栄光と破滅。ボー・ブランメルの人生
ダンディという言葉は日本では地位が高く、身なりのよい紳士的な男性を指すのに使われるけれど、イギリスでは揶揄のニュアンスをも含み、褒め言葉として使うには不適切とも言われる。
その価値観を体現したのがジョージ・ブライアン・ブランメル。通称『ボー(伊達者)・ブランメル』だった。
ブランメルの祖父は高級売春街として悪名高いバリーストリートの菓子職人で、立地を活かし、娼館に通う上流階級にいっときの宿を貸す事を副業としていたところ、初代リヴァプール伯爵チャールズ・ジェンキンソンと知り合う。リヴァプール伯は若い頃のブランメルの父ウィリアムに目を掛け、大蔵省の事務官に登用した。これがブランメル家が伸びるきっかけとなり、ウィリアムは菓子職人を辞めて政界に進み、上流階級の優れた従者として社会的地位を上昇させ、最終的に首相の個人秘書として政治キャリアを終えた後、地方の法務官に就任した。
一代でワーキングクラスからミドルクラスまで上り詰めたウィリアムは自分の息子達に望みを託し、エリート教育を施す。
「お前達の代でアッパークラスに食い込め!」
元はワーキングクラスだったブランメル家は社会的地位の上昇と共に転居し、政治家や上流貴族が訪れるようになる。幼い頃からブランメルは彼らの立ち居振る舞いを観察し、やがてエレガントな所作を自然体で熟せる程となった。しかし上流階級と言うものを間近で見てきたブランメルはやがてフラットな目で彼らを見つめだす。
「父はアッパークラスに喰い込めと言うが、本質的に何が違うのか分からん。ただ、生まれに恵まれただけではないか。高価な服を着てはいるが、それだって誰かの受け売りに過ぎない。自分で選択した訳でもなんでもない……
一体、あいつらは何故ああ言う服を着ているのか、自分で説明がつくのか? 従者に言われるがままに着てるだけなんじゃないのか?」
流行や慣例に流されるまま、信念もこだわりもなくただ豪奢な服を着る上流階級をブランメルはやがて見下し、自分だけのスタイルを追求し始める。
「孔雀ではあるまいに、華美すぎる。俺は金持ちですと大声で宣伝して回る事のどこに美学がある。一見して地味で、分かるやつに分かればそれでいい」
ブランメルは流行から距離を取り、独自のファッションを追求し始める。やがて父ウィリアムが上流階級入りを目論んで貴族達の通う学校であるイートン校に彼を送り込んだ時、彼は平民にも関わらず学生達のファッションリーダーとなった。
「男でも惚れちまうよ。なんて美男子だ」
非の打ち所がない身嗜みに、完璧な所作、口数は少ないものの、口を開けば溢れるウィットに富んだ言葉の数々。物憂げな表情の美男子はやがて気取り屋(バック)ブランメルと呼ばれた。
「あれが噂のブランメルか! 平民と聞いたが、振る舞いの優雅さは貴族以上ではないか!」
後の国王ジョージ四世である皇太子ジョージが紹介を受けてブランメルに会いに来た。普通の人ならば縮こまるような状況でもブランメルは平静を保つ。
「仰々しいな……。ところでウェールズ(プリンスオブウェールズ、皇太子の別名)、ドアを閉めてくれよ」
その場に居合わせた全員がポカンと口を開ける。ジョージ皇太子は一撃で魅了された。
「噂以上だ! どうか私の友となってくれ!」
こうしてブランメルは皇太子のお気に入りとなり、名家の子弟だけが所属する事を許される王立第10近衛軽騎兵連隊に所属を命じられた。この連隊は皇太子直属であり、軍隊と言うよりは皇太子を中心とした社交界で、その最大の花形で皇太子のお気に入りこそがブランメルだった。ブランメルは軍務の一切を免除され、やりたいようにやらせろとジョージ皇太子直々に許可される。貴族だらけの近衛隊がブランメルに魅了されるのに時間は掛からなかった。ブランメルのファッションセンスと知性はたちまち有名になり、彼と会話の機会を持つ事そのものがやがてステータスとなる。しかしブランメルはと言うと、自由放任であるにも関わらず軍隊生活が詰まらない。
