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哲学思想日記 2023-W18 — あいさつ運動について

2023-05-01/07


Nietzsche について

Nietzsche の哲学と晩年の狂気とはまったく関係ないだろう. たとえば哲学者が心臓発作で死んだとき, その人の哲学と心臓発作を結びつける人はいないから. 心臓か脳かの違いに過ぎない. というか, たしかに道徳論とキリスト教論は第一級だけど, その他はそこまで変わったことは言ってないしね.

ちくま学芸文庫でニーチェ全集を読んだ. 初期キリスト教著作集と少年期の日記には同情してしまった. キリスト教というのは大変な宗教だと思う. 日本でお寺の子供に生まれてもああなる人は滅多にいないだろう (『こころ』のKくらい?).

人生とは演劇である. Nietzsche によれば Augustus も臨終で「劇は終わった, 拍手頂戴」と述べたらしいし, Derrida もたぶんそんなことを言ってるんでしょう. では問うが, 演じることを演じることは可能か?

「道徳について考えすぎると健康に悪いよ」という重大な事実はなんと人類史上 Friedrich Nietzsche くらいしか言っていない. キリスト教も言を俟たず精神衛生に悪いが個人的には道徳の方が共苦の健康被害が大きい. FN はキリスト教と酒を類比したが宗教には一応陶酔の快があるのに道徳にはそれもない!

Hegel にピンとくるか Schopenhauer にピンとくるか

19世紀後半〜20世紀前半の西洋哲学者を大ざっぱに分類すると「Hegel にピンときた人たち」と「Schopenhauer にピンときた人たち」に分かれると思う. Karl Marx と Bertrand Russell は前者, Friedrich Nietzsche と Ludwig Wittgenstein は後者なので意外と性格が表れていませんか?

信仰による同情の癒し

今日 [5月1日], 道端に翼か足の折れた鳩がいて, その両隣に2羽の鳩が止まり, 悲しんでいるように, あるいは看取っているように見えた. 同情で私の苦しみが大きくなりすぎないように, 「きっと神様は天国に送ってくださる」と思うしかなかった. 宗教によって同情という苦悩の増大を遮断するやり方もあると思う.

あいさつ運動について

小学校と中学校と高校時代,「あいさつ運動」というものをしなければいけない理由がよくわからなかった. いろんな友達や先生に聞いたが, 一番しっくりきたのは「不審者対策」というものだった. だから私はあいさつ運動のとき, なるべく相手を威嚇するようにあいさつをしていた.

生命倫理について

もし僕が教皇だったら中絶に反対するだけでなくその罪を赦す贖宥状を販売して一儲けするだろうな, と思いました.

道徳と性欲

道徳的に悪い (狭義の道徳: そんな形而上学的な重い意味ではなく, むしろ品格とか徳とか礼節とかに近いかも) ものこそ性欲を刺激するということはよくあるね. もちろんやましさのない健全な性愛の方が健全で心身の健康にも良いだろうが, 罪悪感を植え付けられるとそれに支障が出るので.

メタ倫理的なもの

道徳的実在論の客観性って, 事実として全員が意見一致しているかどうかは関係なくないか ?

仮に, 一般的に道徳的に悪いとされていること, たとえば殺人や強盗などをした後に加害者に向かって空から雷が落ちてくる仕組みだったとしたら, 「死刑/中絶等々は道徳的に善か悪か」などの道徳論争があったとき, どちらへ向かって雷が落ちてくるかで決着がつく.

「殺人は悪である」「怪我人の手当ては善である」などの倫理学的諸命題は単純な「Fx」の述語論理で表現できる. 変項 x が行為であり, 述語 F が善悪の評価.

無実な獣と有罪の人間を比較したとき前者ではなく後者を食べるべきだという道徳判断は普通に常識的にありうるだろう.

【なんとなく、エシカル】道徳とは「なんとなく」のその場の雰囲気に由来するという説. 田中康夫『なんとなく、クリスタル』にちなむ.

「倫理観」という言い方があるが, 「何を倫理的だと思うか」という普通の意味と「そもそも倫理とは何だと思うか」という普通の人は気にしない意味があるね.


Image by hartono subagio from Pixabay

文明の進歩

ぶっちゃけ innovation とか生産性向上とか文明の進歩とかそういうのもFRBの金利次第だよね.

