めらんこりあ


 特に書くようなことはない。ただ、他の人の日記を見て「いいなぁ」と思うと何かを書きたくなるフシがある。

 そう言えば、フロイトを読んでいる。「喪とメランコリー」という鬱病についての解釈が書かれてるのを今日はたまたま読んだ。いろいろな意見が書かれているけど、鬱病は自我と自我が対立している状態らしい。自分が自分をきびしく責め立てているあり方。そして、その責め立てる言葉は本当は自分ではなく、自分が失った誰かや何かに向けられるべき怒りらしい。

 その怒りが発生するためには、その誰かや何かをすごく強く愛していないといけない。愛しているからこそ、怒りが湧くということなのだろうか。意識的には自我 vs 自我だけど、無意識ではある人や何かの喪失が憎悪と愛のドラマを作っているような感じだと思う。

 だから、鬱病の治癒はフロイトによると自分が強く固着した誰かや何かを愛することを止めることらしい。そうすれば、ドラマはなくなり、自我はもとに戻る。

 ところで、僕はフロイトを信じていないところがある。家族好きすぎとかね。この話であなたの鬱が治りますなんて僕は口が裂けても言えないけど、示唆に富むなあとも思いました。

 まあ、最近自我がいい感じというか、前よりも安定している気配がある。悩んでいたことやその人のことがいい感じにどうでも良くなったことと関係がある気もする。いい感じにドラマはなくなったのかしら。

 あと、母親とどう関係するか。母親は僕のことを愛していると機会があればアピールする。ただ、それは歪みな気もしていて、高校の頃にどうして私を愛してくれないんだと泣きながら激詰めされたり、包丁を持って泣きながら脅されたりした。

 祖母が死にかけている時、最後に一目会うことができた。もうほとんど意識はない。人工呼吸をつけて、ベッドに横たわっている。僕は直感的にもうこれで会えるのは最後だなと思った。「今生きてられるのはおばあちゃんのおかげだよ」とたぶん聞こえてない祖母に言った。実際にそうだから。母親の愛し方よりも、たまに会う祖母が僕に向けてくれる愛情の方が実のところ、他人と関わる時の僕のモデルになっているから。

 それを聞いた母はブチギレて、泣きながら「どうして私を認めてくれない!」と喚きはじめた。さすがにひいた。いや、ばあちゃん死にかけてるんだけど…。ばあちゃんは死にかけてる状況で言い争っている僕らを見てどう思うんだろう、とか考えていた。

 母親を考えるとき、難しいのは僕のことを愛していたのはたぶん本当だろうということだ。金銭的な援助を多くしてもらったし、たくさん助けてもらった。そのことに関してはありがとうと書いておこう。だから自分は親不孝な悪い奴なのではないかとたまに考えたりもする。親に好かれる自分を演じてみたくもなる。まあ、結局そんな演技できないので、やばい喚き合いが発生するのがオチなのですが。

 でも、やはりそれは歪みでもあったのだと思う。息子の僕への強い固着。メランコリー。その固着を僕はどこか引き継いでしまった節がある。僕の人間としてのややこしさ。

 だから、今後もそんなに関わらない方がお互いにとって幸せということなのだろう。結論が出た。

 そして愛について。エロスとアガペーとか、恋は下心で愛は胸に心があるとかという話よりも、別の二つの愛の区別がだいじなんじゃないかと思いつつある。

 劇場型の愛と草木を愛でるような愛。和歌も漫画やアニメ、J-POPとかも基本的に恋愛を称揚する。ただ、ドラマティックな恋愛は病んだものだとも思う。そして人はドラマティックなものを好みもする。そんなに推さなくてもいい。恋をしなければ人にあらず、みたいなのはよくないよね。なぜ、みんな推しているのかといえば、生存本能とかもあるだろうけど、ある種の洗脳なのだと思う。その方が儲かるから。資本主義。バレンタインとチョコ会社。 

 これからは草木を愛でるような愛を大事にしたいよ。穏やかな愛。それをうまく言い表すための言葉を持っていない。
 愛の男だよ、僕は。いや、性自認を中性にしたのだった。愛の中性だよ、僕は。

 そんなくだらないことをだらだらと書いてしまった夜。


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