の駐車場でも作った方が、
営利目的の事業としては遥かに効率良く儲かるわけだから。

なぜ早くそうしないのか? 
理由は隣のボロアパートに住む老女たちにある。

着替えもろくにせず風呂にも入らないらしく、
いつか近付いてみた時には異臭を放っていた、例の二人組の老女だ。

血の気が全く無くて、無表情で、
挨拶をしても返事が返って来たことは一度もないので、
いつの間にか二人を無視することが習慣になっている・・・

驚いたことに、何と・・・
あの二人の老女は
実の親子だというではないか! 

二人とも働いていないから、家賃などずっと払っていない。
かなりの高齢者となった実の母と娘が、
老朽化した貧相なアパートでひっそりと暮らしている。

暮らしている、と言うよりも、
人生の最期の到来を静かに待っているのではないだろうか?

モニカとは対照的なくらい、
生きる気力を全く感じさせない二人の老女だが・・・ 

極めて堅実に人生の大半を過ごして来た。

しかしながら、
限り無く誠実な人柄で知られたご主人の事業が破綻してから、
今の親子二人の惨状が生まれたそうだ。

我が同胞でもあるボロアパートの大家はなかなか立派な人物だ。
昔の苦しかった時期に受けた恩を未だに忘れないでいる。

異国でパチンコ店の社長として成功するまでには
陰で相当な苦労があったのだ・・・

未だ大家が若い頃と言えば・・・

昨今のように軽薄な半島スターブームが生まれる土壌など有り得ないほど
同胞への差別感情が露骨だった時代だが、

そもそも昨今においてでさえ、
凡人よりも遥かに優れた国際感覚を兼ね備えて振舞うべき政治家たちが、
我が同胞として戦後初めて誕生した国会議員を陰湿な集団虐めによって
自殺に追いやっている。

この島国で最難関の大学を卒業しエリート官僚を経て政治家へ転進
という華やかなキャリアも「半島系」というレッテルの前には
集団差別の生贄となる運命から逃れられなかったのか・・・ 

昨今でさえこのような状況だ。
一昔前がどうであったかは想像に難くない。

この島国で事業を起こす大志はあっても、
激しい嫌悪と偏見が渦巻く中、
誰からも相手にされず腐り切って
自堕落に陥らざるを得ない状況が続いたが・・・ 

そこへ大家を経済的に支援してくれる大恩人が現われたのだ。

運送会社を経営する人物で、本当は俺たちと同胞なのだが、
商売上の不利益や嫌がらせに繋がることを恐れて
「半島系」という素性をひた隠して、この島国で事業を展開して来ていた。

若き日の大家は、
昼も夜もがむしゃらに働いて恩人への借金返済に努め、
やがてパチンコ店は軌道に乗り始め、借りた資金は利息も付けて
数年で完全に返済することが出来た。

つまり、この恩人との債権債務関係は、
大家の驚異的な滅私奉公が実って奇麗に清算されたわけだ。

しかしながら恩人の方は「青雲の志を持つ我が同胞の若者」
と映った大家を支援したことが裏目に出て破綻してしまう。

大家を支援したことがきっかけで、
取引先にずっと隠し通して来た本当の素性が知れ渡ることになり、

長年の取引先の心情を害し信用を裏切る行為と見なされ、
契約は次々と解除され、会社は経営悪化の一途を辿り
どうにもならない状態に陥り、やがて倒産し再建も不能となり、
恩人は妻子を残して自殺してしまった・・・