「どうも軍服と言うのは気に食わん。何故この俺が真っ赤な制服など……」
皇太子の引き立てでブランメルは何の業務もこなしていないのにトントンと階梯を登り、僅か一年で大尉まで昇進する。しかしロンドンを離れてマンチェスター行きを命じられた時、ブランメルは遂に嫌気が差した。軍人を本気でやりたい訳じゃない。
「マンチェスターだと!? 皇太子殿下、はっきり申し上げるが不服極まりない! あなたのお引き立てでこの地位まで登りましたが、私にとっては何の価値もない。故にこう言いましょう。ブランメルは売り切れです!」
当時、イギリス陸軍では士官の地位は売買の対象であり、ブランメルは大尉の地位を売却する事で軍隊を辞めたんだけど、それを『売り切れ』と表現したウィットはジョージ皇太子をニヤリとさせた。
「はは、売り切れか。それは参った。なら新しいところで新商品を出して貰わねばな」
こうしてブランメルは軍隊を辞め、彼にとって本当の舞台である社交界へと躍り出る。この頃、父ウィリアムが亡くなり、ブランメルは3万ポンドの遺産を継承するも、その全てをオーダーメイドのスーツと、貴族と違わぬ豪奢な生活に費やした。
そして彼自身は何の収入も持たない。ブランメルは生涯労働を忌避した。
ブランメルの伝説が始まる。
洗練された立ち居振る舞いと抜群のウィット、天性の容姿に、流行や慣例に刃向かうような、シックでありつつさりげない品の良さが表現されたファッションは上流階級を虜にする。誰もが競ってブランメルの真似をした。上流の上流ですら彼の前では頭を垂れた。
「み、ミスターブランメル、その、私のコートを見て頂きたいのだが……」
イギリス最上級の貴族であるベッドフォード公が恭しく頼み込む。対するブランメルは冷たい。
「ベッドフォード、一回りしてみてくれ」
公爵を呼びつけにした挙句、一回りさせてブランメルはやれやれと肩をすくめる。
「これが服かい?」
誰にも媚びない、寧ろ地位が低いにも関わらず周囲を魅了し模倣させるブランメルはやがてボー・ブランメルと呼ばれる花形となり、『トン(ル・ボン・トン。フランス語で『良いマナー』)と呼ばれるイギリス最高の社交界の主人として君臨した。ブランメルが来ないパーティは失敗とされ、上級貴族達は威信をかけてブランメルをパーティに招待する。ブランメルは平民であるにも関わらず、名家の集う三つのジェントルマン・クラブの会員となり、うち一つは終身会長に任じられた。
ブランメルは生まれがいい訳でもなければ、軍人や政治家として結果を残した訳でもなく、資産家でもない。ただ、ファッションセンスによってのみ上り詰めた人で、こんな人は当時のイギリスでは初めてのことだった。
「何にも基づかず、己自身の魅力によって上流貴族はおろか、王族まで征服する。間違いなく当代超一流の人物だ」
詩人バイロンはブランメルをナポレオンよりも上位の人物と位置付ける。戦争しなけりゃ何も残らないナポレオンより、たった1人如何なるバックボーンなしでも魅力的なブランメルは正に魅力の塊。
しかしブランメルの名声はあまりに大きくなり過ぎた。やがてその人気は王家すら凌ぎかねない程となる。折りしもジョージ皇太子が狂気に陥った父王ジョージ3世に代わって政務を引き継ぎ、摂政皇太子となった頃。
昔のように無責任に騒げないジョージ皇太子はストレスを抱え、ある日ブランメルを不躾に扱う。ブランメルと話していた貴族には挨拶したものの、ブランメル自身は無視して離れた。
