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イギリス貴族とその序列。

 貴族ってパーティーの席次を巡って争ってそう。

 そんな庶民的な偏見があるけど、そうした争いが起こらないよう、序列と言うのがある。最もよく知られているのは公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5つだけど、王族に関しては別格なのでたとえ称号としては伯爵でも公爵より席次が上と言う事もある。

 臣民貴族の場合は勿論公爵が筆頭で、最下位が男爵。その下に『貴族ではない』と定義される世襲の称号である準男爵と、一代貴族やナイト爵が続く。今日はこの辺を話していきましょう。

 公爵(デューク)

 最高位の貴族で最も格式が高い。イギリスに現在27の公爵位がある。語源は古代ローマ帝国時代のデュクスで、複数の軍団を束ねて指揮したり、属州の中で最も権威がある人間を指した。

 イギリスにとってはフランスから輸入された爵位で、創設は伯爵、男爵に次ぐ3番目。中世盛期のフランスではフランク帝国が弱体化して後、支配下の諸侯が各々自立して独立性を高めるんだけど、やがて彼らは古代ローマから引き継がれた軍司令官・行政官を意味するデュック(Duc)を名乗り、フランス王国内における国内国家を形成し出した。中世を通じてフランス王家は中央集権を成し遂げるためにこうしたデュック達の国、『公国』と戦いを繰り広げる事になるし、何ならイングランド王家プランタジネットすらもそうした公国の支配者のひとつだった。

 翻ってイギリスではウィリアム1世征服王が速やかにイングランドを征服したので、国内国家が形成される事もなく、デュックを名乗る人達も出なかった。居たのは伯爵と男爵だけだった。

「イングランドには本来、伯爵と男爵以外は必要ない」

 と、第二代メルバーン子爵ウィリアム・ラムは述べている。公爵は最上位の貴族位としてフランスから輸入された称号で、イギリスでは百年戦争の端緒を開いたエドワード3世が長子エドワード黒太子にコーンウォール公の位を授与したのをきっかけに王族のための高貴な称号として始まり、ランカスター公、ヨーク公の両者は百年戦争後、共に王家の血を引く公爵として熾烈な争いを繰り広げた。フランスでは王家のライバルだった公爵が、イギリスでは純粋に格の高い称号として受け入れられたのは面白い。

 臣民公爵はノーフォーク公が初出となり、中世末期、不人気な国王リチャード3世の忠臣だったジョン・ハワードに授けられた。ノーフォーク公は以来連綿とハワード家が世襲する称号となり、最古参の最高位臣民貴族として王族を除く貴族の筆頭にある。

 侯爵以下の貴族の敬称が「卿(My Lord)」なのに対して公爵は「閣下(Your Grace)」で、格別のステータスを誇るものの、じゃあ皆裕福だったり実力者かと言うとそうでもなく、17世紀の国王チャールズ2世の寵姫ネル・グウィンの息子に端を発するセント・オールバンズ公爵はネル自身が余りお金を欲しがらず、寧ろ貧しい人に施すのに熱心だったために貧乏公爵としてスタートし、盛り返す事もなく、21世紀の今日では事実上中産階級としてサラリーマンをやってる。

 侯爵(マーキス)

 イギリスにあまり必要性のない称号。創設は公爵に次ぐ四番目で、フランス経由でドイツからの輸入品。

 語源は辺境伯(マルクグラーフ)で、文字通り辺境の国境警備を担当し、キリスト教化が進んでおらず、価値観が異なる異民族や、ライバルとなる大国と接するため、広範な権限が認められていた。

 イギリスで導入された際も同様の役割が求められ、イングランドにとっての潜在的な危険国であるウェールズ、スコットランド国境に張り付けられる予定だったものの、やがて伯爵との境界は曖昧となり、公爵位を濫発出来ないものの、伯爵で済ませては納得できないだろう人達のための称号となったり、或いは公爵位の持ち主の従属的な称号となった(父が公爵位を、後継者が侯爵位を保有する。後継者がいない場合は両タイトルを1人が共に保有する)。

 中世末期、薔薇戦争の頃には功績のあった家臣に与える土地がないので代わりにと侯爵の位を授けたものの、ステータスに見合わない土地収入に不満を覚えた貴族が反乱を起こしたりしてる。また、19世紀にはドイツ系の血が濃いヴィクトリア女王がドイツには山ほどいる侯爵や子爵の数がイギリスには少ないと述べ、廷臣がそれらはイギリスでは輸入品なので少ないのですと答えている。


 伯爵(アール/カウント)

 最も古い貴族の称号。貴族と言えば伯爵だけど、面白い事に英語には伯爵を意味する言葉が二つあり、国内の伯爵をアールと言って、外国の伯爵をカウントと表現する。

 アールの語源はノルマン朝以前、9世紀、デーン人(バイキング)の影響が強いウェセックス朝時代のエオールに由来し、エオールは国王に次ぐ強い権限を与えられていたものの、中央集権志向のウィリアム1世征服王は名前だけ踏襲して権限を削減し、フランス流の伯爵(コント→カウント)と同様の扱いとし、中程度の領地を管理する貴族とした(それでも13世紀末までは王族を除けば最高位の貴族だった)。謎なのは伯爵夫人の称号で、イギリスの伯爵はアールなのに夫人はカウントレスで称号が一致していない。これは他の称号にはない事で、何故そうしたのかは不明。