懐かしそうに、少し悔しそうに、
大家が話してくれた。


「あの親子は、私の恩人の、奥さんと娘さんです。

苦しい時期に助けてもらった、一生頭の上がらない
恩人の奥さんと娘さんなのですが・・・ 

あのアパートを壊したら、
彼女たちの住む所がなくなるのです。

彼女たちがいる限り、私は、
あのアパートを壊すわけにはいかないのですよ。

私は恩人である社長を、心から尊敬しています。
お金を貸してくれたからではありません。

尊敬する理由は、
私に恩を売るということを一切しなかったからです。

社長の運送会社が倒産しそうな時に、
私の事業は順調で、余裕もありました。

相談してもらえれば、
喜んで資金的な援助も出来たのですが・・・ 

結局、私には何の相談も無く、会社が倒産してから直ぐに、
社長は首を吊ってしまいました・・・ 

そもそも、私を支援してくれたせいで、
ひた隠しにして来た素性がバレてしまって、
取引先から嫌われて会社が傾き始めたというのに・・・ 

社長は私にとって、
永遠に頭の上がらない恩人となってしまいました。

その恩人の家族を助けることくらい、
最後までやらせてもらいますよ」

・・・ 何とも素晴らしい美談なのだが、
今の俺にはこの感動に浸っている余裕は無い。

当初からの予定でもある兵役帰国に備えての現実問題が優先なのだ。

要するに、
隣の老女二人が死ぬまではアパートを壊さないということか・・・ 

逆に考えると、老女二人が死んだら、
同じ敷地内のボロアパートは全て壊されるということだ。

それはまずい! 

もし老女の死が先に来たら、
モニカの死に場所がなくなってしまう。

無慈悲にも彼女に感染したハイヴ菌は、
もう既に潜伏期間を過ぎているはずだから、
そろそろハイヴ特有の悲惨な外的症状が現われて来る頃だ。

それほど先は長くないはずだ・・・

どう考えても、俺の衣装部屋で
静かに最期の瞬間を迎えてもらうしかないのに、
俺はもうすぐ帰国する身だから、彼女の最期には立ち会えない。

最期を看取れないのなら、
せめて安らかに死ねる場所を確保してやらなくては・・・

この島国で、
身元不明の外人女性の死体が発見された後の成り行きは、
何処かの火葬場で事務的に焼却されて、
骨と灰になって小さな白い壷に入れられて、
無縁仏として何処かの役所の地下室にでも安置されて、
その後は、永遠に暗い暗い地下の納骨堂で・・・

何とかして地球の反対側まで返してやりたいな。
いや、必ず返してやるんだ! 

幸いアパートの大家は同胞でもあり類稀な人格者だ。
必ず協力してくれると思う。 

もう一人の協力者は・・・ 
やはり、ランさんに相談するしかないだろう。

『アソビ、イキマスカ!』

この界隈では、道行く男たちへの挨拶代わりの一言。

いつも通りの慣れたプリプリ笑顔で
可愛らしく声を掛けているモニカだけど、
その作り笑顔の下に隠された本当の気持ちは・・・ 

憧れの聖母エビータを目指して最後まで諦めない覚悟なのか? 
ハイヴ感染のことはどこまで知っているのか?

以前に比べると、身体のラインは痩せて来ているようにも思えるし
何処と無く顔色も悪いような・・・ 

いつも一緒にいるわけではないけど、
熱や頭痛とかでぐったりと寝込んでいることも多い。

これは、俺が偶然にもハイヴ感染の事実を知っているから、
そういう風に思えるだけなのだろうか? 

彼女の知らないところで、俺は
彼女のことを知り過ぎてしまった・・・

健気なモニカはもう、
自分がハイヴ感染者であることを知っているのか? 

既に潜伏期間を終えて、
発病する時期はとっくに過ぎているわけだから・・・ 

本当は、このストリートに立っていることすら厳しい状態に
突入しているのではないだろうか? 

聖母様に近付きたい一心で、
既に限界に達している肉体を
気力だけで奮い立たせているのかもしれない。

現在の黒死病と称されるハイヴが発病すると、
身体中に血の塊のような醜い悪性腫瘍が発生するらしいが、
もしかすると既に、彼女の白い肌は醜い斑点で汚されているのか? 

狭い衣裳部屋の中で、
夜の仕事に備えて仲良く一緒に着替えをする日も多い・・・ 

が、事実を直に確認できるチャンスはあっても、
それを直視する勇気は無い!

