「凡庸な悪」と若者への期待

たかまつなな氏のように、若い人が国のことを考えて行動することは、たいへん好ましく思うし、応援したいとも思う。だから、この記事も「応援」だと思ってもらいたい。批判的ではあるし、読者の心理的安全も保証しないが、僕はあのオトキタですら当初は好意的に応援しようと思っていたぐらい若者には甘いと自認している。怖がらずに読んでほしい。

さて、たかまつ氏が最近また作った動画が話題である。言いたいことはわからなくもない。また方々から叩かれて意固地になる気持ちもわかる。だが、ここまでの主張や行動を見るにつけ、「凡庸」としか評価のしようがない。動画に出てくる高齢俳優を庶民に設定しているとか、世代間対立を煽っているとか、色々と詳細な批判はあるが、それ以前に「凡庸」なのではないか、と思う。

内面的な軸がないまま中立を意識するせいで一貫性のない行動をとっているように見えるし、心理的安全とやらを免罪符にするから批判を真摯に受け止められないように見えるし、とはいえ成り上がりたい承認欲求は強いからなんか役を貰えそうなところには後先考えずに飛びつくように見えるし、というあたりが凡庸に見える理由なのかもしれない。

若者がまだ凡庸であることは、そんなに悪いことでもない。が、それはハンナ・アーレントの言う「悪の凡庸さ」ぐらいは認識して、自分がそこに落ち込まないように戒める態度があれば、の話である。

偏った視点から見た景色で診断を下し、間違った処方箋を書き、プロパガンダ映像を作って流布する。間違っていると批判されると「私は努力しているのだ」と主張する。かつてユダヤ人と共産主義者が悪だと言って暴走したチョビヒゲと同一視するつもりはないが、まあその手法とその偏り方のヒステリックさは引っこめておくほうがいいだろうと思うし、そこに気が付かないのは凡庸さ故だろうなと思う。

国を、社会を良くしたいのだ、という想いは評価する。凡庸なのも若さ故であるからさらに努力すれば克服可能だ。ただ、今のままの歩き方では、その凡庸さは払拭できないし、いずれ「凡庸な悪」に堕するだろう。

たかまつ氏に限らず、若者が自ら次の社会を希望的な方向に向かわせてくれることに、僕は期待している。

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