 ウィリアム1世の代はイングランドにとってデーン人の文化から大陸、特にフランスの文化に切り替える大転換点で、大陸から見ると半ば異質な存在だったイングランドはどんどんフランスに近づいて行く事になるけど、爵位の授与や封建制度の採用はそれ以前とイングランドをガラリと変える。必要もないのに公爵とか侯爵とか言う称号を取り入れたり、エオールをカウントの水準に合わせたりと、この頃のイングランドはフランスを模範として自らを進化させようとしているように見えて、何やら懸命に遣唐使を送っていた日本を彷彿とさせる。

 子爵(ヴァイカウント)

 イギリスに余り必要のない称号。フランスからの輸入品。制定されたのは五つの爵位のうちでは最も遅く、伯爵より下で男爵より上程度の儀礼的な意味合いしかない。語源は『副伯』で、伯爵の秘書的な仕事をしていた人達がこの称号を元々帯びていたものの、やがてフランスでもその役割は文官なり廷臣なりに引き継がれ、儀礼的なものとなる。

 イギリスには270ほどの子爵位があるものの、殆どは従属的な称号で、伯爵など上位の称号の持ち主が同時に保有するタイトルである事が多く、単独で子爵位を持つ人は余りいない。因みに有名な映画監督のヴィスコンティの名前の由来はイタリア語読みの子爵。

 男爵(バロン)

 伯爵に次いで制定された称号。語源は古ゲルマン語のバロ(自由人。ゲルマン民族は土地を所有する社会の成員である自由人と、その監督下にある半自由人。奴隷の三身分で構成されていた)。

 封建制度をイングランドに持ち込んだウィリアム1世は彼と共にノルマン・コンクェストを成し遂げた家臣達に土地を分配し、やがてそうした土地はバロンズと呼ばれるようになる。これは男爵領と言う意味ではなく、封建領主全般を意味した。即ち伯爵もまたこの時点ではバロンの一角であり、伯爵は大バロン、その他は小バロンと呼ばれてたので、この時点のバロンは男爵と言うよりは諸侯と言った方がしっくりくる。

 やがて公爵、侯爵と大陸から新たな爵位が導入され、爵位の細分化が始まると、上位層の貴族を中心に小バロン達は取り巻くようになり、やがてその名は貴族の最下層を意味するようになる。これまた大陸の制度に自らを合わせた結果ね。因みに男爵は他の爵位と異なり、○○卿と称される事が非常に多く、○○男爵と呼ばれる事はほぼない。何なら下位の称号である準男爵は○○準男爵と称されるのに(もっとも準男爵はLordではなくSirが敬称だけど)。

 これはバロンが元々諸侯一般を指す言葉だった事に由来し、封土の領主(Lord=卿)即ちバロンだった頃の名残。なのでイギリスの歴史上でもナントカ伯とかナントカ侯はよく見るけど、ナントカ男爵は余り見ない。大体はナントカ卿と表現される。こんな風にイギリスの貴族は伝統的に卿(Lord)以上を指し、地主であり、地代収入で生活できねば貴族にあらず、と言う風潮は20世紀まで続いた。ためにヨーロッパ最大の金融家であるロスチャイルド家ですらヴィクトリア女王は叙爵に躊躇し、男爵位を授けたのはロスチャイルド家が多くの土地を買収して領主のイメージに近づいてからだったし、前述のセント・オールバンズ公爵も20世紀までは体面を保つために何としても土地と邸宅を維持し続けた。


 同じ爵位だとどちらが偉い?

 公爵から男爵までの序列は明らかとして、同じ爵位だとどちらが偉いか?

 これは年功序列で、歴史が古い家の方が序列が上となる。ただしこの辺も少しややこしく、古くからある称号でも創設は新しかったりする事がある。たとえばベッドフォード公爵と言う公爵位の設立は百年戦争の頃まで遡るけど、これは一代で廃絶しており、そこから三百年近く経過して全く別な家に叙爵されたのが現行のものとなる。ために同じ爵位称号なのに何度も初代が出たり、家が入れ替わったり、少しややこしい。知名度の高いバッキンガム公爵なんかは歴史を通じて四家が入れ替わりその地位に就いてる(現在は存在しない)。日本人的な感覚からすると、信濃守とか、尾張上総介とか、そう言う役職を世襲する感じかな。

 爵位称号は年功序列だけど、これも段階があって、イングランド貴族>スコットランド貴族>グレートブリテン王国貴族>アイルランド貴族≧連合王国貴族と言う序列がある。1707年合同法で合併してグレートブリテン王国になるまではイングランドとスコットランドは別個の国で、それまでにそれぞれの国で叙爵された貴族家はイングランド貴族、スコットランド貴族と言う分類で、1707年以降の叙爵はグレートブリテン王国貴族という分類になるけど、それはより古いイングランド貴族、スコットランド貴族より下位の序列となる。そしてイングランド貴族はスコットランド貴族より序列が上。

 1801年にはアイルランドも連合王国に統合され、アイルランド貴族という分類ができる他、連合王国貴族と言うカテゴリーにグレートブリテン王国貴族が変化する。イギリスの貴族称号は異なる国家、時代を経て現代に至っており、かつて貴族制を保有してたフランスや日本と異なり、それはまだ現役のものとして残っている。

 イギリスは正規貴族の数を絞る一方、その格式を維持し、社会に貢献した専門職の人たちを一代貴族として取り上げ、選挙に左右されない貴族院議員に登用し、ポピュリズムに対抗している。民主主義の欠点である衆愚へのイギリス流の解答と言えるかもね。

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