『アノ娘ハ、ショバ代ヲ、払ッテイナイヨ!』

どうやらモニカは、
テレクラ少女のことが気になるらしい。

テレクラとはテレフォンクラブを短くしたもので、
表向きは「明るく楽しい男女の出会いの場」という触れ込みだが、

実際には、小遣い目当ての不良少女や、
男の下半身を刺激する様々な趣向を凝らした悪徳業者たちが暗躍している。

テレクラ少女たちは、確かに、
この界隈のストリートに立っているわけではないが、
電話で釣って来た客をこの界隈のホテルに連れ込んで
盛んに商売をしている。

海千山千の彼女たちは、
いかにも気が弱くて大人しそうなカモを捕まえる名人だし、
捕まえたカモから小遣いを巻き上げるテクニックも素人の域を越えている。

しかもショバ代の負担が無いから実入りも良い。

彼女たちは、稼いだ金を
自分一人の娯楽と快楽のために消費できることを
当たり前だと思っていることが、
その態度にありありと現われているので、
ストリートガールたちにとっては、この上なく不愉快な存在だ。

モニカたちは、もしショバ代の負担が全く無ければ、
危険と隣り合わせで稼いだ、まさに文字通りの意味を持つ「血銭」を、
もっと自分や愛する家族の将来のために使えるのだから、

テレクラ少女など断じて許せるはずがない。

テレクラ少女を処刑せよ!

処刑と言ったら大袈裟だけど、
これ以上放置するわけにはいかないと、
この界隈で働く仲間たちの総意は既に自然に鉄壁にまとまっている。

この総意は、
この界隈で身体を売って生きて行く以外に選択肢が無い者たちの、
心底からの「敵意表明」なのだから、

この島国で散見される
生半可な怒りや妬みの類ではない。

一方で、社会的弱者には
決して「目立ってはいけない」という処世術も備わっている。

不法滞在の身分で、
暴力沙汰を起こして警察に捕まるわけにはいかないから・・・

処刑の執行担当はチンピラ君たち。
彼らも、あんな無神経な小娘からショバ代も払わずに
堂々と商売をされたのでは、いくらなんでも面子が立たなくなるから・・・ 

全然偉くもないのに偉そうに幅を利かせている
この界隈の「ショバ代徴収担当官」として、
たとえ右脳と左脳の両方が空っぽのお馬鹿さんでも備えているであろう
最低限のプライドに訴えるという作戦だ。

ストリートガール数人でたかって、
猛烈にテレクラ少女への不平不満を訴えれば十分。

そうすればあのダサい恰好のチンピラたちも、
公開で見せしめの処刑を執行せざるを得なくなり、
その後、ストリートの仲間たちは晴れやかな気分になる。

チンピラたちに血銭からショバ代を払う苦痛から得られる
「唯一の見返り」とも言えるだろう。

とにかく、疲れ切ったモニカをさらに疲れさせる負の要因が
一つでも排除されるのは喜ばしいこと。

彼女には少しでも穏やかな気分でいて欲しいから。

今日は衣装部屋のあるボロアパート群やその周辺が、
やけに賑やかだなぁ~ 

さっきまでは数人の警察官と
パトカーや救急車も一緒に来ていたらしいけど、
物々しい様相で張られた《立入禁止》のロゴ入りの真っ黄色なロープが
不吉な予感を誘う・・・ やっぱりそうか! 