科学哲学と規範倫理

科学哲学はいかにして可能か? 「科学とは何か」という問いへの回答はいかにして可能か? 論理実証主義はいとも簡単に「科学とは〜である」から「科学とは〜であるべき」への自然主義的誤謬を犯したのではないか? もはや科学についての社会学的・人類学的記述以外に「〜とは何か論法」は可能なのか?

復活の希望

大統領にならなかった Nixon は本当に Nixon なのか? Nixon という人格は経験の連鎖によって成り立っており, その1つでも我々の現実世界の Nixon と異なるなら「あの Nixon (that Nixon)」ではなくなってしまうのでは? 他方で「もし Nixon が蘇ったら」と仮定することはできる. 復活の希望はここにある.

John Locke は An Essay concerning Human Understanding の中で「意識」と「記憶の所有」を混同している. つまり, Locke の人格論を前提にすれば, 昨日の私とは昨日の私が記憶を持つ人間に過ぎず, 明日の私とは今日の私の記憶を持つ人間に過ぎない. 同様に, Locke が気づいていたかわからないが, これに従えば, 神に起こされ, 救われ, 永遠の生命を受けるのは今を生きる この私 ではなく, 私の記憶を持つ任意の被造物に過ぎなくなってしまう. Cf. 『論考』6.4312.

予定説と論理的「ならば」

「論理学入門」みたいな本には必ず (野矢茂樹氏の『新版論理トレーニング』にも確か)「宿題をしないならばおやつ抜き」の対偶は「おやつ抜きでないならば宿題をする」になってしまうというパラドクスの紹介がある. 解説としては, これは日常言語の「ならば」の問題なのだとされている.

Jean Calvin の予定説とカトリック的善行義認説の対立はこれに由来するのではないか !? 「善行をするならば救われる」という日常言語の条件説が善行義認説で, 「善行をしているならば救われている」という論理的含意が予定説なのだ !

保守主義・民間療法・自体的価値

保守主義と民間療法は似ている. 伝統だから経験に裏付けされた有用性を持っているという主張は極めて疑わしい. 西洋人は何世紀に渡って瀉血をしてきたというのか ! 有用性を知りたいとき伝統に頼るのは非常に危険だと言わざるを得ない. しかし, そのような, 功利を最大化するための手段としての保守主義を超えて「右翼」になるためには有用性ではなく 自体的価値 が必要なのだ.

学問系の難解さと芸術系の難解さ

「難解」には学問系の難解さと芸術系の難解さがあると思う. 学問系は専門用語とか数式とかを知らないことに由来して, 芸術系はその解釈というか見どころがわかりにくいということだと思う. でも芸術系も教養とか慣れなのかな. 芸術の教養はほぼ皆無なのであまりわからないが.

誰の苦痛なのか, 誰の権利なのか

以前永井均先生が Twitter で「主観というのは誰の主観なのか, 感覚というのは誰の主観なのか気になって哲学書についていけない」と仰っていたが, それを拝読した後だと私も倫理学論文集を読むとき「その苦痛は誰の苦痛なのか, その権利は誰の権利なのか」と気になり置いてけぼりになってしまった.

中島義道氏の連載

中島義道氏の本って4冊 (観念的生活, 哲学の教科書, カントの悪論, 晩年のカント) しか拝読していないけれど, たまたま読んだこの連載面白いな. 哲学科の学部生向けとかに最適だと思う.

かわいくなりたいという悪徳

ああ「かわいさ」! かわいくなりたいという私の卑しい欲望! 助けてくれ! 誰か私のために祈ってください! 私に徳を! 私は有徳な行為者になりたい!

インターネットは馬鹿げている

やっぱりインターネットという仕組みは馬鹿げているね. 電話に譬えると, 受話器の前でホストコンピューターが24時間待機している必要があり, しかも電話が殺到すると鯖落ちする. しかもサーバー代は運営者負担. 出版とも放送とも似ても似つかぬものが未来のメディアだとされてしまった.

Tweeting について

Tweet って流れていってしまって, 記録としてまとめにくいのがやだね. Note かどっかにセルフまとめ作ろっかな.

申し訳ないのですが, Note はしばらく twitter の再放送再編集だけ投稿しようと思います. 私の tweet はだいたい散歩中などのメモに基づくのですが, そのメモの量が少なくないのと, 1日4回 tweet したいという (しょうもない) 自己目標があるのと, 予約投稿なので推敲に労力が取られるので.


2023-06-15
BGM: Pitbull feat. Ke$ha “Timber”

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