この時ブランメルは堪える事もできた。ブランメルは目端の利かない男ではない。嫌々でも軍隊に入ったのも、マンチェスターに行けと言われて断ったのも、全てはジョージ皇太子の寵を得るため。言い換えると利用するため。実績ではなく魅力で己を売るブランメルには極上の鑑賞者が必要だった。
ではジョージ皇太子には全面服従すべきか。
「ボー・ブランメルならどうする?」
そう自ら問うた時、ブランメルの決断は速やかだった。
「おいキミ、今キミに挨拶したあのデブは誰だい?」
かつては美男子だったジョージ皇太子は女と酒と食に溺れて不摂生の中にあり、ビア樽のような腹回りとなって密かに嘲笑の的となっていた。
(誰もが思っていても言えなかった事を言うとは。にしてもやり過ぎでは……)
ベッドフォード公を罵るのとは訳が違う。ブランメルは皇太子の寵を投げ捨てた。それでもブランメルは依然として社交界の寵児ではあったものの、以前の彼にはあった無限大の社会的信用性は消えた。何があっても皇太子がいるのだから、と収入もないまま大貴族並みの生活を送るブランメルにお金を貸し続けていた人たちは不安になる。ブランメルは己の美学に従い、自重するとか損切りするとかそう言う選択は決して取らない。売られた勝負は必ず買うブランメルはギャンブルで多額の損失を負った。
「お金を返して下さい!」
ある日唐突にブランメルと言う株は暴落し、大勢から彼は返済を詰め寄られるようになる。当時借金は犯罪だったので、債務者監獄行きが明らかになると、ブランメルはフランスに逃亡した。既にヨーロッパ最大の伊達男、ファッションリーダーとして高名だったブランメルはここでも大人気を博するものの、結局同じ事を繰り返して大借金を重ねる。ブランメルはたとえ破滅に向かっていると知っていても、身分の上下なく人を揶揄したり、家族と張り合って豪奢な生活を送ったり、高価なオーダーメイドのスーツを新調したりする事はやめられなかったし、権威に阿ったり、売られた喧嘩を回避する事はできなかった。
何にも基づかず己の魅力のみで地位を引き上げたブランメルは、自分の魅力を損ねるような事はできない。
借金まみれの彼を案じて国王となったジョージ皇太子がフランス総領事の役をブランメルに割り振る。最後の友情だった。ブランメルは特に感謝しなかった。
「あれはそう言うやつだ。余がやったのは、お節介というやつだ」
ジョージ四世は納得する。ブランメルはそもそも職に就くこと自体を嫌がるような人間だった。
「お前がクラヴァット(ネクタイ)を結ぶ美しさを今でも思い出す。すまんな、余はここまでだ」
ジョージ四世が没すると、跡を継いだ海軍育ちで無骨、真面目なウィリアム四世はブランメルのような伊達者にまるで価値を見出さず、総領事の職はやがて廃止される。ブランメルはたちまち無一文の借金まみれとなり、更に言い寄ってきた女を若い頃から片っ端から抱いてきた弊害によって梅毒が頭に回り、鬱を患って精神病院送りとなる。やがて彼はネクタイも結べなくなり、スーツも分からなくなって、人知れず貧困の中死んだ。歴史に残る美男子の、我を貫いた末の見事なまでの野垂れ死にだった。
破滅に向かっているのは承知の上で、自己陶酔を貫き、自らの美学を死ぬまで徹底したブランメルの人生はダンディの典型とされ、故にダンディと言う言葉はイギリス英語において揶揄のニュアンスを帯びる。賢い生き方ではない。
しかし蔑称ではない。小利口な生き方を放棄して、自己のスタイルを貫く反骨の精神は今でも人の心を打つ。
揶揄や皮肉をやる人は厄介なもの。でも、本当に厭らしい人は人によって態度を変える人。
ブランメルは自らのパトロン相手であれ、確実な破滅が待ち構えていると知っていても、追従を拒否した。これこそがダンディズム。
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