例の老女二人が死体となって発見されたのだ。

死後、数週間経ってから、異臭を放つ小さな遺体二対が、
折り重なるような体勢で発見されたそうだ・・・ 

部屋には食料と呼べるような物は一切無く、
電気もガスも水道も止められて、
テーブルの上には、空になったポテトチップスの袋だけが・・・

見物人も去ったアパートの前で
大家であるパチンコ店の社長とばったり出くわした。

昔は「島国名」を名乗ることなど屈辱的だと断固拒否していた
バリバリの「民族派」だった大家だが、
恩人の自殺を機に「島国名」を名乗って今日に至っている。

背後で墓石のように立ち並ぶ高層ビル群の狭間に
太陽が落ちていこうとしている時、
真っ赤な夕日の神々しい光に包まれて、喪服に正装した大家が
静かに語り始めた。


「二人は最後まで潔癖な生き方を貫き通しましたよ。

最後まで親子で支え合いながら、
人知れず眠っていったのでしょう。

実は、この二人には、
私の方から金銭的な援助もしていたつもりなのですが・・・ 

どうやら私からの金銭援助は、
一切受け取ってもらえなかったようです。

私宛の封筒に、
これまでにお渡ししたお金が全て入っていましたよ・・・ 

本当はもっと快適なマンションをお世話したかったのですが、
ずっと断られ続けました。

頑として石のようにこのボロアパートから動かなくて、
ついに返せない好意を受け続けるよりも
餓死する方を選んだのですね。

ポテトチップス一袋で、
最期の瞬間を迎えるまで親子二人で支え合いながら・・・ 

私が心から尊敬する恩人の奥さんと娘さんは、
最後の最後まで立派でしたよ・・・

ただ、そもそも私が、若気の至りで・・・ 
半島名を名乗ってさえいなければ・・・ 

若い頃から大人しく島国名を名乗っていれば、
こんなことには・・・」

さすがに胸に熱いものが込み上げて来る。

が、今の俺には、
この悔しそうに肩を落として自責の念に駆られている
我が同胞の大先輩が語る美談に感動している余裕は無い。

モニカのことで心を傷めながらも、
身体の方は帰国の準備で忙しく動き回っているところへ、

二人の老女が死んだ今、
アパートが壊される可能性が出て来たわけだ。

それだけは阻止しなくては・・・ 
何としてでも彼女の死に場所を確保してやるんだ! 

この大家ならきっと分かってくれるだろう。

我が半島の同胞でもあり、
本物の品性に溢れた人格者だから。

それに、このボロアパート群を壊す時期が
あと「数年先」に延びてしまうというような大それた話でもない。

あと数ヶ月か、もしかすると、もっと、
もっと早く訪れるかもしれない・・・

死ぬほど無念だけど、
極めて短い期間であることは、ほぼ間違いない。

とにかく、まずは正直に誠実に、
俺のモニカへの気持ちを大家へ話そう。

もちろん彼女にとって「終の棲家」となる衣装部屋の家賃は、
これから数ヶ月分を事前に十分に支払ってから帰国するつもりだけど、

金銭的な問題よりも気持ちが伝わるかどうかだろう。

彼女に出会ってから今日までの思いを、
包み隠さずにぶつけてみよう。

彼女に出会う前の俺と、
彼女の存在を知った後の俺がどれだけ変わったか・・・ 

直向に強く美しく生きる姿勢から、
どれだけ大切なことを教えられたことか・・・ 

彼女と接してそのスピリットを直に感じて、
これまで発想の圏外にあった大事なことに気付き、

これまでとは違った新鮮な角度から、
物事の本質を見極めようとする人間に生まれ変われたことを・・・

「金髪美女レイプ監禁事件の犯人に異常性癖!」
「ハイヴ感染者だと知りながら性交渉を強要!」
「犯人からハイヴ感染した外人女性たちは今?」

この報道は忌々しくも監禁レイプ事件などを起こした変質者に関すること。

奇病の一つや二つ持っていても当然だから、
週刊誌の最新号の表紙をデカデカと飾るこれらの記事の見出しは、
一般大衆にとってはそれ程の新鮮味は無いだろう。

しかし、この記事から読み取れる情報は「死の宣告」なのだ!

ほとんど地球の反対側に位置する眩しく輝く豊かな島国に、
野心を抱えて生きる希望を見出して、
意に反する形で眩しさの片隅に追いやられながらも、
必死に地を這うように逞しく生き抜いて来た一人の女性にとって、

死を宣告されるに等しい内容なのだ。

この島国語の読み書きまでは未だ難しいモニカだけど、
仲間の誰かから口伝えにこの情報を知らされたとしたら・・・ 

一発で完璧に、
全てを悟ってしまう・・・ 

あの変態男との性交渉から感染したハイヴ菌に蝕まれて、
既に余命幾ばくも無い身体だと! 

