ストリート、アート、最大少数の最小不幸


面白いトピックだったので色々考えた。
まあ、なにを目指して音楽をやってるのか、なにを表現したいのかだよね。

商業的な成功がゴールなら、ネットを活用してファンを増やすやり方の方が短期的な効率はいいんだろう。しかし路上でやり続けてコアなファンを獲得していったSus4みたいな例もあるし、そもそもストリートでやること自体が「表現」であるアーティストも多いだろう。個人的には、「禁止されてる路上でやるのはいけないからやらない」みたいなアーティストなら、たぶんその音楽を聞こうとすら思わないかな。

本題。

「人に迷惑をかけてはいけない」が行き過ぎた結果、皆ほんとうにお行儀が良くなってしまった。ベンサムが唱えた功利主義は「最大多数の最大幸福」を目指すべきという話だったから、「多数が路上の音楽を愉しむのであれば、少数がうるさいと思っても多少は我慢しましょう」となるはずなのだが、少数の声に敏感に反応しすぎて「たとえ1人でもうるさいと言う人がいたら楽しいことも全部やめる」になってる。

これはつまり「最大少数の最小不幸」を実現することに社会が縛られているわけで、生産性という観点からみても、幸福論の観点からみても、極めて不合理だろうと思うわけだ。幸福度ランキングで最底辺あたりをウロチョロしてるのもむべなるかな、である。

ルールは本来、対立する複数の当事者の利害を調整するために設定されるものだから、「うるさい」なら「音量をここまで下げましょう」とか「何時までにしましょう」とかでお互い譲歩し合って落とし所を見つけるものなのだが、最大少数の最小不幸を目指してしまうと、もうとにかく議論も面倒だから全部禁止!になりがちだ。公園の遊具も「危ないから機構を改善」ではなく「撤去」だしね。

そんなわけで、僕もストリートで爆音鳴らしてるエゴセントリックなヘタクソは馬鹿野郎と思うけれど、ストリート全般の音楽文化はむしろ保護して伸ばすべき、という考えである。高円寺なんかいい街だよ。

YouTubeやTikTokからアーティストが出てくるのもいいけど、地元の路上から出てくるのも楽しいじゃない。

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