どんなに動かぬ現実であっても、
決して受け入れることは出来ないだろう。

あの恨んでも恨み切れない奴から移されたハイヴ菌で死ぬくらいなら・・・ 

嫌な予感を禁じ得ない。

彼女のことだから、ハイヴで自らの命を失うことを、
絶対に許さないだろう。

あの変態男から移された奇病でカルロスの母親が死んではならないし、
ハイヴのせいで幼い頃から憧れの聖母エビータのようになれなかった、
とは思いたくもないはずだ。

あの監禁部屋で感染させられたハイヴ菌で死ぬ、
という不名誉だけは最後のプライドが許さないはず・・・ 

考えたくもないけど、最期の瞬間は、
自ら選んだ「別の形」を演出するのかもしれない。

万が一、彼女から相談されたら・・・ 

「変態男から貰ったハイヴ菌による死と、自殺の、どちらを選ぶ?」

と問われたら・・・ 

おそらく俺は、後者をとるだろう。

もちろん彼女には一日でも長く生きて欲しい。

でも、一日でも長く生き延びようとして、
最期は忌々しいハイヴで死ぬことが間違いないのなら、
それじゃあ死んでも死に切れない! 

むしろ、自らの意思で、自らが選んだ方法で、
最期の時を納得して静かに迎えたいだろう。

悔しい・・・ 
死ぬほど悔しいけど、
もう俺にはどうすることも出来ない。

この世で一番大切な女性が、
俺の前から永遠にいなくなろうとしている。

それなのに俺は、何もしてやれない・・・

「あらっ、珍しいわね! 
でも、貴方が自分から来てくれるなんて、嬉しいわ~ 
とにかく、中へお入りなさ~い」


色々と俺なりに悩んだ揚句に、
ランさんの衣装部屋を久し振りに訪れている。

期待通り、我が同胞であり人格者でもあるアパートの大家は、
無謀な俺の身勝手な頼みを快諾してくれたけど、
計画を実行するにはもう一人の協力者が必要だ。

病気が病気なだけに、
空気感染はしないので必要以上に毛嫌いすることはないと知ってはいても、
安易な差別的態度に走りがちな人種には頼めない。

無知に起因する偏見など軽く超越して、
特殊な状況下で特殊な能力を発揮できる素養があり、
人として信頼のおける人物でもあるランさんの力を借りたい。


「ランさんには感謝しています! 

貴方から人生を二倍楽しむ方法を教わって、
本当に良かったと思ってます。

でも俺は、
貴方の気持ちに応えることは出来ません・・・」


この島国を支配する大人しくて無表情なつまらない連中に比べると、
ランさんは飛び抜けて感性豊かな人だから、
この話の出だしから、只ならぬ事態と察してくれるだろう。

これが、俺の心からの切実な願いであることを、
きっと分かってくれると思う。


「モニカを
地球の裏側まで返してやって欲しいんです! 

彼女は近い将来、
俺の衣装部屋で死体となって発見されます・・・ 

アパートの大家には全てを話して、
これから起こる事態を全て了解してもらいました。

大家と俺は同胞ですが、
人としての信義を重んじる立派な方です。

歴史を共有する同じ民族として、
大家のような人物を誇りに思っています。

モニカの死体が発見されたら、
火葬場で灰になって小さな壷に入れられて、
この国の何処かの役所ビルの地下室にある
無縁仏の納骨堂にでも祭られるのでしょうが・・・ 

それではあまりにも彼女が可哀想でなりません。

これから永遠に、
異国の役所の暗い地下室から出られないのでは、
あまりにも不幸です! 

どうか、貴方の知恵と行動力で、
灰になった彼女を、
故郷の家族の元へ帰してやって下さい。

お願いします! 

・・・ 考えてみると、
俺は今日まで、
貴方に何もしてあげていない・・・ 

厚かましいことは百も承知ですが、
他に頼める人はいないんです。

どうか、
俺の一生の頼みを聞いて下さい!」



いきなり部屋に来られて、こんな奇想天外なお願いをされたら、
誰でも気分を害するものだ。

左脳だけの働きで、
ご主人の出世が自分の幸せだと
盲目的に信じ込んで俺の元へ通って来る、
あの生真面目な奥様の歪んだ傍若無人さにも引けを取らない
とんでもない暴挙だろう・・・

でも、やはりランさんは、
常に柔軟で機知に富んだ自由な教養人らしく、
厚化粧の下で不敵な笑みを浮かべながら、
穏やかな口調で返事をしてくれた。


「ここまで頼まれたら、
嫌とは言えないでしょ~ 

貴方にとって、
この世で一番大切な女性なんだから・・・ 

彼女の遺骨は、
どんなことをしてでも
私が地球の裏側まで送り届けるから、

安心して国に帰って
兵隊さんの修行を積みなさい。

こう見えても、
一応は有名大学の助教授なんだから、

世の中の表にも裏にも、
いろんな方面に強力なコネクションを持ってるのよ~ 
必ず何とかしてみせるわ。

でも一つだけ忘れないでね! 

貴方が彼女に巡り会えたのは、
その前に、
あの劇場で、私に出会っていたからなのよ。

私は、貴方とモニカを結んだ
愛のキューピットよ! 

残念ながら、
恋人にはなれなかったけどね・・・」

女性ホルモンの働きでふっくらとしていた両胸は原形に回帰しつつある。

軍隊に入ったら全寮制だから、
そろそろ身体を元に戻しておかなくてはいけない。

バタバタとした慌しい日々が続いたが、
この島国の景色を眺めるのも、あと僅かな時間を残すのみ・・・ 

明日の夜、最終便の飛行機で、
俺は二年間の兵役義務に服するため帰国する。

これは男子の義務だから仕方が無い・・・

やがて、面白くもない兵役を終えた暁には、
人も羨む官庁か一流企業でエリート街道を驀進して、
いずれは祖父の言う二番目の女性とやらと
堅実な家庭を築くことになるのだろう。

船でも行けるくらい地理的には直ぐ近くなのに、
精神的にはほど遠い隣国への留学は、
図らずも「人生を二倍楽しむ方法」と遭遇してから、
全く予期せぬ方向に導かれて行った。

初めは、
ちょっとした出来心のような好奇心に従って動いてみたつもりが、

いつの間にかエリート街道を歩むべき人間にあるまじき
破廉恥の数々を犯してしまった。

社会の底辺とも枠外とも言える場所の空気を吸い、
繁栄の陰に潜む歪みの一部となり一体となり、そこで感じたものが、
何だかとても重要なことのように思えて来た。

ストリートガールの仲間たちは今でも
かけがえのない仲間だと思っている。

そしてモニカに心から感謝する。

本当は、心から愛している、
と直接会って大きな声で言いたいところだけど、

そのような関係ではないから・・・ 

最後の最後まで永遠の友人として、
一風変わったやたら元気なだけの「オカマ野郎」を
演じ続けなくてはいけないのだ。

あまりにも特殊な状況下で巡り会ったので、
この特殊な関係のまま終わってしまう方が良いのかもしれない。

が、最後の別れ際くらいは
「本当の俺」というものを現してはいけないだろうか? 

「男として君が好きだ!」と言ってはいけないだろうか・・・

駄目だ! 
駄目に決まっている! 

モニカにとって俺という人間は、
失いかけた命を救ってくれた恩人であり、

俺の衣裳部屋に居候中の彼女にとっては、
家主様という優位な立場でもあるのだから・・・ 

恩人だの部屋の家主だのという優越的な立場から、
彼女にものを言いたくはない!

本当の俺と彼女は、現在にも過去にも未来にも、
一度たりとも出会わない・・・ 

そのための演技だから・・・ 

男としては大いに後悔することになるだろうが、
その方が幸せな関係だと信じよう。

【君にとって一番の女性とはずっと友人のままでいろ】
【君にとって二番目の女性と結婚しろ】

我が一族の男子は、
一番の女性とはずっと友人でいると世襲で決まっている。

その一番の女性とは何か? 
あれこれと考えて来た。

肉感的なセックスシンボルか、単なる容姿端麗なお嬢様か、

はたまた新たな前向きな視点を得るきっかけとなった
右脳にインスピレーションを与えてくれた女性のことか? 

おぼろげながら、
やっと謂わんとすることが分かって来たような気がする。

自分にとっての一番の女性とは
自分自身が全人格を賭けてそう決めるものなのだ。

物事の定義や理論を明確にすることは大切なことだけど、
そればかりでは哀れな左脳人間で終わってしまうことを
暗に戒めているのかもしれない。

一族の中興の祖である祖父の教えとは
柔軟性に富む発想の転換を示唆しているような気がして来ている。

この二行詩から成る家訓はロジック思考を貫いてクソ真面目に
額面通り受け止めるものではないと思う。

行間を通して感性で読み取れ! 
という厳かな声が天から聞こえて来るようだ。

左脳では上手く割り切れないことも人間関係においては重要な真理だと・・・

おまえは「民族派」なのか「同化派」なのか?
という自らのルーツと現在の生き様が拠って立つ志向も同じだろう。

我が半島とこの島国の間には暗黒の植民地時代に遡って今日まで、
その時々に微妙な状況というものがあり、
それはこれからもずっと続くこと。

現状分析に精を出すのも大いに結構だが
最後は右脳も左脳も全て狩り出して
己の全人格を賭けて全身全霊による直勘で決めれば良いことだ。

ただ大よその場合は、特に不特定多数を前にする時は、
二番目の志向を表に出しておいた方が何かと無難なのでは・・・ 

いわゆる賢い選択というやつだ・・・

・女性=志向=主義主張。
・結婚=建前=表の顔。
・友人=本音=裏の顔。

というイメージに置き換えて解読しても良いかもしれない・・・


成功者に対する世間からのやっかみは付き物だ。

二枚舌という良からぬ批判もあるにはあった祖父だけど、
おそらく本心ではバリバリの「民族派」だったに違い無い。

強硬な一番目の志向をひたすら隠して、
柔軟な「同化派」を装って、この閉鎖的な島国で
精力的ながらも注意深く行動したことで大成功のきっかけを掴んだ
微妙な人生経験から生まれたのが、

この二行詩からなる賢者の教えなのだろう。

・・・ が、どうせ守らなくてはいけないことなら、
本性を隠すとか、二枚舌などという
後ろめたい雰囲気は排除したいところだ・・・ 

今こそ、この島国留学で自己の体内に培われた
精神モード変換システムにスイッチを入れる時ではないだろうか・・・

これから地球や宇宙にどんな異変が起きようとも、
永遠に我が身を縛り続ける絶対的な家訓なのだから、
もっと夢とロマンを持って、
美しく飾り立てて解釈しても良いのではないだろうか? 

我が一度限りの人生街道を、
より楽しく、より豊かに、
より実りあるものにするために! 

どうせならそうしよう!

永遠に友人のままでいる、
と決めた一番の女性に運良く巡り会えたことで、

我が一族の男としての重要な使命を一つ果たしたと考えれば良いのだ。

良くも悪くも多いに経験を積んで感性を磨いて、
そういう風に思える女性と巡り会うような生き方をすること自体が
祖父から課された義務だったのだ。

それに、まず一番に出会わない限り
二番目は無いのだから・・・ 


我が偉大なる祖父にも、ご多分に漏れず、
自身の青春を象徴する甘く切ない出来事があったに違いない! 

何かの弾みで素敵な一番の女性と巡り会ったものの、
複雑な事情が絡み合って
最後まで一線を越さずに友人のままで終わってしまって・・・ 

暫くは男として後悔の日々が悶々と続いたが・・・ 

ずっと後になって、結果的にはそれで良かったのだ、
と思えるに至った熱い経験と確信があるからこそ、
孫の俺にまで冷めずに伝わって来ているのだ。

その祖父と同じ体験をすることは、
一族の男子として必須の通過儀礼だろう。

そして「永遠の一番」との思い出を心に深く刻みつつも
普段は奥にしっかりとしまっておいて、

妻や幼い子供の前では
あたかも一番の女性などいなかったかのごとく振舞って
気丈に生きていくことが世襲とされる尊いスピリットなのだと考えたい。
 

やはりこの時間帯しかないだろう。
モニカの顔を見ないで別れの挨拶が出来るのは・・・

始発電車が動き始めて街が徐々に目を覚まして、
この島国を跋扈する無邪気なお嬢様たちの能天気な一日が始まる頃に、
ストリートでの仕事を終えた彼女は衣装部屋に歩いて帰って来る・・・ 

ハイヴに冒されて弱り果てた身体で
昨夜も働くことが出来たのかどうかは知らないけど、
いずれにせよ、この時間帯ならまず蒲団の中だろう。


「オッス! 
予定通りさぁ~、暫くの間、
兵役で国へ帰るんだけどさぁ~ 

まあ、誰でもいいんだけど、
この衣装部屋にさぁ~ 留守番の人が必要なんだよ! 

勝手を言って悪いんだけどさぁ~ 
暫く居ない間だけ、
お留守番、よろしく頼むよ!」



早朝いきなり衣装部屋を訪れて、
蒲団を被って丸くなっているモニカに向かって、
思わず惚けたような口調で語り始めている。

それにしても・・・ 
最近は本当に、部屋で一人辛そうに、
地べたに蹲るように寝込んでいることが多くなって来たな・・・ 

やっぱり、もう長くはないのか・・・

今、この世で一番大切な愛すべき女性と、
人生で最後の会話をしている。

もう彼女と直に話をすることは永久にないだろう・・・


『オーケイ! 分カッタ! 
気ヲツケテ帰ッテネ! 

ソレカラ、貴方! 
イツカ将来、
地球ノ反対側ニモ、来テミテヨ! 

カルロス、
待ッテルカラ・・・』


蒲団の中からモソモソと、彼女の静かな肉声が、
まるで俺に宛てられた「遺言」のようにも聞こえて来る。

どうやら、この俺が、地球の裏側まで
愛する一人息子のカルロスに会いに行くことを望んでいる様子だけど・・・

一体、何をどう隠し、何をどう伝えるべきなのか? 
それとも、見たもの聞いたことの全てを、ありのままを、
一切包み隠さず、脚色無しで伝えるべきなのだろうか・・・

ただ一つ、重く受け止めなくてはいけない事実がある。

永遠の眠りに入る前のモニカが、生前、最後に接した生身の人間は、
今の、まさにこの瞬間の、この俺ということだ・・・ 

ある一人の素晴らしい女性の最期の瞬間に
最も深く関わった者だけが肌で感じた尊い何かを、
彼女に所縁のある人たちへ、
魂を込めて語り継いでいくことが出来るのは、この俺だけなのだ。


蒲団の中で軽く寝返りを打った彼女は、
既に気持ちの整理を終えている・・・ 

これからひっそりと状況を見計らって、
残された全精力を投入して、ハイヴ感染による死という
「不名誉な死因」だけは断固として回避する行動に打って出ることだろう。

最期は自らの選択として
肉体と精神を解放させる手段を潔く行使するに違いない。

もう何も投げ返す言葉が出て来ない。
出来る限り速やかに部屋のドアを閉めることで精一杯だ・・・

悔しいけど彼女は逝く。
誰にも止められない。

モニカはもうすぐ
ボロボロに疲れ切った彼女の肉体から静かに離れていく。
全てを自らの意思とさせるために・・・

だけど俺の中では永遠だ。
永遠に輝き続けるだろう。


- The End -


by Chong





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